幸せなる才能

その夜、木戸朔雄はパソコン画面を凝視していた。
椅子がいつもより冷たい。脱ぎかけのハーフパンツが足首に引っ掛かっている。
健康な男子大学生がこんな時間にパソコンで見るモノなど、地球上に一種類しか存在しない。しかし、木戸の眼前に映し出されているモノには、彼の人生で一番の謎が宿っていた。
画面には、一人の女の子の写真が映し出されている。極めてローアングルのその写真に、識別可能な顔は一切写っていない。顔が写っていないと言うより、スカートの内側の景色がフレームの大半を占拠し、後は四隅に空が写っているだけだ。
スカートの柄自体は珍しくはない。濃紺の生地に緑のチェック柄なんてありふれたデザインであることくらい、考えは及んでいる。ただ、今目の前にあるのは所謂アダルトサイトで、そのスカートの柄は、かつて自分が通っていた高校の制服と同じなのだ。
スカートの中の景色は、息を呑む絶景だった。
まず目を奪うのは、柔らかな光沢を放つ薄いピンクのヴェールである。見るからに滑らかそうな布地には幾本かの皺が横方向に走り、ぴんと張り詰めた布地の下にある豊満な双球の存在を暗示している。ヴェールを縁取る控えめなレースもいい味を出している。画面の半分を覆うメインディッシュたる双球は、これまた量感たっぷりな二本の脚にその重みを支えられていた。右脚の付け根辺り、ヴェールと太腿の境界に、小さな黒子が一つ付いている。写真の四隅には青空が写り込んでいた。
およそ芸術品としか思えない美しい立体の構成は、その控えめな黒子によって受肉し、男子たるものの性を、もとい生を喚起させる力を持つと分析した。さらに突き抜けるような空の青が、高校時代への郷愁と健康的なエロスを惹起する。
早速マウスで右クリックして保存しようとしたところで、極少の脳味噌がちくりと警告を発した。右手の人差し指が言うことを聞かない。
警告が全身を駆け巡る。同時に、自分の中の劣情が急速に減退していくのを感じた。発散以外の方法で劣情が消滅することを、この日初めて学ばされることになったのだ。肉体の方にも急ブレーキがかかる。さっきまで高鳴っていた心臓は何事も無かったように落ち着き払い、下半身に漲っていたものも勢いを失っている。
――見たことあるかもしれない。
波が引くように欲望が霧散した後、すっからかんの脳味噌が薄っぺらな十八年間の記憶を検索した。
対象、構図、アングルの全てが完璧と言っていいこの写真が、何故欲望を呼び起こし得ないのか。興味は様々な角度から記憶を切り取り、スライドショーを作り上げていく。しかし、いくら記憶を掻き分けても答えが見つかる気配は無かった。それどころか、思い出したくも無い恥ずかしい記憶までが呼び起こされ、思わず顔をしかめる。
椅子から立ち上がり、ベッドに体を放り出す。見上げた天井にはポスターが貼ってある。アイドルの弾けるような笑みはいつも安らぎを与えてくれるのに、今の茹で上がった頭は役に立ちそうにない。
頭を休ませたら、本棚の前に立つ。積み上がった教科書や漫画を除けて取り出したのは、幼稚園から高校のアルバムである。俺の人生の記録と言っても差し支えない。
それらを抱えたまま床に座り、目の前に丁寧に並べる。こうすると何やら重大な儀式のように見えた。
大きな硬い本を順繰りに捲り、自分の疑問を解消するキーが無いか目を凝らす。クラス紹介のページ、遠足やプールとか行事紹介のページ、部活動紹介のページ。そこに写る人間を余す所無く見ていると、様々な思い出が蘇ってくる。しかし、今は思い出に浸っている余裕は無い。
数十分かけて全てのページを読み終えようという段になっても、疑念は払拭されなかった。アルバムに写っている全女子の太腿をチェックしても、あるべき場所にあるはずの黒子は見当たらない。そもそも、そんな所が露わになった写真なんてほとんど無いし、女子達の顔を見ても閃くものが無かった。
無駄だったかと軽く後悔した途端、大きなくしゃみが出た。そう言えば、さっきからパンツ一丁だった。
椅子の下に脱ぎ捨てられた短パンを拾い、いそいそと履く。裾に脚を通しながら、自分がひどく下等で恥ずかしい存在だと今更のように感じる。一体自分は何を求めてアルバムを開いたのだろう。あの黒子の持ち主を見つけ、それでどうするつもりだったのか。記憶の中の女子達を汚すつもりだったのか。自分の醜さに胸に詰まる。
アルバムを本棚に戻し、パソコンの前に座り直す。太腿の黒子は、さっきまでとは違った風に見えた。見ているサイトに眼を移す。サイトの中の写真は他のサイトからの流用らしかった。それらの写真は二種類に分類される。有体に言えば、企画モノの写真には商品としての作為が残り、本物の盗撮は画質とアングルを犠牲に臨場感を得る。
問題の黒子の写真は、そのどちらでも無いように見えた。画質の良さを見る限り盗撮では無いようだ。しかし、かといって企画モノにあるべき作為、と言うより、技術が感じられない。企画モノの場合、妄想を巡らせやすいように女の子の全身、できれば胸とか頭が入るように写すことが多い。
つまりは、作為はあるが技術が無い。分析すればするほど、頭は冴えていった。
スマホを開き、連絡先の一覧を繰っていく。昔から女に困ってなさそうな奴だったら、黒子の女の子について何か知っているかもしれない。
しかし、すぐに手が止まる。そもそも友人なんて片手で足りるほどしかいない。女に困っていない奴なんて、いるわけもない。イケメンが友達にいない苦労というのを、今夜初めて認識した。
諦めてサイトを閉じ、放り出していた大学の授業のレジュメを読む。しかし、いくら読んでもちっとも頭に入ってこない。今は深夜二時だ。そろそろ脳も体も限界らしい。
パソコンを落としてベッドに潜り込む。布団の中はひんやり冷たくて気持ち良かった。ま
だ見ぬ黒子の持ち主に思いを馳せながら、釣瓶落としのような眠りに落ちていった。


***


起きたばかりの身に夏の日差しは堪える。無駄に広いキャンパスを、俺は自転車で走っていた。どぎつい青の空が視界の上半分に陣取り、残り半分は地面からの照り返しでよく分からない。
目を細めて前を見る。光の海となったキャンパスに陽炎が立ち込め、その中をゆらゆらと幾人かの影が動いていた。ガラス張りの理学部棟の前なんかは、目潰しかと思うほど照り返しが強い。熱を帯びたガラスを意味も無く足蹴する。
今は情報棟に向かっていた。五時限目の準備のためである。数が少ない屋根つきの駐輪場は既に一杯だった。しょうがないのでガラガラの屋根無しの方に停める。
情報棟の中は別世界の涼しさと静けさだ。タイル張りの無機質な部屋は、自分達インドア派の学生のオアシス、というか隔離区域となっている。自宅に戻ってもすることは無く、街に繰り出す勇気も無い自分のような学生用のシェルターと言っても過言ではない。
白いデスクに二百台近くのパソコンが整然と並んだ様子は壮観だ。部屋の一番隅の席に座り、学籍IDとパスワードを入れる。わずかな待機時間の後に、画面はデスクトップへ遷移した。
さて、と思い腕を捲くる。
「うっは、まーじクソゲーだわこれ」
蟲の羽音が耳に触れた。目端で見ると、部屋の真ん中で男達が気持ち悪いくらい頬を寄せ合って画面を見ていた。多分ネットゲームだろう。真ん中で座っている男がマウスとキーボードを操り、画面の中のキャラクターを動かしている。男が敵を倒すたび、取り巻き達が野太い歓声を上げた。
ここはゲーセンじゃねぇんだよと思いながら、イヤホンを耳に突っ込んだ。
あの手の友達は作らない。あえて関わらないようにしていた。大学に入るまでに頑張ったんだから遊んでもいいや、という考えにもイマイチ乗っかりきれない。結局、家でゴロゴロするか大学の中をうろつくだけで入学後の二ヶ月が過ぎ去ろうとしている。
ネットで資料を集めようとするが、どうにも集中できなかった。
男達はずっと騒ぎ続けていた。一人一人じゃ虫ケラみたいに道の隅を歩いているのに、集団になった途端に調子に乗ってギャアギャアと元気になる量産品のイナゴ共。いつか本で見た「群畜」という言葉を俺は噛み締めた。
キレやすいマッチョがいきなりこいつらを殴り出さないかと期待するが、そんな人間はこの部屋にはいない。前の方に座っているのは、アジア系の留学生らしい原色のシャツとズボンを合わせた男と、だらりと机に突っ伏している死体のような男だけだ。
同じだ、と思った。ガキみたいに騒いでいる連中も、居場所の無い留学生も、机に突っ伏して寝ている男も、自分自身さえも同類だと思えた。
音楽のボリュームを上げ、作業に集中する。パソコンの中の時計は、授業まであと二時間もあることを教えてくれる。資料集めにネットサーフィンをしていると、次第に男達の歓声も遠のいていくような気がした。
黙々と作業をしている内に資料も集まってきた。体よく纏まったサイトがあったので、資料を適当にダウンロードすれば事が足りそうだ。
イヤホンの音楽がうるさかったので、音楽を消した。男達が騒がないようにと願いながら。
音楽を消すと今度はイヤホンが煩わしくなる。イヤホンを耳から抜く。冷たく爽やかな空気が耳の中に入ってくる。
集めた資料をフラッシュメモリに格納している間、妙なことに気付いた。
静かすぎる。
ゆっくりと視線をパソコンから外す。留学生らしき男も寝ている男も、騒いでいた男達もいなくなっていた。
代わりに、部屋の中には柔らかなキーパンチの音が途切れることなく続いていた。小気味良い打突音が部屋の静けさを一層引き立てる。
キーパンチの主を音を頼りに探す。すると、自分の席の斜め前方に、一心不乱に指を動かしている一人の女の子がいた。
いわゆるタッチタイピングだろうか、女の子は画面を見つめたまま恐るべき速さでキーを叩いている。席の列がずれているせいで顔は見えない。
こんなところで一人で作業をしているなんて、この子も居場所が無いのだろうか。しかもタッチタイピングを身に着けているなんて、ますます怪しい。
女の子の格好は、とてもじゃないがかわいいとは思えなかった。原色に近い緑のカーディガンはいかにも安っぽく、袖口から覗くピンクのロングシャツも色褪せて見える。自分がいつも利用する千円の床屋で切ったみたいな適当なショートカットからは、小さな耳がひょっこり覗いていた。
何と言うか、色気とか可愛気とか、全く感じなかった。
それは彼女の背筋が老人みたいに曲がっているとか髪がまったく光を跳ね返さないとか、そういう外形的なものではなくて、彼女にそういう身なりをさせている、もっと内面的なものに原因があるように思われた。
そこまで考えて、はたと思い立った。すぐさま昨日見たエロサイトを開く。
昨日、肉体を刺激しなかったあの写真と、遠くに座っている女の子に同じ匂いを感じ取った。理屈ではなく、直感でそう感じる。
昔からそうだった。思い付きや決め付けで行動して、大抵間違って恥をかく。さもなければ人を傷つけ、少ない友達をさらに減らす。
ページを開いたとき、目を疑った。
昨日あったはずの写真は、サイトのどこを見ても存在しなかった。
管理人が削除したとしか思えない。しかし、何故?
