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「自分は自分」と受け入れて、自分の持ち駒で闘っていく考え方のヒント

今年は年明けから、ちょっと落ちこんでいる状態が続いていました。気持ちが弱っている時にうまくいかないことが続くと、まあ、たまにはそんな時もあるよ、きっとうまく行く時が来る、そう思おうとしても、なかなかうまくいきません。自分の努力が足りないからとか、ついつい、自分の足りないところばかり探してしまって、余計落ち込んでしまいます。

そんな折、自分のままでいいよという考え方のヒントを与えてくれる2冊の素敵な本に出会いました。

自己啓発本というわけでは全くないのですが、自分の存在をありのまま受け入れる考え方のヒントがちりばめられていました。もし、気になった方がいらっしゃったら、ぜひ、手にとって読んでみてください! 
(2冊とも電子書籍でも出ています。私はKindleで購入しました)

1. 『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』

1冊目は川内有緒さんの『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』です。

タイトルの通り、著者の川内有緒さんが、全盲の美術鑑賞者白鳥建二さんとアート作品を見に行った経験が書かれている本です。目の見えない白鳥さんはどうやってアートを見るのか、タイトルからすでに興味をそそられます。

1−1 みんなでみることの威力

本の中で語られる、白鳥さんと見に行ったアート体験はとにかく楽しそうで、私も白鳥さんと一緒にアートをみてみたくなりました。

とくにおもしろかったのが、仏像を見に行った時のエピソード。その時は白鳥さんだけじゃなく、結構な参加者がいらっしゃったよう。それぞれ、これはああだ、こうだと言い合うその会話がまず、おもしろいんです。

会話はどんどん広がり、千手観音に対して「食堂のおばちゃんみたい」という意見まで出てきて、それを読んだ私も思わず笑ってしまいました。ところが、それがあながち冗談でもなかったということがわかります。みんなで千手観音を見ながら食堂のおばちゃんネタで盛り上がっていたのをそばで聞いた僧侶の方が、この千手観音さまは食堂のご本尊だったと教えてくださったのだそうです。

みんなと作品を見ながら楽しく会話しているうちに、参加者は知らず知らずのうちに、仏像の観察をどんどん深めていく。これが、みんなでみるソーシャルビューの威力です。

同じ作品をみていても、実はみる側はそれぞれの見方でみています。ところが、言葉に出してみてはじめてそれぞれの見方が明らかになります。

このことは、長年美術に携わってきた中で、よく知っているはずでした。

しかし、目の見えない白鳥さんと一緒に作品をみることで、白鳥さんがきっかけとなり、それぞれが自分のみているものに関してより口に出しやすくなっていくということは、発見でした。

人と一緒に見ることで、作品の、それまで一人で見ていた時に見えてこなかったものが見えてきたり、時に作品の核心に触れることにも発展したりする、それぞれに違った感性で作品を一緒に見て、それぞれの言葉に耳を傾ける、そういう時間がとても豊かで素敵な交流です。

しかも、それは、いつも同じではありません。本に書かれていた鑑賞経験もそうですが、それは個別の、しかもその時にいたメンバーによってなされる、その時限りの特別な鑑賞体験です。作品と、そのメンバーで見たからこそ味わえる世界というか、その時集まった人と作品とが出会う一期一会の特別なものだなあと思いました。

1−2  見えないことはマイナスではない!

ブラインドサッカーは全員が見えない状態でやるスポーツ。
見えないことがマイナスじゃない。

本の中では、白鳥さんという個人にもスポットがあてられます。

「けんちゃんは目が見えないんだから、人の何倍も努力しないといけないんだよ」

『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』P. 211

これは白鳥さんのことを可愛がってくれたおばあちゃんの言葉だそうです。この言葉だけを取り出してしまうとなんともきつく聞こえますが、孫の白鳥さんを思うがゆえの言葉です。私だっておばあちゃんの立場だったら、孫のことが心配で、なんとか、頑張って生き抜いてほしいと、同じような言葉をかけるかもしれないです。つまり、この言葉は、見える人がデフォルトになっている私たちの社会を表しています。私たちは、みな、同じようにできないといけない社会に生きているということを改めてつきつけられる言葉でもあるなあと思いました。

