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沈丁花の香り ③結婚について


子供の頃の私は、木登りをしたり探検ごっこをしたり、結構なお転婆だった。裏庭でどろんこ遊びをするのも好きだったけどズボラな性格だったので、使ったスコップやバケツはいつもその辺に放り出したままだった。庭に放置されたブリキのバケツはそのうち風景の一部のように気にならなくなってしまうのだが、いざ片付けようとすると雨水をためたバケツは子供にはずっしりと重く、改めてそこにバケツがずっと放置されていたんだということを意識させられたものだった。

私は結婚してから度々この雨水をめたブリキのバケツのことを思い出すようになった。私は医学部を卒業し小児科の初期研修を終了してから結婚することになったので、一応社会人とし独り立ちしていた。その後、大学院に進学したけれど、生活費も学費も自分で賄っていたので、結婚は2人の社会人が一緒に生活を始める、1+1が2になる計算のようにおもっていた。でも人生は時に算数の教科書のようにはいかない。実際の結婚生活は全く予想してなかったのものだった。夫が予想外なのではなくて、夫と結婚したことで自分が知らない自分を改めて知ったことが予想外だったのである。
一人前になったつもりで目を背けていただけで、空のブリキのバケツは私の心の中のいたるところに転がっていた。生まれも育ちも価値観も違う赤の他人であるところの夫と一緒に生活することで、その違い故に空のバケツは満たされて次々に存在を露わにしていった。私はこんなに未熟で穴だらけだったんだ、というのが結婚してまず感じたことだった。
そして、多分それはお互い様で、結婚というのはどちらかが一方的に相手に奉仕するだけでは成り立たない。2人のスカスカの一人前もどきは、助け合うことでお互いの中身を少しずつ充実させて、分相応の一人前になっていく。結婚という1+1は容積だけを見た場合には2に届かない。でも人間の密度がそれぞれちょっと増す。私たちは結婚してそろそろ25年になる。もちろん2人とも一度しか結婚したことがないので、自分たちのことしかわからないけれど、二人合わせて2人前には届かないまでも、そこそこ目の詰まった1.5人前ぐらいのことはやってこられたという自負を感じている。

社会の最小ユニットは夫婦、といったら独身主義の人は怒るだろうか。結婚しなくても自分のことも仕事のことも完璧に満たされている人生もあるだろうし、結婚しない幸福を否定するつもりもない。ただ、多様な価値観をもった「人々」が知恵と力を出し合って造り上げていく「人間社会」の最小単位はやっぱり個人ではなくて夫婦かな、と思う。結婚式で新郎新婦が「まだまだ未熟な二人ですが..]といっているのをきくと、本人たちはただの社交辞令のつもりで言っているんだろうな、と思う。でも、そのうち本当に自分たちが未熟であることと、例え未熟でもいつも助けてくれる配偶者がいるなら、その未熟はもう直さなくてもいいんだよ、ということに気づくだろうな、とも思う。「一人一人が未熟なままでも信頼できる誰かに助けてもらえばいい」と知ることは、他の未熟な誰かを責めるのではなくどうやって助けようか、と考えることに繋がる、と思う。

心の中のブリキのバケツに何か暖かなのもが満たされると、鎧のように虚勢を張った傲慢さがはがれていく。人は一人では生きていけないけど、人は一人で生きていく必要なんかないんだ、ということが日々わかってくる。夫婦という生まれも育ちも違う赤の他人でも、お互いを思いやり、喜びも悲しみも二人で分かち合えるのだから、そういう地道な日常の先に、思想や宗教の違いを許容しながら共存できる世界ができる可能性がある、と思いたい。

社会に貢献するために独身を貫いた人がたくさんいることはもちろんわかっているし、一人だからこそ多くの人と助け合って生きているといえるかもしれない。そこを否定するつもりは全くないけれど、最近の若い学生たちが恋愛や結婚が面倒くさいとか、責任を負う自信がないとか一人の方が気楽とか、消極的なことを言うのを聞くとがっかりしてしまう。恋愛が面倒くさいのは間違いないけど、面倒なことを避けていては自分の殻を永遠に破れないよ、とそれだけは老婆心ながら教えてあげたい。面倒くさくても楽しいことは、やってみないと分からないよ。

花の命は短くて。
どうか後悔のない青春をおくってほしいとおもう。


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