一番あり得るのは、学校や被写体から削除要請が来たことだろう。被写体が未成年だけに、警察に被害届を出されたらサイトを潰されかねない。
しょうがないので、目を閉じて昨日の写真を思い浮かべる。瞼の裏に桃色の臀部が浮かび上がった。しかし、細部までは再現できない。あんなに鮮烈な記憶だったのにと、自分の記憶力の悪さが嫌になる。
ある程度細部を補完したところで、女の子を遠目に見る。うーん、やはりオーラが似ているような似ていないような……
次の瞬間、またも息を呑んだ。そんな馬鹿なと目を擦り、目ヤニをほじくり出す。
女の子のパソコンには、昨日の写真が映し出されていた。チェックのスカートも、ピンクのヴェールも、白い脚も、全てが己が存在を主張しつつ、調和する一枚の写真。脳裏でぼやけていた絵が像を結び、全身の神経を叩き起こす。
思わず腰を浮かせた。もっと女の子のパソコンを見たい。しかし、自席から女の子の席まで五メートルは離れている。
こうなったら、後ろから画面を覗くしかない。
急いで荷物を纏める。フラッシュメモリは手順を踏んでから抜けと教わったが、何も考えずにパソコンから無理やりもぎ取る。
席を立った瞬間、女の子が身を強張らせた、様に見えた。
気付かれただろうか?
しかしもう後には引けない。自分はこれから授業に出向く学生だと思い込み、顔を正面に向けたまま出口に向かって歩を進める。大丈夫、何も不自然なところは無い。
鼻から息を一つ吸い込む。随分と呼吸が浅くなっていたことに、今更ながら気が付く。
女の子の背後に差し掛かった瞬間、視線だけを全力で真横に向ける。目標は女の子の向こうの画面だ。
勝った……とはいかなかった。
パソコンの画面は、見慣れたデスクトップの画面だった。最小化されたウィンドウがタスクバーの中に小さく見える。女の子は手を止め、ただ何も無い画面を見つめていた。
顔を向けていなくとも、女の子の意識がこちらに向いていることが分かる。悔恨の表情すら許されない状況で、俺は黙って唇を噛むしかなかった。
情報棟を出ると、蒸し暑さが一段増しているように感じた。言い知れぬ敗北感が全身を支配する。陽は少し傾いているようだが、目に突き刺さる光量も増していた。
胸が痛いくらいに高鳴っていた。直接画像は確認できなかったが、人が後ろに来たときに画面を最小化するなんて、見られたくないものに決まっている。
そして最大の謎が、何故あの画像をあの子が持っていたか、である。
サイトの画像をそのまま保存したと考えるのが自然だ。でも、そうする理由が思い付かない。女子大生が女子高生のパンチラ画像を集めているなんて絶対に変だ。いや、変態だ。
ありそうな理由は、あの子が被写体の関係者ということだ。被写体の被害の証拠としてあの画像を抑えていたというのが一番合理的だ。もしかすると、あの子がサイトの管理人に写真を突き付け、削除要請を出したのかもしれない。
自転車に跨ると、サドルが焼けたように熱くて飛び上がりそうになった。タオルを取り出し、サドルと尻の間に挟む。
自転車を走らせながら、どこに行こうかと考えた。今更情報棟には戻れない。パソコンが使えるのは、残りは図書館だけと思い至る。
滑り込んだ図書館の中は、がらがらだった。さっきの情報棟といい、ここの学生は勉強する気があるのだろうかと心配になる。
誰もいないパソコンブースに行き、もう一度さっきのエロサイトを開いた。
画面を見て、危うく声を上げそうになった。
サイトの内容が、数分前に見たときから変わっていたのだった。トップにあった写真はすでに過去のページに格納され、新しい写真と動画がトップに来ている。
更新日時を見ると……ほんの五分前。
少ない情報から、この数分で何が起きたか逡巡した。
情報棟のあの子は、既にサイトからは失われた画像を持っていた。そして、その子がパソコンを操作して数分後、サイトが更新されている。そうするとあのタッチタイピングはHTMLを書き換えていたと考えられる。ただし、その場合は単にタイピングが上手い
というだけではなく、プログラミングもマスターしているということでレベルは格段に上がる。
今すぐ情報棟に引き返したいと思ったが、女の子にパソコンを見せてくれなんて言える訳も無い。
こうしている間にも、あの子は情報棟を出て行ってしまうかもしれない。そして自分の手元には何の証拠も無い。
どうする、と脳がフル回転する。
そうだ、と思いついたときには手が動いていた。
インターネットの情報は、キャッシュと呼ばれるコピーがネットのどこかに保存されている可能性を、思い出した。
キャッシュを保存している大手のサイトへ行く。そしてサイトの名前をペーストして検索すると…………あった。
サイトのキャッシュは二年前から今日に至るまで全て保存されていた。参照日時を今から十二時間前に設定する。瞬時に、昨日の夜見たのと同じページが眼前に広がった。当然、トップページには探していた写真がある。
プリンタ周辺に誰もいないことを確認し、印刷コマンドを実行する。マウスでボタンをクリックすると同時に、ダッシュでプリンタに向かう。プリンタの排紙は苛立たしいほど遅かったが、目立っても嫌なのでプリンタをひっぱたくのは我慢した。
紙を引っ掴んで席に戻る。人肌に近い温もりがまだ残っていた。席に座って開いた紙には、望んでいた絵が描かれていた。
紙をクリアファイルに挟みバッグにしまうと、思わず深いため息が漏れだ。
さて、と頭上で両手を組む。
写真は手に入れたが、これからどうするべきだろうか。自分を悩ませる写真は手に入れた。そして、この写真を持っているのは自分ともう一人、エロサイトを運営している謎の女の子だ。
あの子が例のサイトを運営していることはほぼ間違いない。しかし何故?
考えるにしてもあまり時間は残されていない。授業開始が二十分後に迫っていた。
図書館を出て自転車に跨る。授業がある一号館まで、図書館からは結構な距離がある。
傾きかけた陽が容赦なく体を炙った。照りつける太陽も、吹きぬける風も、吸い込む空気さえも、この世の全てが熱くて嫌になる。
手を翳して空を見る。日陰になりそうな雲はどこにも無かった。何も無い綺麗な空。どこまで行っても、何も無い。死んだら暑さも感じないだろうか、なんて考える。
一号館はその号数通り、この大学で一番古くからある建物だ。古めかしい赤、というより茶色に変色しているレンガ造りの建物も、この二ヶ月でずいぶんと見る目が変わってきたように思える。
教室に来ると、中は真っ暗だった。当然、まだ誰も来ていない。
明かりをパチパチと纏めてつける。クーラーは入っているらしく、部屋は冷え冷えとしていた。
階段を上がり、一番後ろの席に座る。遮光カーテンの下から、強い光が漏れていた。
カーテンに指を触れる。黒く分厚い緞帳は、健康的な温もりをたっぷりと含んでいた。
ここから内側の世界は、別の世界だ。熱と騒音から隔離された、かび臭い冷気と静寂が支配する世界。
そっと机に伏せてみる。机がひんやりと気持ち良かった。このまま誰も来ないかもしれない。教授も怒って帰るかもしれない。集めた資料も無駄になるだろう。それもいいや、と思った。
クーラーの冷気が、時折頬を撫でる。その度に、体が内側から溶け出していくみたいだった。机と椅子に体温を奪われていくのが心地良い。
目を閉じると、頭の中でぱちぱちと神経のスイッチが切れる音がする。
そう思った矢先、足音がしたので目を開ける。学生が数人入ってきた。そいつらは室内を見回した後、教室の中央辺りに座っていった。壁にかかった時計をちらりと見る。授業まであと一分しかない。なのに、室内には自分を入れて六人しかいない。何だか前の方に教授らしいおっさんが立っている気がしたが、一度切れたスイッチをオンにする気力は無かった。
少しだけ寝よう、と思った。
目を閉じると、またしてもピンクの布地が脳裏に浮かんでくる。ただ、さっきまでよりは幾分遠い位置に、輪郭も色彩もぼやけて見えた。やや距離を置いて眺めるそれは、興奮ではなく安寧をもたらした。
しばらく経って、気力も回復してきた。よし、起きるかと全身に力を入れる。打てば響く水みたいに全身が反応した。寝た甲斐はあったらしい。
前を向くと、奇妙な光景が広がっていた。
黒板は板書で白く埋め尽くされていた。しまった、という思いと共に全てを理解する。快調だった体の方は冷え切っていた。
「はい、今日の分は終わりです。お疲れ様でした」
教授のしゃがれ声が耳に飛び込んだ。時計を見ると、五時を過ぎている。
焦ってノートを取り始めるが、教授は無常にも端から板書を消しにかかった。寝ていた手前、待ってくれとも言えない。
教授が板書を消し終えたとき、半分ほどしかノートに書き取れなかった。教授はこちらを一瞥だにせず、教室を出て行った。他の生徒達もぞろぞろと出て行く。
