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沈丁花の香り①祖母の手紙


 
 二十代の終わるころ、私は、アメリカに留学していた夫を追いかけて、大学院を休学して渡米し、ボストンの研究所でリサーチアソシエイトとして新たな研究生活を始めることになった。大学院の途中で勝手に留学するなど前例のないことで、日本に帰国後の後ろ盾もなければ、将来の保証も得られない無謀なかけであった。慣れない環境と言語の壁にぶつかりながら、私は不安と寂しさから、日本の友人知人にたくさん手紙を書いたが、ほとんど返事はこなかった。無理もない、わたしと同年代の友人は仕事に、プライベートに忙しい盛りであり、本当に用があれば電子メールという早くて手軽なツールもある。立場が逆であったら私だってわざわざ手紙など書かなかったに違いない。
そんな私の手紙に唯一返事をくれたのは、齢九十にならんとする祖母であった。
 
私の祖母は明治の生まれ、頭はよかったが学歴はなかった。所謂田舎の尋常小学校卒で字を書くのが嫌いだと言っていた。そのかわり針を能くして着物でも布団でも自分で作り、計算は全て暗算で間違うことがなかった。子供の頃、ひらがなを覚えるのが早かった私に「女の子は学問より“おさんどん”が大事」などとよくいっていたが、幼い私は不思議と何の束縛も感じなかった。祖母には孫が9人いたが女の孫は二人だけで、私が結婚して美しいであろう花嫁姿を見せることは義務というより、ごく安直な親戚一同の夢といった程度のものであり、そもそも祖母自身、古風な大和なでしこというよりは、農家の女性が生きていくためにはできることは自ら何でもやったといったような逞しさと度胸をもったひとであった。村の祝いの席には手づから鶏をつぶし、「ばあさんに絞められた鶏が首のないことに気づかず3mも庭先を走った」などという話がまことしやかに語られ、親せきが集まるたびに話しに尾ひれがついた。3mが庭を三週も走ったことになった頃、虫も殺せないとか弱い少女と思われていた私が医学部への進学を決めると伯父たちは「ばあさんの血を受け継いだんだ」と恐れおののいたのだった。
そんな祖母が、齢九十にしてエアメールを送ってくれるなど、まったく予想もしていないことであった。表書きこそ叔父の代筆であったが、中身はめったにお目にかかれない懐かしい祖母の字で、内容は『私が幸せに自分のやりたいことに打ち込んでしあわせにすごしていることを、自分のことのように幸せに思っている』ということと、「自分は健康でどこも悪いところも痛いところもないので全く心配はいらない」という二つのことが、繰り返し繰り返し———おそらく、一つの文章を書き始めると、前に書いたことを忘れてしまうためであろう、同じ文章が何度も交互に、あまりうまいとは言えない字で、実に便箋二枚にわたって綴られていた。
私はその手紙を——同じふたつのことしか書かれていない手紙を最後まで一字一句丁寧に読み、もう一度初めから読み直し、そしてその後は何度も何度も、涙で文字が霞んで読めなくなるまで繰り返し読んだ。
 
祖母は九十八で天寿を全うしたが、亡くなる直前まで普段通りに手仕事を続けていた。あるとき、親せきの誰かが編み物をしている祖母に尋ねたそうだ。「おばあちゃんは生まれ変わってもまたお針仕事をするの?」と。「いいや、わたしゃ、生まれ変わったら麻百合みたいに大学に行って思いっきり勉強がしたい」と祖母は答えたそうだ。
この言葉は今も、曲がりになりにも研究者として生きてきた私の、ささやかな誇りである

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