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沈丁花の香り② バッハについて


バッハの重音には省ける音がない。

私は3歳のころからピアノを、長じてはチェロを趣味で弾いている。

子供のころ、ピアノを弾いていて左手の和音を間違えそうになると、音を抜いたり和音を展開させて弾きやすくしたりしてよく注意された。和音の展開というのは、例えばドミソをミソド、ソドミという風に一番底部になる音を最高音に持っていくというようなことをいう。和音の響きはほとんど変わらないけれど、ピアノの場合は指の開く幅が微妙に違うので、和音によっては展開することで弾きやすくなることがある。ただ、それは百も承知で作曲家は一つの和音を指定しているのだから、基底音をどこに置くかにはそれぞれ意味があるはずであり、クラッシック音楽では勝手に変えてはいけないことになっている。だから私の癖はもちろん褒められたことではないけれど、ジャズのような即興性の高い音楽では和音を展開することなんか当たり前だし、ロマン派の曲ならそれもありではないか、と内心思っていたので、その癖はなかなか治らなかった。響きが同じなら演奏を止めるよりはマシではないか、と。

でも、バッハではそれは許されない。今、私が弾くのはピアノではなく、もっぱらチェロだけれど、バッハの無伴奏チェロ組曲に出てくる重音はロマン派の曲の和音のように単に縦に重なった音ではない。並行して進む、ある旋律から次の声部の旋律へと、主役が引き継がれるときの、いわば「のりしろ」のようなものがバッハの重音だから、どの音を省いてもそこで音楽が切れてしまう。バッハの音楽では各声部が独立して、しかもお互いに調和をもって、それぞれの物語を紡いで横に流れている。そして偶さかそれらが交差する。例えば、大空を旅する渡り鳥が、海を回遊する小魚を偶々水面で捉えた出会いのように、それぞれの過去を携えて一瞬音が重なるのがバッハの重音だ。だから重音はその組み合わせしかありえない。ロマン派の和音のように展開させたら魚が空を泳いでしまう。
一見縦に重なっているようにみえる音のそれぞれから、横に広がる異なった旋律が、まるで色の違うリボンが組みひものように複雑に交叉して新たな模様を作っているのが楽譜の上にみえたとき、「ああ」と思わずため息をついてしまう。これは大変だぞ、と。

 趣味としてチェロを始めてもう二十年になる。若いころ、ピアノで音楽の道に進もうとして挫けたことがあるので、始めたときはピアニスト崩れの手慰みのつもりだったけれど、気が付けばチェロのキャリアの方が長くなってしまった。今にして思えば、ピアノの専門家にならなくてよかった。いろんな楽器をかじったおかげで、好きな音楽を色々な角度で体感することができる。期せずしてお得な人生になった。
 初めてピアノでバッハのインヴェンションを弾いたときのことは、今でも鮮明に思い出せる。バッハはそれまで弾いてきた曲とは全く違っていた。右手に左手を合わせるとか、左手に右手を乗せるとかが全く通用しない。右と左がそれぞれに独立したメロディーを持っている。独立して呼応したり、追いかけ合ったり、唱和したり、実力の伯仲した二人の人間が口角泡を飛ばす議論でもしているかのようだ。しかも相手を待っていない。自分の主張は構わずかぶせていく、尚且つ勝手に話しているのとも違う。当意即妙なのだ。
だから、例えば二人で演奏できればどうということはない。右手だけでも弾ける。左手だけも弾ける。なのに合わせようとすると突然どう弾けばいいのか、わからなくなる。
毎日、右手だけ、左手だけ、合わせようとすると両手で崩壊、ということを繰り返した。何日も何日も、為す術もなく同じ練習を繰り返し続けたある日、突然、自分が二人の人格に分かれて、二つの独立した旋律を奏で始める瞬間にたどり着くのだ。頭の中が空になったように、自我が体の外に追い出され、右手の旋律に左手が応え、左手の旋律の提示に右手が合わせといった具合に勝手に音楽を紡いでいく。自分は呆然とその様子を眺めているかのような状態になる。そして、一度この状態を体験すると、もう後は、どんな曲でも、すぐ二人の人格に分かれて弾き始めることができるようになる。人間の脳の不思議さ、奥深さ。バッハは天才であると思うけれど、凡人にも天才であることを強いるようなところがある。そして、強制されると凡人でも努力によって少しその天才を垣間見ることができるらしい。バッハは俗に「音楽の父」といわれているけれど、その強制力こそが父的なものなのかもしれない。

 では、無伴奏チェロ組曲を弾くのはどういうことか?
 楽器の性質上、同時に二人の人格が歌うという風にはならない。一人の役者が四役を早変わりで演じ分ける感じに近い。私は自分の愛器に「浮世」という名前を付けて恋人のように思っているのだけれど、バッハのチェロ組曲を弾くときには特に、浮世と私の関係は人形浄瑠璃の人形とその遣い手のようになる。二人で一人、一人で四役、主役は浮世、その早変わりをどれだけ鮮やかに見せられるかが、黒子である私の役目である。四役が次々に前に出たり消えたりする面白さが、バッハの無伴奏の醍醐味なのだけれど、後ろに消えたように見えたときにも実は陰の物語は続いていて、それが時にそろって前に出る。その瞬間こそ冒頭に記したバッハの重音なのである。だからバッハの重音は省けない、高さも変えられない。重音と和音は違うのだ。それぞれが絶対無二の音なのだ。

ロマン派の音楽が、人間の情感という極めて個人的でありながら、そのために却って普遍的な世界を扱っているのに対し、バッハの音楽は、何人もの人間が同時にうごめく社会を天から俯瞰している。バッハは神様のようだ、と時々思う。そして神様の視点は傍観者の視点である、とも思う。だから、バッハの複雑さに翻弄されるのはちょっと気持ちがいい。バッハの視点を少しだけ借りてみるとき、うごめく人間の世界に自分はいない。バッハの音楽にエゴを投影するには一人一人の人間がちっぽけすぎる、ということに気が付けるからである。

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