かび臭い冷気と、静寂。そういったものがごうと一斉に戻ってくる。寝る前はそういうのも悪くないと思ったのに、終わってみると冷え切った体しか残らない。
カーテンの下から零れる光は、寝る前よりも弱くなっている。もう昼も終わり。当然だけど夕方が来て、夜になる。家に帰ってパソコンでネットやってご飯食べて、それで今日はおしまい。
立ち上がるのもかったるくなって、もう一度机に伏せる。机は冷たい板切れと化していた。何もしていないのに脱力感がひどい。数時間前、女の子の下着を追い求めて右往左往していたことも、すごく馬鹿らしいことだと思えた。
再び闇に飲まれようとする頭を、遠くから規則的に聞こえる硬質な音が現実に引き戻した。
工事かと思い目を開ける。しかし、工事にしては音が軽い。
音はだんだん大きくなっていった。今では拍手のように乾いた音になっている。音の主は、教室の隣まで接近した。
「もう手ぇ焼かせないでよ!鈴木さんにも謝っといてよね!」
耳をつんざく怒号に、反射的に体が跳ね上がった。
声は入り口から聞こえた。見ると、入り口から一人の女の子が鬼の形相で教室に飛び込んでくるところだった。その子は目の覚めるような緑色のカーディガンを着ている。ぼやけた視界にグリーンの残像が流れた。
へ?と思わず声が出る。
電話口で怒鳴っている女の子は、数時間前に情報棟にいた女の子その人だった。
女の子はひとしきり電話口で怒りをぶちまけたかと思うと、今度は人が変わったように謝り出した。電話口で頭を下げるなんて、今時サラリーマンでもしないだろうに。
「本当にすみませんでした。私から言っときます……はい。はい。ええ、分かりました。また週末お願いします。はい。失礼します。どうも……」
電話を切った後、その子が振り向いた。雑だと思っていたショートカットは、無造作ヘアとでも言いたげな跳ねまくりのくせっ毛だった。見ようによっては小学生の男の子のようにも見えた。吊り上がり気味の大きな目が、はっとした様にこちらを捉えた。
あ、起きてたんだ俺、と気付いた瞬間、女の子が警戒するのが分かった。全力で眉を顰めて「コミュニケーションお断り」の構えを取られる。
「あ、うす。ども」
適当な返事と、相手を見たままへこへこと頭を下げる会釈をしてみせる。
これじゃ、駄目だ。
気が付いたときには、右手は鞄のクリアファイルを掴んでいた。
全身のバネを使い、思い切って立ち上がる。
「あの、すみません!」
結構なボリュームが出たことに我ながら驚く。それは彼女も同じだったようで、大きい目がさらに見開かれてこちらを捕えた。
鼻から一つ息を吸う。そして、吐く。大丈夫。体は、意のままだ。
胸を張り、右手を堂々と前に突き出す。頼りない蛍光灯の光だったが、ピンク色の画像が透けて見えた。
女の子がみるみる色を失う。薄い唇は震え、何かを言いたそうに開きかけた後、閉じられた。
「……何ですか?それ」
少しの沈黙の後、女の子は口を開いた。吊り上がり気味の目が訝しげにこちらを睨む。
「君のサイトにあった」
こちらの言葉に、女の子は黙り込んだ。
「聞きたいこと、あるんだけどさ」
自分の優位を確認したところで質問を始める。
「こっち来て」
女の子は機先を制するように言い放った後、教室の外に出て行った。見失っては敵わな
いと急いで後を追う。
女の子は建物を出た後、小さな噴水の前で止まった。大股で歩くものだから、追いかけるこっちも軽く息が上がってしまう。
「で、聞きたいことは何でしょうか」
こっちが息を整える前に、女の子は何の感情も見せず言った。汚物を見るような眼を真正面に向けている。
「さっきの子が誰か、知りたい」
何でエロサイトを作っているかとは聞けなかった。
「ネットで拾った写真です」
放たれた言葉に澱みは無かった。瞬きもせずこちらを見る瞳には、怖いくらいの迫力が宿っている。
嘘だ、と思った。
「ふーん。でも、これ盗撮でしょ?この制服、俺の母校の生徒っぽいんだ。消してよ」
「写真は消しました。フォルダーからも削除します。ご迷惑をおかけして、どうもすみません」
意外にも、サイトを運営していることはあっさりと認めた。
「……写真はネットで拾ったって言うけど、元のサイトはどこ?」
「え?」
「そこに削除要請出さなきゃ、ずっと残っちゃうじゃん。教えてくれない?」
「そこも、もう消してると思います。てか、消してました。確認済みです」
「キャッシュって知ってる?そっちの方はずっと残っちゃうんだよ。これから高校に連絡して、そのサイトの管理人と話し合ってもらおうと思ってる。条例とか色々引っかかりそうだし。だから、教えてくれない?」
こちらの言葉に、女の子は顔を逸らした。心なしか、息が荒くなっているように見える。
今になって、女の子は脅迫を警戒していると気付いた。噴水の周りには、多くはないが人通りがある。
「その写真の子ですけど、えーっと……」
女の子はそう言うと、視線を色々な方向に逸らした。ここまで動揺を隠せない人間も珍しい。
ふと、視線が戻った。何か思いついたらしい。
「隠していてすみません。その子、あなたの高校の生徒じゃありません。私の知り合いなんです。今度、相談するよう本人に言っておきます」
そう言って、女の子が薄い笑みを浮かべる。迫力満点と思った瞳は、よく見ると小刻みに震えていた。
面倒くさい嘘付きやがって。ここで手を引けばみんな無傷でハッピーだなんていう結論に飛び付きたくなる。
でも、胸の火に水を浴びせると電気のショートみたいに火花が上がり、主である俺をじりじりと焼く。火花は居心地の悪さを惹起し、虫唾を走らせ、全身を底無しの不快へと飲み込んでいく。
くそったれめ。
「それじゃ、駄目だ」
「何が?」
「この子、俺の知り合いかもしれないんだよ。どっかで会ったことあるかもって、ずっと気になってしょうがないんだ。だから、教えてくれない?頼む。この通り!」
仰々しく両手を合わせて頭を下げる。砂利を踏む自分の靴をしげしげと見ながら、不思議と嫌な気分はしなかった。
「ちょっと……人に見られるから止めてよ」
「ごめん。俺、その子のことが心配で……無理なお願いだって分かってるけど、教えてくれない?」
よくもこう初対面の人間相手に嘘が出てくるものだと、我ながら感心する。
昔から嘘をつくのは苦手なはずだった。嘘をつくと、その後も設定を引きずるのが面倒だった。
女の子の顔をちらと見る。相変わらず迷惑そうな顔をしているが、さっきまでの敵意は影を潜めていた。
「写真の子は私の知り合いで、あなたの友達じゃないの。さっきも言ったでしょう?」
「君がその子と知り合いなのは分かった。でも、俺の知り合いじゃないってのは何で分かるの?」
「……その子とは、すごく仲が良いから」
「それだけじゃ、理由にならない」
「じゃあ、逆にあなたはあの写真を誰だと思ってるの?私が正解かどうか教えてあげるから、言ってみてよ」
「いや、名前まではっきりとは思い出せないんだけど、見たことあるってことだけは覚えてるんだ。それに、君から名前を教えてもらえれば、俺の勘違いだって分かるかもしれない。誰にも言わないって約束する。もし変な噂が立ったら、俺を疑ってもらって構わない。だから、教えてよ。この子のこと」
声に自信が漲っていくのが分かる。自分の言い分をこんな形で通すなんて、初めての経験だ。
改めて女の子を見る。ためらうように目を泳がせる顔を見て、胸が強く脈を打った。
女の子は黙ったままだった。日差しのせいか、顔も赤くなっているように見える。
突然、女の子は歩き出した。足を向けた先には、さっきの一号館がある。
「待ってよ!」
「声でかい……付いて来て」
そう言うと、女の子はそのまま一号館の中に入っていった。
今日一日の授業を消化しきった校舎は、サークル活動の場へとその役務を変えていた。ブラスバンドや合唱などの音楽系のサークルは全てここに集められているはずだ。
長い廊下を一直線に歩き、一番奥の教室に入る。入り口近くに突っ立っていると、先に入った女の子が呆れたように扉を閉めた。
女の子はやや距離を開けて、俺の前に立った。水平に近くなった夕日が、彼女の顔に濃い影を引く。半分になったその顔から、表情を読み取ることはできない。
「さっきの質問だけど……」
深い溜息が女の子から漏れる。伏した目が何度かしぱたいた後、意を決したようにこちらを見据えた。
「最初に言いたいのは、あの写真の子は、あなたが心配してる子じゃないってこと。だから、安心して大丈夫」
「それは……確実?」
「うん。確実」
「そう言い切れるのは、どうして?」
広場でのやり取りを繰り返す。その瞬間、半歩引いた彼女の顔に光が当たった。
彼女の目に、光るものが見えた。そして、彼女は笑っていた。
「写ってるのは、私」
声を上げそうになるのを、慌てて呑み込んだ。
ウツッテルノワ、ワタシ。言葉通り、被写体が自分ということなのか?
