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草の花。千枝子の手紙が胸にせまる、、、、

3月19日は、福永武彦のハッピーバースデー🎁🎂🎉であります。
1918年(大正7年)3月19日。
100年以上前なんだね。

たまたま古本屋で出会った、「草の花」。
1954年に発表だから、もう69年前の小説かぁ。

なのに、この清潔感、透明感。
愛するとは、孤独とは、、、、
戦前、戦中の若者の痛々しいまでの想いに
羨ましいとまで思ってしまうよ。


サナトリウムで出会った「私」と、汐見。
汐見は危険な手術の前に、2冊のノオトを私に託す。もし生きて戻らなかったら、このノオトを読んでくれないかと。そして汐見は帰らなかった。

ノオトには汐見の青春の軌跡がビッシリと書かれていた。

同じ高等学校の部活の後輩、藤木に恋愛にも似た感情を抱く汐見。これは愛だと汐見は彼に伝えるも、拒否し、愛を信じることができない藤木。

消えてしまいそうな儚い藤木。
「─────何処にいても同じだもの、何処にいたって寂しいもの。」

遠いところを見つめる藤木。
「────何にもならないのに、」
藤木は繰り返す。
なぜそんなにも?彼の心の穴はなに?
私も思う。汐見に重なった。

そして藤木は突然、亡くなる、、、、

「─────僕の藤木に寄せた愛がどんなに大きかったとしても、それは何にもならなかったし、愛を拒んだ藤木も、空しく死んでしまった。愛も、孤独も、執着も、拒絶も、遂には何にもならなかった。愛することも生きることも、みんな空しいことにすぎなかった。」

愛するも愛さないも、空しい。
生きているのになんで。

「オリオンの星座が、その時、水に溶けたように、僕の目蓋から滴り落ちた。」
(この表現大好き)

戦前とは、戦中とは、愛することと生死が背中合わせだったのだと思う。死を近くに感じすぎて、、、、それが10代なら尚更。

その後、汐見は藤木の妹、千枝子と付き合うのだけれどきっと藤木との傷心が深くて、踏み込めないんよね。両想いではあるのだけれど。

千枝子は汐見に、会わないでいましょうと伝えた後。汐見に召集令状がきて本当に会わないままになってしまった。

サナトリウムで出会った汐見に、「私」は、
危険な手術は自殺行為にも似たものを感じていて、彼のノオトを読み、彼が唯一愛した女性、千枝子に汐見が死んだことを知らせに手紙をだす。

そして、千枝子から長い長い返信がくる。

「お手紙ありがとうございました。悲しいお手紙でございました。わたくしは汐見さんのことを忘れてはおりません。しかし忘れようとつとめてはおりました。」で始まる、長い手紙。


「汐見さんはこのわたくしを愛したのではなくて、わたくしを通して或る永遠なるものを、或る純潔なるものを、或る女性的なものを愛したのではないかという疑いでございます。」

「汐見さんがわたくしの兄を見た眼でわたくしを見、わたくしを見ながら兄のことを考え」千枝子の辛い心情が書き連ねて、、、、

印象的なのは
「あの方は夢を見て暮らすかたでございました」と。それはね、女性にとって大変しんどい。生身の人間であり愛し合いたいと思うもの。汐見は藤木の拒絶にトラウマかなぁ、抱けないのだよね、彼女を。

「汐見さんのお書きになりましたものは、どうぞあなたさまのお手許にとどめておいて下さいませ。」「どうぞわたくしをおゆるし下さいませ。」

で、完。です。

(いや、手紙はもっとめっちゃ長いです。)

なんというか、10代の頃持つ哲学ってあるじゃないですか。それを文章に、小説にしてくれたと思うのは私の完全な私見です。

といっても私は10代の頃好きな人もいなかったけど(笑)なんとなく、人との関係性に空しさを覚えていて、今よりよっぽどニヒルだった。

そういう意味では藤木の孤独な気持ちもわかるし、汐見の、愛したい気持ちもわかるし、千枝子の生々しい気持ちも、わかる、、、、


汐見を「夢見る人」と千枝子は言ったけど
解説では「覚めた人」だとあった。
どっちも言える。青春を謳歌している人ってどれくらいいるんだろう?大体は暗いんじゃないのと私は思う。

その上に戦争。愛すること、愛されることに渇望しつつ受け取ることができない、空しさを生み出すものだよ、、、、切ない。


あとあと、なんとこの小説
あの!石原慎太郎さんの愛読書だそうで。
あんな男気溢れる方が、このようなプラトニックラブ小説を推しなんて意外だわ(笑)

でも岡本太郎画伯もプラトニックラブ推進してたように思うから、血気盛んな方って案外、純粋な愛に弱いのかもね。










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