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喪失と向き合うこと

数年前に、祖父が亡くなった。
私にとって身近な人が亡くなるのはこれが初めてだった。

祖父は、とにかく生命力がすごいと言われる人だった。
大きい病気に何度もなっていたし手術もしていたけど、いつも元気に退院してきていた。だから私は病院から帰ってこない祖父を知らなかった。

お葬式が終わるまではとにかく働いた。
親戚は皆高齢で、若くて色々と動けるような女性は母と私しかいなかったこともあって、母と私は忙しかった。
(こういうのも、男性がもっと色々動いてくれるといいのにな。親戚の集まりでおもてなしは女性の仕事、みたいな風潮がなくなるといいなと思ったりもした。)

忙しさが寂しさを忘れさせてくれるような気がしたし、この方が気が紛れると思っていたけれど、その反動なのか、お葬式の翌日からは突然泣くようになった。何をしていても無気力で、ああすればよかった。こうすればよかった。そうやっていろんな後悔が押し寄せる。この感覚は、一年経っても消えなかった。

祖父が亡くなってからちょうど一年くらい経った頃、そろそろおじいちゃんの命日だな、なんて暗い気持ちで過ごしていたとき、仲の良かった友人が亡くなった。ちょうど少し前に連絡をとっていて、体調を崩しがちな彼女は入退院を繰り返しており、落ち着いたら会おうねと話していたところだった。自殺だった。

「映画の話や俳優の話をまたしたい!」
そうやって言っていたのに。そのために生きようとは思えなかったのかなとか、入院するからまた先の予定がわかり次第連絡するね、と言っていた彼女にしつこく連絡をすればよかったのかなとか、とにかくいろんな思いが頭の中を駆け巡った。
彼女と出会ってからの日々が走馬灯のように流れてきた。彼女は、中高時代の6年間で一緒にいる時間が一番長かった友人だった。

彼女の死後、私は祖父の一周忌もあったし、他のこともあって、忙しくなった。というか、忙しくした。
私は祖父の死にも、彼女の死にも向き合うことが全然できなかった。忙しさは喪失感を癒してくれない。それは一年前にわかっていたのに。忙しくして、ふとした時間に後悔が押し寄せて、突然泣いて。私はまた同じことを繰り返した。

実は、この記事は数ヶ月下書きにあった。書くたびに泣いてしまって辛いから、全然書き進められなかったのだ。
ところがある日突然、もう泣かなくなった。胸の奥はぎゅっとするけれど、そこまでで抑えられる。だから今、これを書き終えようとしている。
たぶん、この記事を書いて、消して、修正して、そういうことを繰り返して、私は2人の死と向き合って来たのかもしれない。

祖父のことも友人のことも今でもふとしたときに思い出す。
祖父といるときも、彼女といるときも、私は嫌な思いをしたことがない。2人とも、私を愛してくれて、大切なものや時間をたくさん共有した。2人と過ごした時間は私にとって宝物だ。

毎日のように愛用していたネックレスは祖父からもらったものだった。私が大好きな映画や俳優の話は、いつも彼女としていた。だから2人が亡くなってからは、辛くなるからと違うネックレスをつけていたし、よく彼女と話していた映画や俳優からは少し離れたりもしていた。
でも、今は大丈夫。こうやって私が日々2人を思い出して過ごしていることを、2人にも知ってもらえたらと思う。

喪失と向き合うこと。そのために最適な方法は、今も分からない。
でも、逃げたり遠ざけたりすることで、喪失感を癒すことはできないし、きっと喪失感ってそんな簡単に消えてなくならない。もしかしたら、二度と消えないのかも。
だから私は喪失と生きていく。
これが喪失と向き合うということなのか、これが正しいのか、そんなの分からないけど、私は今日も2人がいないことを少し寂しく思いつつ、生きていく。