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小説のちから

川端康成の『女であること』読んだ。


『女であること』

女の美しさ

さかえの男の子みたいな美しさ、死刑囚の父を持つ妙子の陰のある美しさ、さかえと光一のダンスホールでの描写の美しさ、妙子と有田の恋愛の美しさ、妙子と千代子の友情の美しさ、市子と佐山、市子と清野の関係、さかえの母・音子の中年を過ぎた女性の美しさ…

前半は特に、女の多様な美しさが、巧みな文章と物語展開でとてもこまやかに表現されていて、ひとつひとつじっくり読んだ…。読むの時間がかかった。
映像では表現しにくい繊細な美しさが描写されているように感じた。
小説の持つ力ってすごい!


美しいことを素直に美しいと言えることって、いまなかなかない気がする。


あの人は美しい、だけど性格は悪い
あの人は美しいのに、頭悪い
あの人はきれいなのに、お金ない
あの人はきれいなのに、いつもひとり

という感じで、美しい+何か、なければならないというのがいつも求められていて、実は上記のようだったりすると、何もしてないのにがっかりされたりしてるように感じる(個人の見解にすぎませんが)。頭がよくてきれいな女優さんやアナウンサーなどがメディアにいっぱいいるからその影響が大きいのかもしれない。

私のもはやバイブルである三島由紀夫の『新恋愛講座』にそうした内容があった。普段本に書き込みはしない私だが、この本はつい線を引いていた。
いま使われてないらしい言葉もある…


『新恋愛講座』,1995,三島由紀夫,筑摩書房,p162


最後の方で、事故で入院した佐山と、妊娠の可能性のある市子の二人をさかえと妙子が双子みたいに一見仲良く看病するところもよかった。血のつながりが何よ、と感じさせるようだった。ほっこりした。


ちなみに、さかえの名前の由来は「女をたたえる国はさかえる」ということから来ているのだという。

果たして、いまの日本は…?


女の複雑さ

後半、とくにさかえの心のなかが一文一文ころころ変わる場面がある。それまでも、読んでいて、もしさかえが中学校や高校のクラスメイトだとしたら、集団生活で、周りの目を気にして本当はさかえに興味あるけど別々に行動してしまうかもと思っていた。いや、こういう女の子、客観的に見ると私はとっても好きなんだけど!!

一見するときれいだけど”性格が悪い”。市子に関係のある男と出かけて本当は何を考えているかわからない。佐山がさかえに平手打ちするまで私はさかえのことがほんとにわからなかった。さかえ自身もただ単に市子にあこがれて東京にやってきただけで、わからなかったんだろう。

新潮文庫の『女であること』p461-477で、そんなさかえに中年の佐山が平手打ちして「可愛いんだよ」というところ、、うわぁ。これは、、なんといえばいいのか、愛と憎しみが一緒くたになっていた、、、。
ちょうどこのシーンを読んだ日に、名古屋の"栄"で、ピアノを聴きに行った。
だから、私がこのシーンに曲をつけるなら、シューマンの「12の連弾曲op.85 悲しみ」しか出てこない。クラシックに詳しいわけでもないけど!何はともあれピアノ曲がぴったりな気がする!悲しみ、というか”哀しみ”に近い感覚。


市子も佐山も好きになるさかえ、、、そしてそのあとはあんなに好きだったのにどうしてというくらい市子のことが嫌いになってまた好きになる。こんな複雑な心情が巧みな文章と物語展開によって表現されてた。

妙子も妙子で、有田との関係によって美しくなったり、怖い女になったりなかなか複雑に変化してた。

「ダンスも孤独もない世界」ではなく、ダンスするから、リアルにつながるからこそ、その対に孤独があるのだやっとわかった。

女の人間関係

さかえも妙子も実の父親との関係が複雑だ。

顔がそっくりなさかえの父はさかえが幼いころに不倫して離れていったからか、さかえは簡単に人を信じないようになったらしい。

妙子の父は死刑囚だが、妙子にとっては唯一の血のつながりを持った家族である。そんな唯一の人が、金網で隔てられた場所でしか会えなく、また、死ぬかもしれないという不安とともにある。

死刑について弁護士の佐山の考えが書かれている場面があったが、これは平野啓一郎のいう"過去は変えられる”ということと関連がありそうな気がした。

最後のページで、さかえはついに京都にいる父に会いに行くといって物語が終わる。妙子の父も、死刑は免れ、3~5年後には戻ってくるかもしれない。どちらも恋人とのハッピーエンドではなく、父との一区切りをつけようとしていた。
偶然にも、この最後の場面を私は父の母校で読んでしまった…。
なんとも複雑だった。一区切りつけるべきか。


新緑の季節に行くのは初めてだった🌱



ところで、私は以前、ハンブルク・バレエ団の『シルヴィア』を観て、振り付けは好きだったが、物語展開にはてなマークがついていた(そのあと映像でパリ・オペラ座の『シルヴィア』も観た)。


東京文化会館でのハンブルク・バレエの来日公演😍


最近そのはてなが解消されつつある。

そのころ私は女が憧れる女性ばかりしか視野がなかった。キャリアや仕事という部分でのみしか見ていなかった。一人で生きていく女はかっこいいという単純な見方しかできていなかった。だから、男まさりなシルヴィアが最後、長年想っていた男と一緒になるというところにしっくりこなかった。

しかし、この物語ができたのはキャリアとか女の自立とか言われるよりはるか昔のことだとはたと気がついた。

もちろん、女の自立はあってあるべきだと私は思っている。いろんな意味での自立。だがここ数年の私は、キャリアや社会的地位やその理由などの固い言葉ばかりに注目して、人間の原始的な、根本的な関係の築き方を忘れていたように思う。
昔の物語とダンスが思い出させてくれた。人は一人では生きていけないのね?

『女であること』も、一つ一つの心の描写が丁寧に書かれていて、社会がどうの、キャリアがどうのとかいう以前の、女であることの愛を中心とした美しさと複雑さを見せてくれた。人間らしさ。女であることというタイトルだけど、全人類当てはまるとおもう。



いつかの富士山。








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