見出し画像

ひと昔

十年ひと昔、というのならば、東日本を襲った大きな津波が来た日はもう「ひと昔前」の話になるのだ。

私は被災者ではない。でも、被災者の「家族」だ。

あの日。

私は大阪に帰省している友人から朝の4時に電話をもらった。

「朝早いのは百も承知」でかけてくれた、友達の必死の声。寝ぼけて電話を取った私には、事態を把握するまで、時間がかかった。

「とにかくテレビつけて、それかネット開いて」

その必死に言われるがままに、テレビをつけると、津波の映像が、車を飲み込む黒い塊の映像が見えた。右上にはJAPANという文字。

電話を切って急いでパソコンを開ける、とともに、実家に電話をする。

母は出なかった。母はあの日、映画を見に行ったのだ。映画館であの大きな地震に見舞われた。

携帯電話を何度もかける。何度も何度も。

あの時の何とも言えない不安や恐怖感は今でも忘れない。

やっとつながった時は、母は電車も止まってしまい、地面がぐにゃぐにゃした中で、車が渋滞しているところで、同じ方面に行く親切な女性に助けられ、送ってもらう車の中だった。

「大丈夫だから、うん。今助けてくれた方の車の中だから、うん、家に着いたら、電話するから」

ぷつっと切れた電話。

でも、あの時なぜか声を聴けた安心感以上に、ますます大きくなる不安が大きかったのを覚えている。

母の家は地震でぐにゃっと曲がり、地底1m沈んだ。

閉まることのない玄関のドアから入ると、リビングにつながる廊下はある意味滑り台のようだった。

その現実をこの目で見るまでに3か月近くの時間を要した。

一瞬にして、消えた母の住んでいた日常。知人や友人も数人亡くなり、今まであった「当たり前」の日常、人、時間はすっかり様変わりしてしまった。

そしてこの地震は津波という今まで生きていた人生で経験することのない天災も来たけれど、それに加え原子力発電の爆発という人災も加わった。

そう、この人災が私の日本行きを遅らせた。

地震が起き、その後の二週間は本当に眠れなかった。〇〇したからもう大丈夫、ということがなかったのだ。連絡が途絶え、彼女のいる避難所に、物質が届かないという情報が来たり、と。

あの時はインターネットのありがたさを改めて感じた。見たこともなく、名前も知らない人達に、沢山助けてもらった。もちろん、同じ国に住んでいる長年の日本人の友人たちも、小さな子供を抱えながらも、助けてくれた。一番助けてくれた、名古屋の友人。彼女には阪神大震災を経験した友人がおり、その人からのアドバイスにより、彼女の行動につながったと後々教えてくれた。

経験のバトンだ、と思った。

私が母の元気な顔を見ることができたのは、震災が起きてから約3か月が立とうとしていた5月の末だった。

母はその時、昔の友人の助けで隣町に家を借り、そこで生活を始めていた。彼女の友人が同じ団地に住んでいたことで、私も安心だった。津波で途切れてしまった路線。そこからは先は長距離バスで家に帰る人たち。

私が知っている町の風景とどこか違い、どこか違う日常があった。

私にとっては一瞬ではなかった。地震があった時、津波が来たとき、私はそこにいなかったから。ただ、その前の年末年始に帰国したときと、「状況」が違っていたという事だ。

以前は、田舎な分、駅からタクシーに乗っても、自分の名前どころか、タクシーに乗った時点で「あーー帰ってきたのーー??そういえばお母さんがこの間嬉しそうに娘が帰ってくるって言ってたんだよーーー。子供ちゃん大きくなったねえ」と行き先を告げなくても、タクシーが走り出す、そのくらい田舎だ。

でも、その駅前に会ったタクシー乗り場も、駅も電車すらももう、走っていたなかった。

壊れた家の庭から見た太平洋は以前よりも近かった。けれど、依然と同じように、静かに、ただ青く「いつもの」太平洋だった。

違ったのは、その手前の景色。

違ったのは、そこに住んでいる人。

違ったのは、母の壊れた家。

違ったのは、家の前の道路が陥没し、大きな亀裂が走っているということ。

言葉を失うというのはこういうことだ。

涙すらも出てこなかった。

その後に私がしたことは、赤紙が張られた母の家から、ものを取り出すことだ。

本当は、家の中には入ってはいけないのだ、「危険」だから。赤紙はそれを意味するもの。

でも、「自分のものは自分で処理したい」という母の思いを尊重したかった。ただただ、毎日、家からものを運び出し、ひび割れた道路をトライアスロンの選手のように、登ったり下りたり・・・・。私は気が狂ったように、ものを運び出した。