本の中では、白鳥さんとの交流を経て、著者の川内さんが、現実社会での障害者に対する私たちのアンコンシャス・バイアス(無意識の思い込みや偏見)に気づいていく過程も描き出されていきます。

「わたしは優生思想や差別を嫌悪してきたが、それらの芽は自分の中にもしっかりとあった。なにしろ障害を持つひとへの差別を非難しながらも、その一方で自分が当事者になることはひどく恐れていたのだ」

『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』P.239

それは、この本を読んで、目が見えない白鳥さんがアートを楽しむことができることに感動している私も同じです。

できる人が多勢の中にいて、自分ができないことがあるというのは悲しいです。できる人がうらやましく思ってしまうし、できれば、自分はできない側に入りたくないと思ってしまいます。

そして、それは白鳥さんも同じだったのだと言います。

「うん、だから優生思想なんてとんでもない、差別はダメだ、って言うんじゃなくて、程度の差はあれ、差別や優生思想は自分の中にもある、まずはそこから始めないといけないと俺は思う」

『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』P.241

そして白鳥さんは気づかれたそうです。

「できる」と「できない」はプラスとマイナスじゃない

『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』P. 243

この考え方、衝撃でした。

私たちは、いつも「頑張れ」と励まされて、できるようになることを目指すように言われてきました。向上心を持って努力するというのは大切なことだけど、一方で、努力すれば報われる、できないのは努力が足りないから、と考えてしまうと、できることはいいこと、できないことは悪いことという価値観が育っていくということに気付かされたからです。

「できる」ひともいるし、「できない」ひともいる。それでいい

『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』P.244

白鳥さんのこの言葉にはっとさせられました。ああ、そうだ、そうだよね、それでいいんだよね、と、私は、自分自身にも言ってあげたいと、強く思いました。


1−3 世界の捉え方が変わると視野が広がる

「できる」ことがいいことで「できない」ことはよくないこと、という、考え方の枠組みから外れて世界を見てみると、これまで見えていなかった場所がだんだん見えてくるのかもしれません。

白鳥さんは、写真家やアーティストとして、そして美術鑑賞家として活動されています。目の見えない白鳥さんがアーティストである、最初、この事実に、一瞬、驚いてしまった私は、まさに、思い込みや、アンコンシャス・バイアスに囚われてしまっていました。

白鳥さんは、毎日、散歩の時に写真を撮られるのだそうです。それは「読み返すことのない日記」と名付けられ、いまや四十万枚にもなっているとのこと。それらの写真は、ご自身が生きた証でもあり、またその瞬間、その場所に立ち会ったという記録です。さらに白鳥さんご自身が「俺の写真は自分にしか向いていない」とおっしゃっているように、写真を撮る行為のための写真作品はまぎれもなく現代アートです。

「できない」ということが「できる」の反対ではない世界が見えてくると、もっと世界にあるさまざまな景色が見えてくるんだということ、そのことに気づかせてくれたこの本に私はとても感動しました。

1−4 アートの魅力


自由に描いていいし、自由に見てもいい。
描いても、描かなくてもいいし、できても、できなくてもいい。

この本の最も魅力的なポイントは「見えないことはマイナスではない」ということを、ゆっくり、でも、心に染み入るように気づかせてくれたことです。

そして、もう一つ、隠れた重要なポイントとして、この本はアートの魅力を伝えてくれるものだということも推したいと思います。

なにしろ、ヴィジュアルで「見る」ということを前提としているアートを、目の見えない白鳥さんが「見て」、楽しむことができ、そればかりか、白鳥さんがいるからこそ、他の人もアートをみて楽しめるということが、なんの気負いもなく事実として語られています。

そしてその価値観を担保してくれるのがアートです。多様な価値を受容し、それぞれの存在価値を認め、またその違いを最も重要な価値とするアートの魅力というものを改めて伝えてくれる本でした。

