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聖書の中のマリア

 この年の六月頃、真中はマリアのもたらす奇跡について書こうと決心していた。彼女の意思でノンフィクション作家を選んだからには、「書かれることを望んでいる」のだろうし、書くべきテーマを失っていた作家にとっても、それが自然のなりゆきに思えたのだ。
 そのためには、「いったい彼女はどのようなひとだったのか」を知らなければならない。ヨセフという大工の婚約者がいたらしいのだが、彼女の経歴はあやふやで、どこで生まれ、いくつでキリストを生み、いかにして迫害や追及の手を逃れていたのか。ほとんど正確な記録が伝えられていないのである。
 ましてや彼女が母として、「どうイエス・キリストを育てたのか」の説明など、どこにも残っていない。息子の不幸な死に際して、嘆き悲しんだに違いない彼女の姿も、息子の死後、どんな想いで暮らし、何歳で亡くなったのかについてもだ。
 聖書でさえ、イエスの生母である彼女の実像にはあまり触れていないのだ。ときおり、その存在だけがひょっこり現れるにすぎない。
キリスト教の教典である以上、神の子であるキリストの言動が主であり、生母の記述が少ないのも無理はないかもしれない。それにしても、彼女に関する情報の少なさは異常である。彼女の描かれ方もまたぞんざいな扱いを受けている。
「悪いけど興味がないんだ」ある聖書の研究家はこう言って、そそくさと電話を切った。
 聖書は例えばこう伝えている。
 十二歳になったイエスが両親に連れられ、「過越祭(すぎこしさい)」というお祭りに参加するため、エルサレムに行ったときのこと。参拝を終えたマリアとヨセフは帰ろうとしたが、イエスの姿が見えない。はじめは心配していなかったが、イエスはいつまで経っても帰ってこない。さすがに心配した両親がエルサレムの神殿に引き返すと、学者たちに囲まれて論議をしている我が子を見つけて驚く。
「どうしてこんなことをしたの。お父さんとお母さんはとっても心配したのよ」マリアが尋ねる。するとイエスは不思議そうに言う。
「僕がここにいるのは当たり前のことではないですか。だってここがお父さんの家だもの」
 マリアとヨセフは、我が子が何のことを言っているのか理解できなかった。イエスは両親と故郷に戻り、神に見守られながら人間の世界で成長する。マリアはこの日の出来事はずっと胸のうちにしまっておいた。
 この十二歳のエピソード以降、イエスの青少年期をうかがい知る記述はない。三〇歳を迎え洗礼者ヨハネと出会うまで、人生でもっとも多感な成長期のすべてが空白なのだ。しかも、聖書の中でのイエスは、生母のマリアを「産婦」や「婦人」などと、まるで他人のように呼んでいる。

 おかしい。どこか妙だ。わざと削除したうえで、神の子にふさわしいエピソードをことさらに強調し、生母の役割を軽んじるものだけをあえて残したのかもしれない。 ある日、大天使ガブリエルがマリアの夢に現れ、やがて男の子を身ごもること、その子は人間の子どもであると同時に、神の子であると告げるくだりをどう理解するか。それはあくまで信仰上の問題であり、真中にはどうでもよかった。解明しなければならないのは、イエス・キリストではなく、マリア本人のことである。彼女が母親として彼の悲劇をどう考えていたか、その本心なのだ。
 彼女の実像を知らなければ、自分の身に起きている奇跡の謎は解明できないし、作品の執筆も不可能だった。

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