心の中の小さな図書館

ウィズコロナで、始まった子供の学校。かれこれ、一か月半が過ぎようとしている。

とにかく運動をしないといけない私は毎朝、子供の学校を送りがてら歩く。

いつもの交差点で、子供と分かれ、信号を渡る。そこで、お母さんと幼稚園に行くのかな?という年齢の女の子がお母さんと手をつないで、ジャンプをしながら、歩いていた。

小さな背中に大きなバックパック。ジャンプするたびに、頭のあたりまで届くバックパック。「せーの」とジャンプをする。また「せーの」と言ってジャンプ。そしてお母さんは子供とジャンプに夢中になってジーンズのポケットから携帯が落ちてしまった。

気づかずにジャンプし続ける親子。

「携帯、落ちましたよ?」と私はお母さんに声をかけた。

彼女は振り返りながら自分のポケットを右手で確認する。「あ、やだ、マミージャンプに夢中になりすぎた」と娘ちゃんに笑っていいながら、すみません、と私に言った。

彼女に、携帯を渡し「楽しいと夢中になっちゃいますよね」というと、「ほんとにそうなの!」と明るく大きな笑顔のお母さん。

コロナの世の中、人のものにあまり触ってはいけないので、触ってしまったけど、と携帯を渡すと、「ああ、全然気にしないから、ありがとう。助かったわ」とまた大きな笑顔。

手を振りながら、彼女たちはまたジャンプをしながら、信号に向かっていった。

毎日毎日繰り返される通学の時間。子供が小さいころ、ジャンプしながら、葉っぱを拾いながら、時には、バスが来なくて、子供たちを引き連れあーでもない、こーでもない、と喧嘩になる子供の仲介に入りながら、時が過ぎていった。雨の日も風の強い日も、雪が深い日も、春の陽気の日も。

私は子供と過ごした時間というのは、こういう事しか思い出せない。初めての子育てで、必死に走り続けた日々で、「当たり前の時間」しか思い出せないのだ。当時は「早く一人で行ってくれないかな」と思うことも多々あった。もっと小さいころは、大人の足なら20分のところを一時間かけて歩いたこともあった。プリスクールの先生にはよく、「夕食の前につくといいわね」と笑われた。

でも、時が過ぎると、それが思い出であり、心が温かくなる瞬間でもあるのだ。

歩いていないと見逃してしまうものがあるんだよ、と私は子供に常日頃言っていた。ある年齢から「みんな車があるのに」と文句をいうようになった。うちは車が一台しかないし、夫が昨年まで仕事でずっと必要だったというのもあって車のない生活だった。車がないから、ということで、お誘いもなかった。乗せてと言われるのが嫌だという人がいたけれど、私はお願いしたこともなかった。けれど、そう思われても仕方ないか、と思ったと同時に、私はこの「無駄な時間」とか「時間短縮」で奪われてしまう、子供との時間を楽しむことにしていた。

それが今、思い出となって、心の図書館にある。

2011年から私は写真をあまりとらなくなった。物を持つことのはかなさを震災で体験したからだ。それまでは、瞬間瞬間を残したくて、写真を撮ることに夢中だった。

けれど、写真を撮ることに夢中になって、子供が楽しむ時間を共有することがなかったことに気づいたのだ。

子供が見せる、人間が見せる瞬間の喜びの笑顔って本当に一瞬で、レンズを通してみるのと、その場で一緒に喜びを感じることって大きく違うのだ。

そしてその瞬間が「新鮮な野菜」のように、うまみが詰まったまま、冷凍庫に入れられるのと同じで、心の図書館に寄贈されるのだ。

私の図書館には子供とだけの思い出だけではなくて、母や友達、そして職場の友達、今までであってきた人との時間がある。

そう、この図書館は自然災害で無くすこともなく、自分が天国に行く事になっても一緒に持っていけるのだ。

そんなことを考えていた昨日、学校から帰ってきた子供と、ウォーキングがてら待ち合わせをした。

ストリート向こうから、手を振って、笑顔で走ってきた。

「お母さん見て、このきのこ、大きいでしょう!!今度はあのストリートを通っていけばお母さんも見れるよ」

携帯で撮った真っ白の大きな二つのキノコ。キノコが大好きな私のために取ってくれた写真を見せたくてしょうがなかったのだ。

ティーンで反抗ばかりしているけれど、子供に戻る瞬間。

そう、昨日はこの瞬間を私の心の図書館に寄贈した。と同時に思うのだ。子供が大きくなった時、この瞬間を思い出してくれるだろうか。子供の心の図書館には、「キノコの写真をお母さんに見せたくて取った瞬間」があるだろうか。

私は勝手に信じている。この瞬間は子供の図書館にも残るはずだ、と。そして子供が大きくなった時、図書館から本を出すように、この思い出をふとした時に思い出し、心が温かくなる日が来ることを。

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