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📺「オモニの島 わたしの故郷〜映画監督・ヤン ヨンヒ〜」を視聴して

10月30日の朝5:00〜6:00にNHK・Eテレで放送された「オモニの島 わたしの故郷〜映画監督・ヤン ヨンヒ〜」という番組を観た。

ヤンヨンヒ監督は、私が今一番お目にかかりたい人物と言っても過言ではない。

ヤン監督のバッググラウンドは、私の家族と似ている部分が多くある。

ヤン監督は、朝鮮総連の幹部である父と、朝鮮総連を激しく支持する母の間に生まれた。

父親は済州島より戦時中に渡ってきた在日コリアン1世、母親は植民地時代に大阪で生まれたのち、戦火を逃れるために母親の故郷である済州島に渡り、さらにその後済州4.3事件を体験して再度大阪へと渡ってきた在日コリアン1世である。

3人の兄は全員「帰国事業」によって北朝鮮へと渡り、ヤン監督はひとり日本・大阪(生野)で育った。

在日コリアン3世である私の父は、ヤン監督の少し下の世代であり(ヤン監督は1964年生まれ)、ちょうど、監督のご両親と監督ご本人の間の世代が私の祖父母の世代にあたる。

父の大叔父にあたる人は総連系の人で、父の周りには「帰国事業」で北に渡った親族がたくさんいて(話によると一時的に北朝鮮に行ったのち、日本に戻ってきた親族もいるとかいないとか)、私から見た曽祖父母は皆済州島にルーツを持っていて…

日本、韓国、在日コリアンの近代史をぎゅっと詰め込んだような、まさにその歴史を歩んできたのが私の家族であり、ヤン監督の家族なのである。

私はこの番組を録画して父と一緒に見た。

一緒に見ようと誘ったりしたわけではなく、ちょうど父とリビングで2人きりになるタイミングがあったので、なんとなく見るなら今かと思い再生ボタンを押したのだった。


ここからは、印象に残ったヤン監督の言葉と父の言葉、そしてそれに対して私が感じたことについて書いていきたい。


「背負った重たすぎるバッググラウンドから逃れたいと思っていた」


ヤン監督がこう言った後、父が「すごくわかる」とボソッとつぶやいた。

父は時々酒に酔うとこんなことを言う。

「俺はなにじんなのか、自分が何者なのか、この歳になっても分からない。」と。

この番組を観た時も「ヤンさんはご自身のアイデンティティを見つけることができたようやけど、俺はやっぱりアイデンティティがないままや。」と言っていた。

私も在日コリアンの当事者ではあるが、私の場合は日本人でもあり韓国人でもあると思っており、日本人でもなく韓国人でもないという感覚を持つ父とは正反対のアイデンティティを持っているのだ。

父にとって韓国は行ったこともなければ住んだこともない国なのだ。なのに自分は韓国籍を持っているのだ。

昔、叔母が私に言ってきたことがある。

「私たち在日は日本でも韓国でも認められないんや。誰にも認めてもらえないんや。」と。

父や叔母は、日本人としても認められず、韓国人としても認められないようなそんな人生を送ってきたのではないだろうか。

特に、私の父とその妹弟たちは、総連系の親族と民団系の親族の思想の間でたくさん苦労というか、葛藤をしてきたのだと思う。

朝鮮学校に入らせるのか、日本の学校に通わせるのか。帰化をさせるのか、させないのか。これまでの人生、父は様々な部分で親族が揉めるのを見てきたという。

自分の人生であるが、完全に自分の思うように、したいようには動けない。

父の人生はきっとそんな感じだったのだ。

父が昔私に「俺が韓国人でごめん」と言ってきたことがある。

その言葉を聞いた時、私は父がなぜこんな言葉を言わなければならないのかととても悲しい気持ちになったのだが、父なりに重たいバックグラウンドがあり、そこから逃げたいという気持ちがあったからこその発言なのかなと今は思う。