「理由も言っとくと、あのサイトのアクセスが最近下がってきたから、色々試しにやったことの一つ。アクセスが増えなかったから、もう消したけど」
そう言って、女の子は自嘲気味に鼻で笑った。
何故だろう。今日始めて会った人なのに。胸が締め付けられた。
様々な言葉が浮かんでは消えていく。何か聞かなきゃいけないのに、何を聞けばベストか判断できない。自分の頭の悪さが腹立たしい。
「私とあなたとは、知り合いじゃないでしょ?だから、全部あなたの勘違いなの」
「あのスカートは一体……」
「あれ、うちの高校の制服。あんな柄のスカートなんて、どこにでもあるじゃない」
そう言われると、黙るしかなかった。
「ひょっとして、脚の黒子を見て自分の知り合いかもって思っちゃった?」
「かもしれない」
「じゃあ、ますます勘違いだね」
「どういうこと?」
「あの黒子、マジックでつけたから」
そう言うと、女の子は乾いた笑いをあげた。
こちらも釣られて笑ってしまう。笑うことしかリアクションできなかった。何も言えなかった。すっからかんの頭は、気の利いた答えを出してくれなかった。
「おっかしいよね。なんか、色々拗れちゃって。盗撮写真を晒された可愛そうな子はいなかったってワケ。あなたが気を揉む必要なんて無い。分かった?」
女の子が投げた言葉に、引っかかるものを感じる。
可愛そうな女の子はいなかったと彼女は言う。しかし、そんなことは信じられなかった。
女の子の瞳が大きく波を打った。声も幾分擦れている。女の子の前に立つだけで、こちらの胸が掻き毟られるような気分になる。
強い西日に焚きつけられるように、俺は口を動かしていた。
「何でサイトを運営してるの?」
「お金のため」
「ジャンルとか、もうちょっと他にあるでしょ」
「あれが一番稼げるの。不況とか関係ないし」
「でも!」
自分でも気が付かないうちに踏み出していた。女の子は身じろぎ一つせず、こちらの領土侵犯を受け止めている。
西日が容赦無く目を突いた。虹彩がシャッターのように絞られ、オレンジと黒のグラデーションの世界に迷い込む。
その中を、影が動いた。やさしい風に吹かれたように、黒い影がオレンジの光を纏っては脱いでいく。ぎぃという音を聞いた時、初めて女の子がドアノブに手を掛けたと気付いた。
待って、の一言がどうしても言えない。
「サイトのこと、誰にも言わないで」
女の子は決然とした声で言い放ち、扉の向こうへ消えていった。
鼻柱を大粒の汗が舐めるように垂れていった。

あの日から一週間が経ち、下らない日常が日々を埋め尽くしていた。
女の子とは一度も会っていない。その間も、サイトは更新され続けた。写真の方は、過去のページを見てもどこにも見当たらなかった。本当に削除してしまったらしい。
授業が終わって教授が黒板を消し始めても、もう焦らなかった。今日はちゃんとノートを取っている。しかし、肝心の中身はまったく頭に入ってこない。今の自分は、板書をメモするだけのひどく単純な機械に成り果てている。
席に座りながらも、全神経は耳に注がれている。しかし、あの乾いた足音は聞こえてこない。
女の子に会っても告げるべき言葉なんて持っていない。しかし会いたくないかと聞かれれば嘘になる。だからこそ、別に出なくてもいい授業に出ている。また、あの子が飛び込んでこないかと夢見ながら。
スマートフォンを取り出し、例の写真を開く。紙だと目立つので、パソコンからメールで送ったものだ。安いプリンターでは表現できない色艶が、鮮やかなまま残されている。手の中の画像を、思い切り拡大してみる。確かに、黒子に見えた点は肉の盛り上がりが無かった。
「何見てんだよ」
頭上から力の抜けるような、間延びした声が聞こえた。
来ちまったか。重たい頭を上げて前を見る。
茶髪にサングラス姿の牛島カズオが、ニヤつきながらこちらを見下ろしていた。タンクトップなんか着ているせいで、ボンレスハムみたいな肩が一層太く見える。
牛島が後ろの机に飛び乗る。机が、ぎぃぃと悲鳴を上げた。
「ああ、晩のおかずを探してたんだよ」
自分でもひどい言い訳だと思ったが、牛島は突っ込んでこなかった。
「まあ、何見ようと勝手だけどさ。で、用って何?」
話を急かされ少しだけイラつく。とはいえ、こちらも牛島と無駄話をするために呼んだわけではない。早速本題に入る。
「牛島ってさ、サークルやったよな?あの……ネットで稼ぐとかいう奴」
「アフィリエイト。ああ、辞めた」
「は……え?」
意外な回答に言葉が詰まった。
「だから、辞めた」
「何で?会長だったろ?」
「色々あった」
思わせ振りな言い方にむかついたが、それを口にしても始まらない。やはりこいつはサークルとか集団生活は合わなかったのだと一人納得する。
「外行こう」
牛島が机から降りて歩き出す。
「やだよ。あちーじゃん」
「タバコ吸いたいから」
牛島と並んで外に出る。ちょうど女の子と話した噴水の辺りで、牛島は携帯灰皿を取り出した。
「サクちゃん知ってる?同クラの佐伯って女、外資系インターンに決まったらしいぜ」
誰だよと思いながら、ああそうと返事をする。牛島はその外資系企業がいかに優れた企業か雄弁に語った。
「絶対顔で選んでるよなー。あんな頭スカスカの女。絶対選ばれるべきじゃねーよ」
「お前、その会社行きたかったのか?」
「いや、俺は進路にはしてないよ?でも、俺のサークルの優秀な奴がそこ落ちてさ。代わりに佐伯が受かったってわけ。彼、死にそうな顔してるわけですよ。世の中間違ってると思いません?」
「その佐伯って子が、お前の友達より優秀だったんじゃないの?」
「あ、悪いけどそれはないですよ。そいつ、去年のビジネスコンクールで一位取ったから。まじ優秀な奴です。はい」
牛島の悪態を聞いているうちに、一人の顔が思い浮かんできた。佐伯京子。可愛い先輩として、うちのクラスの男がちょっとと騒いでいた。たしか、背が低くて子供っぽくて、結構モテそうな子だったはずだ。でも、それしか知らない。
「俺はその佐伯って子のこと知らない。だから何とも言えない」
「ああ、そっすか」
牛島はさも残念そうに、表情を殺してへこへこと頭を下げた。こいつを離す度に耳にゲロを入れられて頭が腐っていくような気分になる。
とはいえ、今はこいつしか頼れる奴がいない。
「まぁいい。これ見てくれ」
スマートフォンを牛島の鼻先に突きつける。
「何これ……ああ、さっきのエロサイトか。どうかしたの?」
「このサイトのどこが悪いと思う?」
「藪から棒に」
「いやね、このサイトの管理人と知り合いになったんだ。で、最近アクセスが増えなくて困ってるらしい。何かこうした方がいいってこと、無い?」
「急に言われても無理。アクセス解析とかコンテンツの精査とか、色々せにゃならん」
牛島はタバコに火を点け、煤煙交じりの息をスマホに吹き付けた。
「何でも良いんだ。頼むよ」
手を合わせて牛島を拝む。
「あのね、アクセスを稼ぎたかったら、そこを実際に利用してる奴の意見が一番。これ、三次元の女のサイトっしょ?俺は二次元にしか興味は無い。だからこのサイトの駄目なところが分からないし、興味も無い」
くそったれ。妙なところで頑固な奴だ。
「ほら、よく見ろよ。何かこう……ピンと来るもんはない?」
半ばヤケになってスマホを牛島の顔に押し付ける。やばい、牛島の脂ぎった鼻にスマホが着いてしまった。
「おい、やめろよ。てか、字をもっと大きくしないと読めないっしょ、こんなサイト」
「ああ、スマホだからだ。字なんて潰れるだろ」
「……これ、パソコン用のページ?」
「何言ってんだよ。ネットはパソコンでやるもんだろ」
俺がそう言うと、牛島は大げさに鼻から煙を吹いた。胸を掻き毟りたくなった。自分が見下している奴に笑われることほど不愉快なことはない。
「あー、分かったわ」
牛島はかったるそうにそう言った。
「マジで?何が分かったんだ?」
「ここの管理人がアホってこと」
ゲロでいっぱいになった頭が沸騰しそうになった
「もったいぶんないでよ」
精一杯の愛想笑いを牛島に向ける。自分の価値がひどく下がった気分になった。
「今時スマホでちゃんと見られないサイトなんて、化石同然だよ。サクちゃんは知らんと思うけど、今の十代はパソコンよりスマホでネットをやる時間の方が長い。そいつらを取り込まないと、この先厳しい。ここの管理人は、そんなことすら分かってないってこと」
確かに、スマホで見るサイトは読めないし、次のページに行くボタンすらまともに押せない。画像が見えれば事足りると思っていた。
「どうすりゃいい?」
「パソコンでもスマホでも、端末に合わせて表示を最適化するプログラムを追加する。レスポンシブ・ウェブデザインって言うんだけどね。面倒だけど、日本中の飢えた中高生を取り込めるんだから、やらない方が馬鹿っしょ」
牛島はそう言うとタバコを深く吸い込み、吐き出した。
「さっすが。やっぱすげーよ」
「常識だよ」
ほんの少しだけ、牛島の評価を上方修正する。
「今度、高級スイーツを進呈しよう」
「どうせコンビニの菓子だろ?ま、期待してるよ」
牛島が笑いながら二本目に火を点ける。有用な情報も聞き出せたし、もうこいつに用は無い。
「今日はありがとう。礼を言う」
「いいよ。大したこと教えてない。それより遊びに来てよ。ゲームしようぜ」
「ごめん、今日は親が来るんだ。また今度」
牛島は一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐ取り繕うようにタバコを吸った。何か言いたげにモゴモゴと口が動いたが、結局何も言ってはこない。いつもと同じだ。
「また連絡するよ」
「おお、うん」と返事をする牛島を尻目に、俺は走り出していた。
体内の内燃機関が、待ってましたとばかりに体温を上げていく。心拍数と共に、気分も上がっていく。体中からぶわっと汗が吹き出てくる。
そのままの勢いで情報棟に突入し、いつもの席に滑り込む。
いつもと同じく、青白い顔の人間達が青白い画面を見つめて座っていた。第三者から見たとき、俺はこいつらと違う生き物に見えるだろう。エンジン全開で突っ走るこの俺と、風雨に晒されスクラップにされるのを待つこいつらとでは、生命の輝きが違うはずだ。
パソコンを立ち上げてサイトに向かう。サイトの一番下の方に……あった。メール送信フォーム。件名の欄に『アクセス数を増やす方法について』と書いて、本文欄にカーソルを合わせる。
『お久しぶりです。この前大学で色々話した木戸です。あの時は自己紹介してなかったけど、木戸という名前です。サイトのアクセス数を増やす方法を考えました。気になったら返信してください。連絡待ってます』
最後に自分の番号とアドレスを書いて、送信ボタンを押す。『送信されました。ThankYou!』という文字が出て、無事に送信されたことを確認する。
一応、これで相手にボールを渡したことになるのだろうか。期待と不安の間で揉みくちゃにされるのは受験以来だ。
面白そうなことを思いついては突っ走るのが、昔からの癖だった。自分はそのせいで何度もピンチになったじゃないかと、今更ながらに思い出す。少しだけ嫌なことを思い出して、席を立った。
停めっぱなしの自転車の鍵を外す。温くなったサドルに腰掛け、ペダルを蹴る。午後五時の夏の空気を纏い、俺は大学の外へ出た。

せっかく牛島から仕入れた情報にも、女の子から反応は無かった。
一時間おきにメールセンターに問い合わせた、と思う。自転車に乗りながら、飯を食べながら、授業を聞き流しながら、メールを更新した。しかし、メールは来ないままもう一週間が経つ。
女の子との邂逅も、遠い昔のことのように感じる。
あの教室の中で、神秘的に光ったオレンジの瞳も、影の中を滑るように動くシルエットも、覚えているはずのことが、カリカリの化石みたいになっていく。思い出が記憶になっていくって、こういうことなのかなあとボンヤリと思う。
反応があったのは、八日目だった。
電話は牛島からだった。
「サクちゃんさぁ、今日これから部室来られる?」
部室、と聞いて一瞬考えた。こいつは既に辞めているはずではないか。
こちらの考えを推し量ったのか、牛島は言葉を続けた。
「ああ、あの後、サークルの奴らにも声かけたんだ。これでも元会長だからな。で、サクちゃんに話したいって奴がいたわけ」
なんと、牛島はこんなにも役に立つとは。嫌いな奴がたまに役に立つと、五割増しでいい奴に見える。
「ありがとう。光の速さで行くから待っててくれ」
スマホを鞄に放り込むと、自転車のペダルに足をかけた。
軽い。
上体を低く折り畳み、空気抵抗を少なくするよう心がけた。
スピードが上がるたび、風が耳元でびゅうびゅうと鳴る。背景に紛れ、人らしき残像が視界の後ろへとかっとんでいく。ああ、俺は今、この大学で一番のスピードスターだ。誰も俺に追いつけない。心が軽くなっていく。
学生会館の駐輪場に自転車をとめ、三階のサークル室へと駆け上がる。
学館は魔窟そのものだ。大昔は学生運動の拠点に使われていたらしく、今でも左翼的なスローガンを書いたポスターが天井や壁に貼られている。ヘルメットを被り角材を振り回す彼らの姿は、教科書でしか見たことが無い。
上の階に進むにつれ、廊下が狭くなる。主にはロッカーが廊下を占拠しているせいだが、撮影機材や映画のセットや、何に使うのか神輿まで置いてある。
臭いも独特だ。人の脂の臭い、タバコの臭い、シンナーの臭い……瘴気とでも呼べばいいのだろうか。会館の禍々しい雰囲気に花を添えている。
狭い廊下を行き交う人も、人と獣の境のようだ。目は落ち込み頬はこけ、足を引き摺るようにして歩いている。それなのに目だけは爛々と輝き、獲物を求めているようだ。途中、血糊をたっぷり付けたゾンビの集団に出くわす。ゾンビの格好でみんな楽しそうに会話しているのを見ると、不思議な気分になってくる。
目指すサークルは三階の奥にある。ペンキが剥げた鉄のドアの前に立つ。
甲高いノックをしても、中から返事は無かった。
ノブを回してドアを開ける。存外重たいので、体当たりするようにしてこじ開ける。ぎぃぃと開いたドアの隙間から、むわっと毒々しい空気が漏れた。
カーテンを引いた部屋は暗かった。古い蛍光灯が、無機質な光を弱々しく放っている。
狭い部屋に小学校で見たような学習机がみっちり詰め込まれ、天井から救急患者につなげるチューブのように様々なコードが垂れ下がっている。部員は六人だった。全員、部屋の入ってきた自分に見向きもしない。
誰も視線を向けてくれないので、所在無げに立っているしかなかった。静かな部屋に、ミシンのようなキーパンチの音だけが響く。見ると、全員が眼鏡をかけていた。六人のレンズにパソコンの青白い光が反射している。
牛島の野郎どこ行った。
そんなことを考えていると、その中の一人が、画面を見たまま立ち上がった。背の高い男だった。
男は黙ってドアを指差した。
――ドアでも閉めろというのか?
