披露宴

230821
気づけば知り合いの結婚式、披露宴に出ることも多くなった。おそらく10回は出ている。
どの式も、今まで知らなかったその人の生い立ちや交友関係を知ることができるし、ちょっとした同窓会みたいになっていて、なんだかんだ満足して帰ってくる。
ほとんどの披露宴には共通の型、テンプレートみたいなものがあって、おおよそこちらの想定した流れで事は運んでいく。
ケーキ入刀を見て、2人のこれまでを振り返るムービーを見て、新婦から両親への手紙を聞いて。経験者となった今だからわかるが、式場ごとに初めから大筋の流れは用意されていて、そこにオプションを加えたり引いたりすることで、あのパーティは完成する。
完全オリジナル、つまり、パーティの流れを一から作ることもできなくはないが、仕事をしながらの準備は思っていたよりもハードで、正直骨組みが決まっていたのは個人的にはありがたかった。
ある程度型通りに、大きな違和感なく進んでいく式の中で、必ず訪れる奇妙な時間帯がある。新郎新婦が座る高砂へ、写真を撮りに行く時間帯だ。
披露演が始まってから、新婦が退場してから、お色直しで再入場してから。多くはテーブル毎に写真を撮るために高砂へ向かうが、その際、ゲスト同士で空気を読み合う謎の間が発生する。
こちらから?それともあちらから?前のテーブルからか、いや、あちらの方が目上の人がいそうだ、などという、謎のテーブル対抗戦。テーブル対抗戦かと思っていたら、「あ、俺向こうのテーブルでもいけるわ」などと宣う複数属性持ちが現れて挨拶に行ってしまったり。
気づいたら高砂へ続く列が発生する、あの時間が、いつもむず痒い。
序盤はまだアルコールもそこそこで、なんなら式場に着いたところで、多くの人間がいる雰囲気に当てられて体調も芳しくない。そんな中で大勢の大人たちが、2人を目掛けて並んでいるのが、なんとなく気恥ずかしいのだと思う。
気恥ずかしさと一緒に、自問しているのだ。本当に自分は喜んでこの列に並ぶくらい、2人を祝福できているか。流れに飲まれて、無理矢理に笑っていないか。実はここからいち早く抜け出したい気持ちに襲われていないか。
型通り、ゲストの意志を挟まずに進んでいくパーティの中で、ふと自我を取り戻し、そんな捻くれた問答を繰り返す。僕にとってはそんな時間なのだ。
それでも、お土産を持って帰る僕の気持ちはいつも満たされていて、あぁ出席して良かったと思いながら帰路に着く。
その気持ちで、僕は自分の幸せに気づくのだ。

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