2.『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

そうして、もう一つ紹介したい本は、伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』です。

『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』を読んだことが、とても素敵な経験だったので友人に話をしていました。すると一人の友人が、この本を紹介してくれました。この本を読んで、『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』を読んで得られた、「見えないことはマイナスではない」という気づきが、より確信を持つものとして実感できるようになりました。

2−1.四本脚と三本脚の椅子の違い

この本では、目が見えない人は、目からの情報以外から情報を取り入れて世界を認識していることを、わかりやすく解説してくれます。見える人と見えない人の違いについての説明の例えとしてすごくわかりやすかったのが、椅子の例です。

それはいわば、四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた、不完全な椅子です。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。

伊藤 亜紗. 目の見えない人は世界をどう見ているのか (Japanese Edition)
(Kindle の位置No.224-226). Kindle 版. 

つまり、四本脚と三本脚ではバランスの取り方が違っているだけで、足が一本ないというのは「欠如」ではないということ。そして、異なるバランスで成り立っている三本脚の椅子は、四本脚の椅子とは違うあり方で存在しているということです。

私たちもそれぞれ、ちがうあり方で存在しています。もし、私が、椅子だったらどうだったでしょうか。例えば、派手な色のかわいい模様のカバーがついた一人用のヨギボーだったらいいなとか考えていたら、少し楽しくなってきました。

うちのヨギボーは中身が減ってきてちょっとぺちゃんこになっているので、
そろそろ補充しなきゃです

2−2. 回転寿司はロシアンルーレット

また、この本では、見える人と見えない人のあいだにあるのは差異であって、優劣ではないこと、また、見えないからこそ捉えられるものがあること、あるいは見えないという不自由さがもたらす豊かな世界についても語られていました。

印象的だったのが、難波さんという方が自宅でスパゲティを食べるときの話です。レトルトのソースは、すべてパックが同じ形状をしているため、食べてみるまで中身がわかりません。そのため、難波さんは、食べてみて食べたい味が出れば当たり、そうでなければハズレと、「くじ引き」や「運試し」として楽しんでいらっしゃるそうです。

自動販売機のジュースも、ボタンを押すときにジュースの名前を言ってくれるわけではないので、実際に買って飲んでみるまではどんな飲み物かわかりません。特に、お寿司は匂いでネタの区別がつきにくいとのこと、口に入れるまで、どんなネタのお寿司かわからないそうです。そのため、「回転寿司はロシアンルーレット」と言われているそうです。

回転寿司がロシアンルーレット! そう聞くと、ありふれた回転寿司店が、途端にドラマチックな様相を帯びてきます。

不便だけれども、それを楽しむユーモアを持てば、世界が全く違うものとして立ち現れてくる、それは、私にとって目から鱗が落ちるような、大きな発見でした。

3.自分を受け入れ、ユーモアを持つ

SMAPの『世界に一つだけの花』をききたくなりました!

この2冊の本から、わたしは、自分を自分のままでいいと受容し、自分の持ち駒で戦っていく考え方の2つのヒントをもらったことに気づきました。

ひとつは、世の中にはたくさんの人がいて、自分は一人だけしかいないということを知ること。そのためには、たくさんの人、とくに自分の特性を存分に活かして生きている人を知り、その個性に感動することが必要だと強く思いました。その経験は、多様性を知ることにつながり、さらに、自分は自分でしかない、ほかの誰にもなれないということを認めることにつながっていくのではないでしょうか。

そして、それが最終的に「できない」ことが「できる」ことの反対ではないという価値観につなげていくことができるのかもしれないと思いました。

もう一つはユーモアを持って生きること。ユーモアを持つことで、自分がいる世界を、テーマパークのアトラクションのように楽しいものにすることができるのかもしれないと思いました。そんなふうに世界を捉えた瞬間、それまで見たことのなかった風景が見えてくるのではないか、ぜひ、そんな風景を見てみたいと思いました。

そして最後に、

アートは、いろんな人がいて、それでいい、ということを再確認できるものでもあるんだなと、改めて思いました。







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