しかし、ドアは閉まっている。
首を捻っていると、今度はツカツカと目の前まで歩いてきて、言った。
「こっち来てください」
低い声で言ったそいつは、片手でドアを開けて出て行った。近づいて分かったが、背がかなり高い。胸板も分厚かった。
力だと、負ける。
表立って言う奴は少ないが、初対面の男同士は相手の筋肉に注意を払う。殴り合いになっても勝てるかどうかというのは、男同士の立場を決めるマナーとして相応の地位を占めているのだ。
仕方なく、男の後を追う。
廊下に出たそいつは、奥の行き止まりまで進んだ。どこに行くのかと訝っていると、廊下の一番奥の非常口を開けた。緑色の非常口ランプは消えていた。
外は非常階段だった。錆びだらけの螺旋階段越しに開けた視界が目に入る。
そいつは振り向きもせず、上へと昇っていった。
「どこまで行くんすか?牛島は?」
「屋上です……彼も居ます」
男はぼそぼそと答えた。訳も分からず、広い背中に付いていく。
螺旋階段を昇っていると、バットを立てて額につけ、ぐるぐる回る遊びを思い出す。ただ、ここで目を回したら大惨事確実である。
すっかり腿が重くなったころに屋上に着いた。息を切らせて顔を上げると、さらに視界が開けた。
眩しい。そして暑い。
屋上にはだだっ広いコンクリ敷きのスペースが広がっていた。コンクリの継ぎ目から雑草が伸び、まるで意図してライン上に植えられたように見える。屋上のど真ん中には、何故か長机と四脚のパイプ椅子が置いてある。その一つに牛島が座っていた。
牛島は漫画か何か読んでいるらしい。こちらに気づくと本を机に伏せた。
男は無言で歩き出した。慌ててその背を追う。
牛島が立ち上がった。
「おお、来たか。遅かったな」
「時間通りだ。適当なこと言うな」
つい、きつい言葉が口を突く。
三人が揃ったとき、男がこちらに振り向いた。
日差しの下で見たそいつは、切れ長の涼しげな目でこちらを見据えていた。自分が睨まれていると分かるのに少し時間を要した。
男は背が高く、こちらを見下ろす位置に顔がある。バスケとか上手そうだ。いや、この顔なら剣道とか弓道かなと、男にあれこれ衣装を重ねてみた。
そのまま、数秒が経過した。男は、視線を一ミリも動かさない。
嫌な予感が背中を這い上がってくる。胃液も込み上げてきた。
たまらず牛島に目を向ける。
「で、話を聞きたいって、何のことだ?」
牛島は無表情で床のリュックを拾った。
「いやな、これなんだけどさ」
牛島はそう言うなり、リュックから何か紙片を取り出し机に投げた。それは三枚のA4用紙だった。男はその紙を拾い、木戸の眼下に差し出した。
「これに覚えはありますよね?」
男はゆっくりと発言した。押し殺したような、威圧的な声だった。酒焼けだろうか、結構なハスキーボイスだが、それも声の凄みに一役買っている。
紙面に目を落とす。それを見て、はっと息を飲んだ。覚えがあるも何も、紙には自分が先週サイトの子に送ったメールの内容が、そのままプリントされていた。一番最後のメールアドレスと電話番号まで、全部自分のものだ。
「お前が書いたんだよな?」
牛島が念を押すように聞く。
「ああ。それがどうした?」
そう言うと、男はゆっくりと紙を取り下げた。
牛島を見る。牛島は、まるでこの状況を予想していたように、少しがっかりした顔を浮かべた。
「少し説明しろよ」
牛島に言ったつもりだった。しかし、反応したのは男だった。
男は紙の二枚目と三枚目をこちらに差し出した。
紙に目を落とす。二枚目には、短い文章が書いてある。
『木戸だ。
俺の申し出を無視したな。
ふざけんな。
例のエロサイトは今すぐ閉鎖しろ。
さもないとお前が管理人だって全校にばらしてやる。お前のこれまでの悪行もだ。
お前の薄汚いエロ写真を付けて流してやる。うちの大学の品性を陥れるな。
一週間待つ。木戸』
不可解なメールは三枚目に続いていた。
『木戸だ。
まだサイト閉鎖してないな。こちらもこれ以上我慢できない。
写真は消したようだが、無駄だ。俺のパソコンには保存してあるぞ。
俺は写真を加工できる。エロ写真にお前の顔を貼って全国に流してやろうか?
お前が変態女の詐欺師だって暴露してやる。
気が変わった。俺の口座に、これまで儲けた金を全額振り込め。
期限は一週間やる。木戸』
文末には、銀行の口座番号が書いてあった。また、無名の画像ファイルが添付されていたと書いてあった。ここまで読んで、ようやく理解できた。自分はいつの間にか脅迫犯になっていたらしい。
「こっちの方は、認めるか?サクちゃん」
牛島が弁護士みたいな口調で聞いてきた。
「俺じゃ……ない」
当然の返答をする。自分の声が、自分じゃないみたいだ。
「じゃあ、何でこいつは木戸さんの名前を使えるんですか?」
言外に「お前だろ」と言われる。
「そう。何でこいつがサクちゃんの名前を知ってるんだろーね。ついでに、中身も最初のメールを踏まえてたしさ」
牛島が明らかにフォローになっていないフォローを入れた。この馬鹿がと心の中で罵倒する。
「そんなの知るか。俺じゃない」
相手の疑念が高まっていく様子が、ひしひしと伝わってくる。まずい。だけど、どうしようもない。
「証拠は無いんですね」
そう言って、男は一歩踏み出した。殴られる!と身構えた。しかし、男は距離を詰めただけで何もしなかった。
「やってないことを証明しろって言ったって、無理っすよ」
こういうのって悪魔の証明だっけと思い出す。とはいえ、思い付きで言ったせいか、ますます犯人っぽくなっていく。
「俺じゃない。大体…」
机上の紙を手に取り、屁理屈をひねり……出す。
「最初に一緒に働きたいって言っといて三日後にサイトを閉じろとか、同じ人間だったら普通言わない。それにこれ、陥れるじゃなくて貶めるって書くぞ普通。俺だったら、こんな風に書かない」
つい早口になってしまう。自分でも聞き取れないほどだった。
紙を机に投げる。紙はくるくるとホバーして、牛島の腹に当たった。
「だとさ。どうする?」
牛島が男を見る。
「お前はどう思ってんだよ」
男は鋭い眼差しを牛島に向けた。
「俺?さあ、俺は判断せんよ。お前が会わせろって言ったから、セットしたわけで」
牛島はそう言って両手を頭の上で組んだ。
「まあ」
牛島がしげしげとこちらを見る。ねっとりとした視線に虫唾が走った。
「やりかねんかなー、とは思う。でも、違うっしょ」
思わぬ援護射撃だった。
「何でだよ」
「もしサクちゃんなら、もっと分からないようにやる、と思う。名乗らないだろうし、いきなり金を要求したでしょ」
男が牛島を睨む。
「――と、思う」
虎の尾を踏まないように、牛島が言葉を濁す。それでも男は意気軒昂だ。汚物を見るような目を黙ってこちらに向けている。
「見たんですよ」
男が怒気を込めて言う。
「何を?」
嫌な予感がした。
「先週、サイトの管理人と何か話してましたよね?二人きりで」
息を飲んで言葉に詰まってしまう。その反応すら、男には筒抜けみたいだった。
「教室から出てきた彼女は、泣いてました」
男の目は、空っぽのようにも、悲しげにも見えた。
「あんな暗い部屋で、二人だけで、一体何を話してたんですか?!」
十分な「溜め」の後、男が問う。その視線を受け止めきれず、つい牛島を見る。牛島は、もう吐いて楽になれと言いたげに、投げやりな顔でこちらを見ている。
「何であんたにそんなこと教えなきゃいけない」
「答えられないんですね?」
「サイトを手伝いたいって、頼んだ。断られたけど」
写真の件は言わないことにする。変に脅迫していたと勘繰られても仕方がない。
男は全く信用していないみたいだった。そのまま、じっとこちらを睨んで立っている。
「――まあ、いいです」
男は視線を落とした。
「はあ……」
重苦しい溜め息が男から漏れる。こちらに纏わりつくようだった。思ったより、こいつも追い詰められていたみたいだ。
「……もう一度聞きます。あなたじゃ、ないんですよね?」
切実な声で男が問いかけてきた。
「違う」
はっきりと答える。男の疑念が吹き飛ぶようにと。
こちらの返答を聞き、男は椅子に腰を下ろした。錆だらけのパイプ椅子がぎいと鳴り、そのまま男は動かなくなった。
「気は済んだか?」
牛島がぶっきらぼうに聞くと、男は手で顔を覆った。指の隙間から息が漏れるのが見えたような気がした。
あの子のことを心配している気持ちに嘘はないようだ。しかし、何でこいつはこんなに必死なんだろうか。
「ま、少なくともこいつに聞いても無駄ってことは分かった?」
「……ああ」
牛島が諭すように喋り、うなだれた男が首肯する。その落胆振りは、俺が犯人じゃないからなのか、俺が口を割らないからなのかは判断できない。
男はしばらく顔を覆った後、よろよろと立ち上がった。
「今日はどうも」
男は目を合わせることもなく言った。
「いきなり疑っといて、それだけですか?」
「まあまあサクちゃん、勘弁してやってよ。この人も事情があってさ。ね?」
牛島が割って入る。まあ、こいつに突っかかっても面倒が増えるだけみたいなので、止めておく。
男はひょこひょこと頭を下げ、階段へ向かっていった。男の姿が視界から消え、カーン、カーン、という間延びした足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
牛島と二人になり、どっと疲れが襲ってくる。腹から重たい溜め息が漏れる。頭も重たい。重力に任せて、さっきまで男が座っていた椅子に倒れこむ。
「お疲れ」
こっちの様子がおかしいのか、牛島が面白そうに笑いかけてくる。
「一体どういうことだよ」
「まあ、俺はサクちゃんじゃないって信じてから」
だったら少しは気を利かせろと思ったが、言わないでおく。もし自分が逆の立場だったら、こいつに便宜を図ったりしなかっただろう。
安心したせいか急に暑く感じた。両手で髪をわしわしと掻く。風が抜けて気持ちが良かった。
「で、サクちゃんは犯人に心当たりは?」
「あるわけねーだろ。あったら言ってる」
