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科学と哲学の狭間で③わからないことがわからない


最近、ふとした拍子に神経内科の臨床実習をやっていた時、左半側空間失認症の症状の出方について、グループの中で意見が割れたことを思い出した。脳の機能喪失では失語症というのが有名だけれど、一口に失語といってもヴァラエティに富んでいる。有名なのは、運動性失語といって話しかけられる内容はわかるけれども、自分の言いたいことが文章にならないブローカー失語と、相手から言われていることが理解できなくなるウェルニッケ失語だろうか。人の脳の中で言語に関わるところは多いのでその分、機能喪失の症状も様々になる。書いてある文字が読めなくなるけど、文字をなぞるとわかるとか、仮名はわからなくなっても象形文字はわかるとか、人が言語を理解するのにどれほど繊細な機能分担が必要なのかが分かって興味深い。突然言葉を失ってしまった患者さんの恐怖や動揺は計り知れないけれども、症状そのものについては、失語というのは比較的わかりやすいのではないだろうか。私たち自身が赤ん坊の時からだんだん言葉を獲得する経過を覚えていたり、外国語を習得する過程で苦労することを経験しているから、「何を言われているのかわからない」も「上手く言葉が出せないもどかしさ」もどういう状態かある程度イメージしやすいのではないかと思う。これに対して、失認識というのは症状をイメージすることが難しい。
左半側空間失認を説明するのによく出される例で、トレイに食事がのってくると、トレイの左側にある小皿は無視してしまい、各お皿の中身も右半分だけ食べて全部食べた、というような食べ方をする、というのがある。この話を、臨床実習中の学生だった私たちは、学食でお昼ご飯を食べながら侃々諤々議論していたのだ。
「トレイの左側に置かれたものを無視して右側の見えるところだけ食べるということじゃないの?」
「トレイだけじゃなくてメインのお皿を見たらお皿の中身の右半分だけ、お茶碗を手に取ったらお茶碗の中のご飯の右半分だけ食べるようになるんじゃないの?」
「茶碗も皿も急須も左半分がないとすると、ない急須の左側は透き通って後ろにあるものがみえているわけ?不自然すぎない?」
結果から言うと、注意が茶碗、皿、急須、と移り変わっていくごとに、無視される半側のかわっていくのがこの疾患の症状としては正しく、左が全部見えなくなってしまうのは失認ではなくて半盲である。難しいのは、テーブルにものを並べてこの急須の左半分を無視したらその後ろは透けて見えないんだろうか、と明確に存在しているものを前に考えても認知できない障害はかえってわからないところだ。どうすれば認知の障害を体感することができるだろうと思って、こんな実験を考えた。

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