私は父の人生やアイデンティティに対して、決して簡単に「わかるよ」とは言うことができない。

実際、私と父は境遇や生きてきた時代が全く違うので決して父を理解することなど出来ないと思うし、例え少しばかり理解できたとしても、それは「わかったつもり」でしかないのだと思う。

中途半端な共感は、暴力に成りかねないのだ。

「生まれ育った大阪以上に恋しい、帰りたいと思う済州島という故郷ができた」


私はこの言葉にとても共感した。

ヤン監督ご自身は、大阪で生まれ育った。

両親の故郷である済州島。

私の曽祖父母の故郷である済州島。

ヤン監督や私にとっては、言葉の定義としては済州島は故郷には当たらないのかもしれないが、なんというかカッコ書きの「故郷」という感じがするのだ。

実際に足を運んで、歴史を知って、家族を知っていく中で、私も済州島にルーツを持っているのだと、私も当事者なのだと思わされたのだった。

「帰る」という表現もおかしいのかもしれないけれど、私もなんというか済州島に行くことに対して「帰る」という感覚が生まれたのだ。非常に不思議な感覚である。

しかし、父は「俺には故郷がない」と言っていた。

もちろん、父にとっては生まれ育った大阪が一般的に言う故郷なのだろうが、日本人でもなく韓国人でもないというアイデンティティの葛藤を抱えた父にとっては、故郷という言葉がなんとなくしっくりこないのかもしれない。

父も済州島に行けば何か感じるものがあるのだろうか。


「私を腫れ物にしないで、私は腫れ物ではないということを人生をかけて伝えている」

在日、北朝鮮、朝鮮総連…そんなバックグラウンドを持つヤン監督。

そんなバックグラウンドから逃げたいとずっと思っていたというが、家族と、そして自分と向き合いはじめてから考え方が変わったそうだ。

実際に北朝鮮に足を運び、命懸けでカメラに家族の暮らしをおさめ、それをもとに映画を作る。

映画のせいで家族の住む北朝鮮に入国禁止となってしまっても、それでも映画を作り発信し続ける。

そこにはきっと途轍もない覚悟があって、想いがあるのだと思う。

北朝鮮も、朝鮮総連も、そして在日コリアンも決して腫れ物ではない。

それを人生をかけて伝えているのがヤン監督なのだ。

noteで自身の体験を書いている私も、決してヤン監督の作る映画には及ばないが少しでも在日コリアンや日韓ハーフが腫れ物ではないことを伝えていけたら良いなと思う。


「家族を知ることで、私について知ろうとしている」

この言葉にも私は大変共感した。

結局、逃げるのではなくて向き合うことでしか家族、そして自分を受け入れることはできないのである。

私も一時期、本当に一時期ではあるが自身が「在日」であることに対してかなり否定的に考えていた時期があった。

なんとなく「在日」という単語は社会的にマイナスに見られていて、自分がその当事者であることから逃げたく思っていたのだった。

だけど、自身や家族の歴史、バックグラウンドと向き合ってみると、そこには壮絶な物語があって、なんだか自分のルーツを肯定的に受け取ることができるようになったのだった。

番組の中で、「家族を少し距離を置いて見てみると非常に興味深く面白い対象となる」というようなことを仰っていたが、まさにその通りで、一歩下がって自分や家族を見てみるととても面白いものなのである。

済州島にルーツを持っていて、親族の中には民団派と総連派が混ざっていて、北朝鮮にも韓国にも日本にも親族が住んでいて、家庭には日本の文化も韓国の文化も混在している…

これでもかというほど複雑で個性的である。

今はそんな自分や家族のことを誇らしく思っているし、面白い存在だと感じている。

これからもたくさん家族の昔話を聞いていきたい。


忙しくて執筆が進まず、投稿が遅くなってしまったが、実は先日ヤン監督にお会いしてきた。

その話は、また次回👋🏻

おばあちゃんと済州島に行きたい!