正直、もうこの事件について考えたくなかった。今となっては、私信を暴かれたことの恥ずかしさが強い。
「そっか。ということは……」
牛島は空を見上げ、ぶつぶつと言い出した。そして、いつになくキリッとした目をこちらに向けた。
「木戸ちゃんが織原に絡んだから、変なことになっちゃいましたね」
織原?はて。
「誰だ?織原って」
「あのサイトの管理人」
「……おい。お前、何をどこまで知ってる?」
そう言えば、こいつから話を聞くのを忘れていた。
「織原友恵。友恵は、友達に恵まれるって字。うちの部員だった女。で、さっきのは佐藤。
こいつは今も部員。織原の……えーと何だっけ、付き合っては無いはずだけど。まあ変わ
った野郎だよ。俺がサイトのこと聞いたら、目の色変えてきやがった」
「付き合ってもない女の心配してんのかよ。変な野郎だ」
「……そのままサクちゃんに返しますよ」
そう言われると、返す言葉も無い。でもそれなら、あいつも織原の秘密を掴んだということなのだろうか。これだけの男を翻弄する織原も、罪な女だ。
「あいつ、どうやってさっきのメールを手に入れたか、言ってた?」
牛島に質問され、一瞬戸惑う。
「メールを見られるのは、普通は管理人だけ。それをあいつは印刷していた。あいつは、織原のサイトをハッキングしてる。やばいよ」
「織原にプリントをもらって、頼まれてから来たって可能性は無いのか?」
「いや、あいつは下の部室でこの紙を印刷したんすよ」
「何で分かる?」
「紙。あいつが持ってた紙は、うちのサークルで使ってる再生紙だった。紙の質が悪いしダサい色してるから、すぐに分かった」
そう言われると、確かに薄くて今にも破けそうな紙だったような気がする。
「マジかよ。最低な奴だな」
「そして、その最低クンはもう一人いる」
「は?」
「真犯人だよ、サクちゃん」
牛島がちょっとあきれた様な口調で言う。
「知り合いでもないのにサクちゃんの名前を騙れるのは、サクちゃんのメールを犯人が見たからに決まってるでしょ?で、この画面は管理人以外入れない。ハックしない限りね」
「ハックハックって、ハッキングか?そんな簡単にできるのか?」
「あのね、ハッキングなんて別に何の技術もいらない。他人のパスワードをチラ見したり、他人のスマホを勝手に使ったりするのも、全部ハッキング」
そう言われるとそんな気もする。なんとも恐ろしい世界になったものだ。自分のスマホのパスワードも変えようかなんて、ぼんやり考えた。
「ま、俺に言えるのはこれくらいかな。今日はごめんね。変な奴連れてきちゃってさ」
牛島が席を立つ。
「なあ、牛島」
牛島を呼び止める。きょとんとした顔で牛島が振り返った。
「お前、例えば俺と同じ立場だったら、何かやりようはあるか?」
「やりようって?」
「犯人を捜すための、さ」
「……具体的に言いなよ」
「ハッキングとか何とか、できるかって聞いてるんだよ」
牛島が目を見開いた。
「この戦い、俺は圧倒的に情報が不足している。とにかく情報が欲しい」
「だから、具体的に。何を知りたい?」
「少なくとも、佐藤と同じことをやりたい。元部長のお前なら、何か方法は思いつかないか?」
牛島は両手を組み、唸り始めた。正直門前払いされると思ったが、意外な反応だった。
「うん。あるよ」
簡単な計算問題を解いたような顔をして、牛島が言った。
「本当か?どうするんだ?」
「とりあえず、部室に来なよ。作戦会議しましょう」
「サークル辞めてるんじゃないのかよ」
「いいのいいの」
牛島の背中を追い、屋上を後にした。
階段を降りながら、男が持ってきたメールのことを思い出す。
文体はシンプルだった。そのせいか、「ふざけんな」とか「我慢できない」とか書いているのに、怒っている感じが伝わってこない。むしろ最後の「金を振り込め」という結論に行きたくて筆を急がせているように思える。
とすれば、こいつは金を欲しがっているのか?
いや、それならそうと最初から書けばいい。最初の「申し出を無視した」という下りは不要だ。
犯人が何をしたいのか判然としない。とはいえ、これを読んだ織原は、目下のところ金を要求されていることになる。普通に考えれば脅迫だ。既に立派な犯罪である。
そして、気になることがある。牛島も佐藤も、さっきの様子だと気付いていなさそうだった。
――お前の薄汚いエロ写真。
――変態女だってばらしてやる。
あれは多分、織原が自分を撮った写真のことを言っているのではないだろうか。犯人がそこまで突き止めているとすると、結構厄介だ。本当にばらされた場合のダメージが大きい。自分ではなく織原のダメージが、だが。
さっきとは別の扉の前に来て、牛島が鍵を入れた。
「まだサークルの奴がいるんじゃないのか?」
「こっちは倉庫なんだ」
倉庫の方は部室よりさらに狭く、誰もいなかった。金属製のラックに埃だらけの機材みたいなのがいっぱい置いてある。机も、一つだけ置いてあった。
「適当に座って。で、パソコンはこれ」
部屋の真ん中にある机に牛島がノートパソコンを置いた。妙にでかくて、外装も変色している。
ケーブルをつないでパソコンを起動して、いつものサイトを立ち上げる。サイトの更新は、三日前から止まっていた。
問題のメールが送られたのは、三日前だった。サイトはその直後から更新されていない。
もやもやした思いが込み上げる。
「サクちゃん」
「うん?」
「先に、聞いておきたいことがある」
牛島がいつになく真剣な口振りで言う。
「なんだよ」
「これから教える方法は、結構イリーガルなんだよ。けど、よほど間抜けじゃないとバレることは無い。その辺の理解はオーケー?」
インスタントコーヒーを淹れながら、牛島が聞いてきた。
「イリーガルって、違法なことか?」
「もちろん」
どうする。現時点で、犯人と佐藤はそのイリーガルという方法をやっていることは分かる。それと同類になってまで、コトを進めて利はあるだろうか。
いや、利じゃないんだと、心の中の弱くて柔らかい部分を蹴り上げる。ばれない犯罪は犯罪じゃない。そう、好奇心が囁いた。
「やるよ」
牛島は唇の端を吊り上げにやりと笑った。暗い欲望を満たしたことで生まれる笑みだった。とにかく今は、こいつを頼るしか方法が無い。
紙コップにコーヒーを注いだ後、牛島が隣に座った。
「そうか。なら、俺の計画を教える」
牛島は自分のパソコンを立ち上げた。
「計画の前に、やりたいことをはっきりさせよう。サクちゃんは、織原を脅迫してる犯人を捜したい」
「ああ」
「それには、織原のことを探る必要がある。まずはメールの中身とか、とにかく全部」
「まあ、そうだな」
「そのために、これから佐藤のパソコンを覗く」
「はあ?」
悪い冗談かと思った。
「佐藤のパソコンのキャッシュを狙う。クッキーも。ネットの閲覧履歴を根こそぎいただく。その中に、織原のサイトのパスワードも入ってるはずだよ」
「佐藤のパソコンは、どこにあるんだよ」
「隣の部室」
「俺がそのパソコンを覗くのか?」
「サクちゃんには下準備を手伝ってもらう」
「何するんだ?」
「俺に、佐藤宛のメールを送ってよ。内容は……そうだな。さっきの件で『ふざけんな』って内容でいいよ」
「それだけでいいのか?」
「はい。そのメールを俺が『こんなのを預かってる』って感じで佐藤に転送する。奴が転送されたサクちゃんのメールを開いた時点で、プログラムが作動する」
「プログラムって何だ?」
牛島が淡々と説明するせいで、嫌な予感がしてきた。
「簡単な奴ですよ。インターネットの閲覧履歴を自動で俺にメールするためのプログラムってわけ。あ、飛ばしたメールの方は、佐藤のパソコンからは自動で削除される。奴が気付くことはない」
話を聞いても、いまいち話が頭に入ってこない。要するに、俺は……
「なあ、確認なんだが」
「何?」
「それって、コンピューターウィルスって奴か?」
「広義の、ね。簡単な仕組みだから、ウィルスってほどじゃないけど」
「佐藤から見て、ウィルスを送ったのは俺ってことになるのか?」
「はい」
臆面も無く牛島が言う。
そう、そういうことなのだ。
リスクとリターンがもくもくと湧き上がり、頭の中で渋滞する。しばらく考えてみても、その渋滞を解消するには情報が少なすぎた。
「ばれるかもって思ってるっしょ?まあ百パーとは言わん。でも、九十九パーは大丈夫だ」
「その自信はどこから来るんだよ」
「ウィルスがばれる段階は、主に二つある。導入と、結果だ。結果はさっき言ったとおり。あいつのメールボックスからは完全に消える。導入なんだけど、確かにここが厄介だ。セキュリティソフトもあるし。でも、作戦がある」
「何するんだよ」
「あいつのセキュリティレベルを下げる。ファイアウォールを止めるんだ。俺がメールを送るその瞬間だけ、サークルの防壁を消す」
「お前はサークル辞めたんだろ?なんでそんなこと出来るんだよ」
「管理者のパスは、まだ持ってるんだ。俺の家からでも操作できるんだよ」
牛島は恐ろしいことを言いながらも、さも楽しげに肩をゆすって笑った。
「おい、隣の部屋に聞こえるぞ」
「へ、あいつらみんなイヤホンしてるから聞こえやしませんよ」
意に介さないという風に牛島は太い首をぼりぼり掻いた。
「分かった?俺とサクちゃんは共犯になるってコト。俺だけじゃメールを送る理由もないし、佐藤も警戒する。サクちゃんが、今あいつにメールを送れる一番ふさわしい立場なんだ。で、俺はその機会を最大限に活用できるスキルがあるってワケ」
完璧な計画だろうと、牛島が胸を張った。
確かに、こいつも一応考えてはいるようだ。とはいえ、門外漢のこっちにはこいつの計画の巧拙を判断できない。
牛島はこちらの答えを待っている。このとき、牛島を信用し始めている自分に気が付いた。それは、牛島の計画が大丈夫そうだったからではなく、こいつがいかにも悪そうな笑みを浮かべていたからだった。
「余程自信があるみたいだな」
「大丈夫だ。問題無い」
少し考えて、牛島が持ってきたコーヒーに手をつけた。色々考えたが、答えなんか出る訳もなかった。