子供は、たまに近くの自動販売機に母と普段は飲めない「ファンタのグレープ」を買いに行き飲む、というのがお手伝いのご褒美で、小さいながらも手伝ってくれた。

母の友人知人に会いに行った。会いに来てくれた。みんなそれぞれの経験があり、同じものは何一つないというくらい、みんな大変な思いをしていた。

それでも、共通していたのはみんな「未来」を見ていたという事。

いつもはなじみのタクシー屋さんだけれど、降りる駅が違う分、違うタクシー会社の運転手さん。初めて乗るタクシー。見かけない顔というので軽く自己紹介をし、この街に引っ越した母のところに行くのです、と告げると、ああ、そうかあ、じゃあこれからよろしくだね、と言って、運転手さんは、地震の時の話をしてくれた。

彼はその時で確か69歳と言っていたはず。それでも、彼は「お客さん、私は働き続けるよ、また家建てないと、テレビも壊れたしさ。泣いてなんていらんないよ」

・・・・69歳。働き続ける、また家を建てる・・・・。そう、運転手さんは未来を見ていた。泣いている時間は彼にはないのだ。でも、それが悲観的に聞こえたのではなく、願いを込めて、祈るように言っていたのが印象的だった。

「そうですね、家また立派なのを立ててくださいね。テレビも、今度は頑丈なのをね!」というと、はははーーと笑っていた。

子供のお世話になった幼稚園の先生方も、お友達も、みんな未来を見ていた。

「よそ者」の私が泣いている場合じゃない、とあの時思った。


あれから、10年。母は借りていた家を「復興住宅」の完成とともに、引き払い、元住んでいた町に戻った。

壊れた家は解体撤去され、傷になっていない家具などは友人知人に譲り、今も更地だ。

復興住宅に住んでもう5年近くなる。ご近所さんのすったもんだもありながらも、いい人たちに囲まれ、彼女の新しい生活がこじんまりと営まれている。そこで出会った人たちにも、一人一人の物語があった。

一言では済ませることのできなかった経験。

それはこの街だけではなく、同じくして津波の被害にあった地域でも、耳をふさぎたくなるほどのつらい経験が聞こえてくることもあった。

私はその「つらい部分」を経験していない。「未来」を信じて前に進んだ人たちの笑顔しか思い出せないのだ。

でも、もちろん、人間だからこそある、「醜い」話や「ずるい話」もあった。

きれいごとでは済まされないということも忘れないようにしている。

変わり果てた街、二度と会えない人たち、バラバラになった家族。ほんの一瞬で変わってしまった時間。

あれから10年。私にとっては長かった10年だった。でも、着実に復興というものを見てきた。途切れた電車の沿線が再開通し、母の復興住宅も建った。怖い怖いと言っていた母も、茶碗洗いを忘れ、サスペンスドラマを見ながら、うたた寝する余裕も出てきた。

でも、まだ、「復興の途中」だということが彼女を見ていてわかる。

彼女だけではない、町全体が、そして「被災地」と言われるところがまだ復興の途上であることをいく度に感じる。


自然災害はどうすることもできない。

でも、人災は防げるものだ。

10年目だからこそ、改めて言いたい。線量を確認しながら、その日のお外遊びを制限されていた子供たちが10年前にいたという事。幼稚園の行事がそれによって影響が出ていたこと。幼稚園バスに「本日の線量」と書かれた紙が貼られていたこと。

これは大人である私たちが、しっかりと受け止め変えていかないといけないことだと、私は主張したい。移住した人もいる。でも、移住できない人もいるのだ、ということを理解しなければならない。移住しないのが悪いのではない、どこでも住める自由を安全を持たせないといけないのが、大人の役割ではないかと、私は思うのだ。


ひと昔前、日本に大きな津波が襲った。でも、人も町も県も、がんばって立ち上がった。

私はそんな日本を誇りに思う。日本人を東北人を誇りに思う。そして私もその日本人であることを外国に住みながら、改めて誇りに思う。

そして助けてくれた友人たちにも、彼らの親切がどれほど大きいものだったのか、私はこの日をありがとうの日にしている。そして自分も同じように友人たちが助けを必要としているときに、助けることのできる人間でありたいと強く思う。


きっと今日も太平洋は、穏やかに青かったと思う。「ひと昔」が過ぎたけれど、これからも復興を見守っていきたいと、微力ながら思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?