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シスターの憔悴


 シスター・アン粟津は憔悴しきっていた。それに悩んでもいた。
あの夜、夢で見た聖母マリアの姿が、脳裏に鮮やかに蘇ってくる。気品の漂う崇高なそのお姿はあまりにも神々しく、実に感動的だった。
 いまだに彼女はそのときの感激を思い出すと、自然に体が震えてしまう。一生に一度でいい、なんとかマリア様のお姿を見たいものだという願いが、ついにかなったのだから。
 シスターがあえて世俗のすべてを捨て神への奉仕に捧げる人生を選択したのも、ひとえにいつかマリア様に出会えるのではという想いからだった。その意味でも、あの夜のご出現はまさに至福の瞬間だった。しかも、マリア様は、彼女に優しくほほえみ、じかに言葉をかけたのである。マリア様に憧れて神に仕えるシスターにとってすら、このような幸運に恵まれるチャンスはめったにあるものではないのだ。
 二十世紀を見渡しても、バチカンが認めた聖母マリアの出現はわずか三回にすぎない。修道院でしかも聖職者にその姿を見せたのは、パリの修道女、カタリナ・ラブレそのひとだけである。その幸運の確率は、なんと百年にひとりだった。
 世界中で多数の聖母マリアのご出現と奇跡があるといっても、いずれも正式に認められたものではなく、それらにしてもなぜかシスターが至福の体験を与えられたケースはごく希なのである。その幸運に恵まれたのだから、彼女にとってあの夜の出来事こそが奇跡だったのだ。
 一方でシスターは悩み続けていた。
(なぜ、マリア様はあのようなことを私にお命じになったのだろうか)
(なぜ、あの老作家なのか、それも六十歳を過ぎた男性の成人にわざわざ不思議のメダイを贈らせたのか)
 有名なルルドやファティマの場合、出現の相手は幼くて純朴な子供たちだった。それとて教会へ通い、神の存在を信じて熱心に祈る敬虔な信者であることに変わりなかった。
 あのマリア様のすることだから、きっと何か重要な意図があってのことだと、シスターにはわかっている。けれども、相手の人物が、神の存在を信じず、聖書もろくに読んだことがないというのは、どうしても納得できなかった。

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