まあやってみるか、という軽いノリで、牛島の計画に合意した。

結局佐藤に送るメールは、前段は強引な聞き込みへの抗議を書き、後段は自分も犯人探
しを宣言する、という内容にした。ワードで作った文面を、牛島から送られてきた『特別な』メールフォームに転記して送り返す。メールフォームにウィルスが仕込んであるので、変な作業はするなと牛島に言われた。
牛島からの連絡は思ったより早く来た。
メールには、IDとパスワードらしき数字の羅列が記載されているだけだ。しかし、それを見ただけでピンと来るものがあった。
早速、家のパソコンを立ち上げ、織原のサイトへ飛ぶ。やはりまだ更新は止まったままだった。
メールで指示されたとおり、ホーム画面でそれらの文字列を打ち込む。すると、見慣れない事務的な画面が出てきた。これが管理者画面というわけだ。
牛島から電話が掛かってきた。
「サクちゃんメール見た?」
「ああ。で、入れたぞ」
「そうか、よかった。じゃ、後はそっちで頑張れよ」
「あ、待て。佐藤の奴、何か言ってたか?」
「今はまだ気付いてる様子はないな」
「じゃなくて、織原とか事件のことだ」
「ああ、別に何も」
「まあ、いいけどさ」
「何だよ。妙に寂しそうじゃないか」
「ちげーよ。何か分かったら連絡する。じゃあな」
そう言って、電話を切る。牛島には悪いが、今は目の前の織原のサイトを漁りたくてうずうずしている。
とりあえず、メールボックスから覗いてみる。そこで早速頭を抱えてしまった。
……まじかよ。
思わず声が漏れる。メール総数は九千六百通。自分の十倍はありそうな量だった。この中から犯人に関する情報を読み取らなくてはいけない。
フォルダは「無名」、「仕事」、「高校」、「大学」、「サークル」、「家族」、「親戚」の七つ分かれていた。
とりあえず、「仕事」のフォルダを開けてみる。
フォルダの中は、広告の運営会社からの売り上げ通知で一杯だった。自分が前に送った「業務提携」のメールもしっかり残っていた。一応、開封はしてくれていたようで安心する。
金、稼ぎ、振り込み、早く……。
とりあえず、関係ありそうな言葉を検索ボックスに叩き込む。しかし、これまでの広告収入の振り込みを伝えるメールが大量にヒットする一方、犯人とのやり取りみたいなものは一切無かった。
早くも目が疲れてくる。しょうがないので、上から一つ一つメールを開く作戦に移行する。今度は三十分もせず文脈を追う力が抜けてくる。そうなってくるともう駄目で、ちゃんとメールのフォルダ分けしてるんだとか、すごく丁寧な文を書くんだとか、どうでもいいことしか考えられなくなる。
「仕事」のメールフォルダを一通り見た頃には、一時間が経過していた。
眼精疲労は既に肩を通り過ぎ、脳髄まで達している。下の薬局で目薬でも買ってこようか……いや、無駄だろうから止めておく。
椅子から腰を上げる。足腰がバキバキと音を立てた。老人のような足取りでベッドに行き、ごろりと横になった。天井の女神に焦点を合わせようとするだけで、視神経をペンチで握り潰したような痛みが襲う。何だか吐き気もする。
こうまでして頑張ったのに、まだ何も有益な情報に辿り着いていない。その事実が、目の痛みを倍加させる。
少し休んでベッドから降り、冷蔵庫に向かった。
冷蔵庫から冷たいシートを取り出し、おでこに貼る。ついでに、冷蔵庫に入れたまま忘れていた目薬も見つかった。目に差すと、冷たくて気持ちよかった。
肩をぐるぐる回して席に着く。次は交友関係だ。「高校」のフォルダを開く。
こっちは完全に私信ばかりで、百二十通ある。大体五人くらいの女友達としかやり取りしていないようだった。ほとんどが、遊びの予定やテレビの内容がどうとかで埋め尽くされている。
五人、という数に少しだけ親近感を覚えた。ふと、自分の友達を数え上げてみる。三人まで数えて、そこから先はうやむやにしてパソコンに向かう。
この「高校」フォルダも、やはり犯人に結びつきそうな手がかりは無かった。とはいえ、数が少ない分ダメージも少なくて助かる。
次に行く。
続く「大学」のフォルダには、三十通くらいのメールしかなかった。相手は二人。二年前の四月の「はじめまして」で始まり、どのサークルにするか、どの授業を取るか、といった情報連携的な会話に終始している。そうした一連やり取りは、一ヶ月に一回くらい度行われ、今年に入ってからはぱったりと止んでいた。織原の大学生活が垣間見えたようで、少しだけ悪い気がした。そう言えばさっきの「高校」のメールも、大学に入ってからは一通も無い。
大学生なんてこんなもんだよなと一人納得する。人は年を取るたびに孤独と友達になっていくのだ。大学に入ってまで群れている奴はガキんちょだ。人は、群れると頭が悪くなる。忍び寄る危険も知らずに生きていくなら、周りに注意を払って長生きしたい。織原もそういう人種なのかと、勝手に仲間に加えた気分になった。
気が付くと十二時を回っている。まだまだこれからだ。
「サークル」のフォルダを開く。個人的には一番怪しいと思っていたところだ。
フォルダには、色々な人間とのやり取りがあった。牛島や佐藤ともやり取りをしている。また、宮田という女子と仲良くしているのも分かった。ただ、小野は入会後半年で辞めているようだった。
今回の事件、サークルの中の人間関係がこじれて生まれたものだと個人的には踏んでいた。しかし、メールのどこをほじくっても、仲違いも無ければ不穏な雰囲気も無かった。それもそのはずで、メールの量が時間と共に減っていき、今年に入ってからは「うん」とか「いや」とか、三歳児レベルの返事しかしなくなっている。当然、相手をする人間も次第に減っていく。行間から、現実世界のいざこざを想像するのは難しい。
視力が限界にきたところで、もう一度目薬を差す。目の奥まで薬効がじわっと広がる。――徒労だったか。
残っているのは、「家族」と「親戚」のフォルダだけだ。ここなら見なくても分かる。どうせ親からのメールが大半だろう。兄弟がいれば、それもそこそこあるだろう。期待は出来ない。そう思って、「家族」のフォルダを開いた。
『友恵!
すまんが!
またお金が無くなった!
大至急、四十万頼む!
最後はちゃんとするからね!』
妙に高圧的な文面が目に飛び込んできた。送信者を見ると、「母」となっている。命令するような、不躾な文面が鼻に付く。
気を取り直して次のメールを読む。送り主は「弟」となっている。
『久しぶり!元気ですか?結婚式の招待状、届いてるかな?まだ返事の葉書が来てないから連絡してみたよ!』
そんな元気いっぱいの書き出しで始まったメールは、姉を心配する気持ちで溢れていた
次のメール一週間前、「父」からだった。
『最近暑くなってきましたね。元気ですか?こっちは、何とか暮らしています――――』
控えめというか不慣れというか、どことなくおっかなびっくりでメールは綴られている。そして、父親も織原に金を無心していた。ただし、こちらは金額の指定は無く、少しでもいいから……と控えめに書いてあるだけだ。
メールを読み進めていく。
差出人を、「母親」で絞る。
母親からのメールは、二年前から毎月来ていた。その全てが、金の無心だ。ストレートに金を要求してくるものあれば、体調を気遣い、食べ物を心配し、服を送るなど親らしい行動に交えて、最後にちらりと要求してくるものもある。要求金額は次第に上がっていった。
気になったので、無心の金を合計してみた。机の奥から電卓を出し、ぱちぱち打ち込む。
……八百六十万円。
文系学生の計算ほど、この世で不確かなものは無い。
もう一度、メールを一つずつ開いて、数字を足していく。
やっぱり計算違いをしていた。正確には、一千万円ちょうどだった。
――一体何だってんだ。
思わず口走っていた。
重要参考人は母親だ。金が来ないことに腹を立てた母親が、織原から脅し取ろうとしたのではないか……。
馬鹿馬鹿しい。しかし、いくら頭で否定してみても、妄想で自家中毒になりそうだった。
頭、冷やそう。
家族の問題は何故こうも興味を惹くのか。
それは「正解が無い」からだと、高校の頃牛島に言われた。
席を立ち冷蔵庫を開く。常備しているはずのコーヒーが切れていた。
机から小銭を取り、コンビニに出かける。
ドアを開けると、湿った午前二時の空気に包まれた。
星を見上げる。重苦しい地球の大気など感知しないところで、巨大な星々は白く瞬いている。
「一千万円」という言葉の重みと、遠くに見える星とが、重なり合う気がした。
一千万を稼ぎ出した織原は途方もなくすごい。それなのに、何故だか今は、織原友恵を幾分身近な存在に感じ始めていた。

電話が鳴り、意識を取り戻す。
まぶたが重い。目がしぱしぱする。
音の方へ手を伸ばす。が、届かない。上半身がベッドからずり落ちていた。肝心のスマホはベッドの上だ。
「ふんっ」
声を出して上体を起こす。スマホを取る。やはり、牛島だった。
「……あい」
声が上手く出ない。口の中が粘っこい。歯磨きしておけば良かった。
「おつ。サクちゃん昼飯食った?」
「……昼飯?」
アホみたいに鸚鵡返しにする。牛島が何で飯の話題を出したか理解できなかった。
「昼飯だよ。ヒ、ル、メ、シ。てか、サクちゃん今どこ?」
机の時計を見ると、既に二時を回っていた。
「家だけど」
「まーじで。じゃあ俺だけで食うわ。じゃね」
「あ、待ってくれ。織原のサイトで結構分かったことがあるんだ。そっちは大学か?」
「えー?サクちゃん今から家出るんでしょ?流石にちょっと待てないわ」
「そうか……じゃあ晩飯にしよう。六時にココイチでいいか?」
「ああ、分かったよ。じゃ、またね」
そう言って電話は切れた。
今二時なんだなぁと、ボンヤリ考える。昨日調査を終わらせて、少し休もうと横になったのが五時だ。かれこれ七時間ほど眠っていたことになる。これで今日の授業は全部自主休講だ。
とりあえず、シャワーを浴びつつ歯を磨く。惰眠で溜まった澱みが排水口に流れていった。ドライヤーも面倒になって、机の上のノートと財布を鞄に放り込んでシャツを着る。
この軽さが、身体一つのこの身軽さが、大学生なんだと思う。高校の頃みたいに、真っ黒で重たい制服に堅い革の箱もいらない。何も無いから、軽い。
平日の昼の電車は本当に空いている。冷房も効いていて、座りたい放題だ。
入ってすぐの席に座る。向かいには母親と幼稚園くらいの子供が座り、斜向かいには制
服姿の男子高校生がスマホをいじっている。遠くに座っているサラリーマンが、カバみたいに大口を開けて欠伸をした。早朝や夜遅くに見るサラリーマンとは違う種類の人間みたいだ。
多分、今ここにいるような人達には、幸せになるための才能が自然と備わっているのだと思う。幸せと不幸せとを峻別して、良い方だけを選ぶ。現代社会を生きる我々に必要なのは、きっとそういった眼なのだ。
スカスカな車内に陽光が差し、車内は午後の柔らかな雰囲気に包まれる。ずっとここにいたいけれど、そんなのは真昼の夢だ。電車はいずれ、終点に着く。
電車を降りて、駅前の長くて緩い坂を上る。顔を上げると、四月に入った大学が見える。
一号館は、今日も今日で陽に焼かれていた。
入学式から三ヶ月が経った。新しいものは古くなり、珍しいものは当たり前になる。
不思議だ。焦っている。つまらなくなっていくことに、焦っている。
それは、加速している。物事が古くなり、カリカリに石灰化していく。その時間が短くなっている。
自分でも分からない。何で織原に執着しているのか、分からない。
いや、本当は分かっている。奴は、俺の中の、弱い部分を突き上げるのだ。あの夕暮れの中で、あの子の押し潰されそうな笑顔を見たとき、それを直感した。
逃がさない。
織原友恵を暴き尽くさねばならない。
そうしないと、俺がそうされてしまう。他ならぬ自分自身に。
自然と歩調が上がっていく。とっとっとっと。軽い脚が坂を駆ける。
坂を上り終えたときは、いつも憂鬱になる。これから大学に入るから。自分の居場所が無いことを再確認するだけの虚しい時間。幽霊のように構内を彷徨うか、情報棟に逃げるしかない。生協はとっくに飽きてしまった。
しかし、今日は景色が違って見えた。それは、今まさに織原友恵が、まるで自分を待ち構えていたかのように、正門前に立っていたからだった。
織原は目が醒めるくらい可愛い姿をしていた。ショッキングピンクのカーディガンに身を包み、背中には大きなリュックを背負っている。その下の白いワンピースは、光の祝福を受けたみたいに輝きを放っていた。
風に踊る羽衣に身を包み、織原が俺を見て立っている。
足が竦む。
気を吐いて両脚に力を込める。コンバースの靴が、もがくようにゆっくりと前進した。
一歩、一歩、織原に近づく。織原は一ミリも動かず、こちらが行くのをただ待っていた。
織原の一メートル前で止まる。視線が、そこで止まれと命じていた。
「よく大学に出てこられるね。下着マニアの変態さん」
織原はどぎついことをさらりと言った。
「俺じゃないよ」
 感情を込めず、事実をただ事実として報告する。
 こちらが竦まないとみるや、織原はこちらを値踏みするように足元から顔までしげしげと眺めた。
「分かってる」
意外な返事だった。
様々な疑問が浮かんでは消えた。脅迫を受けているのに何故こんなにも冷静なのか。犯人は誰なのか。そういった疑問で頭が大渋滞だ。
「……じゃあなんで大学に来たら変みたいに言うんだ?」
「自分で分かるでしょ」
「何だろう……ありすぎて分かんない」
ふざけた答えで時間を稼ぐ。動揺した心を悟られないようにするものの、そんなことすらも筒抜けなのだろうと思った。
織原がカマをかけている可能性も否定できない。メールを覗きはしたが、削除もしていないし、未読を既読に変えてもいないはずだ。
織原の表情からは何も読み取れない。
「ふーん。ま、私が警察に行く前に精々首を洗って待っておくことね」

「おい、ちょっと……何やってんだよ」
横からハスキーボイスがする。顔を向けると、佐藤がいた。
織原が溜め息を突き、頭を振った。
「……馬鹿みたい」
意味不明な罵倒をした後、ピンクの織原が脇を抜けて坂を下りていった。
二人で織原を見送った後、怪訝な顔の佐藤が口を開いた。
「織原に何か用?」
「俺が犯人じゃないって言ってただけだ」
「そしたら何て?」
「そんなこと知ってるって」
「……ふん」
素っ気無い返事だった。まあいい。静かでいてくれた方が好都合だ。
鼻から息を吸い、口から吐く。喉の調子を確認して、一気に声を出す。
「一千万円」
瞬間、佐藤の呼吸が止まった。思考すら止まったみたいだった。
佐藤が口を開いたが、何も言わなかった。いや、言えなかったのだろう。こちらがどこまで知っているか分からないから、うかつなことは喋れないはずだ。
「犯人扱いされたんだ。これぐらい、調べる権利はあるでしょ?」
「お前……なんで……」
「犯人捜すなら、身内から疑うのが筋ってもんじゃないか?」
「お前、見やがったのか!」
「お前も見たんだろ?お互い様だ!」
「俺は、友恵に頼まれたんだ!」
「嘘付け!部室で印刷したんだろ。何なら、これから走って織原に聞きに行ってやろうか。まだ間に合うぜ!」
こちらがそう言うと、佐藤は不快そうに顔を歪めた。
「牛島か……」
 佐藤はそう呟き、ギリリと歯軋りをした。
こちらと佐藤、二人の呼吸が重なり合う。取っ組み合いを始める前の猫みたいな間合い取りだ。
お互いの呼吸が落ち着くのを待ち、声を掛けた。
「何なら、最初から俺のパソコンを覗いてくれりゃよかった。履歴でも見れば、俺のせいじゃないって分かったはずだけど」
「……俺だって、好きでやったわけじゃない」
佐藤の目に奇妙な熱が宿っている。少し興奮しているようだった。ここらで退散したほうが身のためだろうか。
「そうかい。まあ、俺はこれで」
佐藤の脇を抜けてキャンパスへ向かう。
「待て」
佐藤に呼び止められた。
「何?」
「時間あるか?」
「あるけど……何か用?」
きつい声で言ってみる。佐藤がちょっと凹むのが分かった。してやったり。
「お前に話しておきたいことがある」
「俺はお前と話したくないし、そっちの話も聞きたく無い。親族間のゴタゴタなんか、他人に公開するモンでもねーだろ」
「お前は、なんつーかさ……変な奴だよな。頭がバグってるよ、うん。まともじゃない。でも、ただのバグじゃない。エラーだ。このシステムを壊すかもしれない」
いきなり訳が分からんことを言い出した。大丈夫かこいつ。
「よく分からんが」
「ああ、すまん。興奮してる……」
口をつぐんだ佐藤は少しかわいそうな顔をしていた。男にこういう顔を向けられるのは微妙な気分だ。
分かったから、捨てられた子犬みたいな顔をしないでくれ。
「聞くだけなら、聞いてやる」
佐藤の顔がぱっと輝いた。分かりやすい奴。織原も、案外こんな感じなのかもしれない。
佐藤の大きな背中の後ろを黙ってついていく。何か喋ろうとも思ったが、物言えば唇寒しということで、やめておいた。
喫茶店「コンドル」は大学近くにある小さなオアシスだ。安くて大盛りの洋食で貧乏学生の腹を満たし続けている。
ロッジ風の店舗に二人で入る。中に客はいない。マスターが一人、カウンターの奥で気のない挨拶をするだけだ。
佐藤は入り口近くのテーブルに座った。この席はソファのクッションが潰れていて好きではなったが、何も言わないでおく。
「コーヒーでいい?」
おもむろに佐藤が聞いた。
「え?ああ」
意外にも気を利かされ、ちょっと驚く。
頼んだのはコーヒーだが、出てきたのはアイスコーヒーだった。この店ではよくあることだ。お互いに微妙な顔をして、ストローを挿した。
「まず聞きたいんだけど……」
口火を切ったのは佐藤だった。真剣な顔の佐藤がこちらを見る。
「……木戸ってご両親は元気してる?」
「は?……元気だけど」
「親戚付き合いってある?」
「普通にやってる……と思う」
「そうか」
「おい、そんなこと聞くために呼んだなら、帰るぞ」
「待ってくれ。今度はこっちが話す番……って、お前は大体知ってるんだよな?」
佐藤との距離感が上手く掴めない。いきなりこんな話をするなんてちょっと信じられない奴だ。でも、悪い気はしない。
「お前と織原は親戚で、母親が姉妹なんだろ?」
「おお、そうだ。他には?」
「お前の母親は……三年前に亡くなって、同居してたおばあさんは織原の家に引き取られることになった。でも、二年前から認知症になって老人ホームに入ってる。織原は、そのホームの代金を稼いでる。こんなところか?」
「すげえな……その通りだ。お前、友恵のメール全部読んだのか?」
「あのアカウントにあった分は、全部だ」
佐藤はそうか……と呟き、コーヒーをストローで啜り続けた。
「お前の方は、何でだ?」
こちらの問いかけに、佐藤がストローを放してこちらを見た。ストローには噛み跡がついている。
「何で織原のサイトを覗いたんだ?親戚だし同じ大学だし、直接聞きゃいいじゃん」
「……俺じゃ聞けねーんだよ」
佐藤が溜め息をついた。
「ばあさんが入ってるにホームに、先月分の料金が振り込まれなかったらしい。ホームから織原の家に連絡が行った。んで、織原の家からこっちの家に連絡が来たんだ。俺、その電話を立ち聞きしちゃったんだよ。おばさん、俺達が友恵に何か吹き込んだんじゃないかって思ってるんだ。分かるか?俺が織原に聞いたら、友恵の母親が俺達を疑ってるって、友恵に分かっちまうんだよ」
「なんで織原の家が、お前達を疑うんだよ」
「俺達がばあさんと別居するのに最後まで抵抗したからだ。それに、ばあさんを老人ホームに入れるのも反対だった」
佐藤の顔の陰が濃くなる。逸らした視線が、それまでの苦労を物語った。
「なるほどな」
「まあそれはいいんだ。ただ、それを友恵に直接聞くわけにも行かない。だから、ちょちょいとな。お前と同じ方法で情報をもらったってわけだ」
「お前と織原も仲が悪いのか?」
「あ、そこは普通だ。ただ、やっぱ、親同士が仲悪いと、自然とやりづらくなるんだ。親戚だから、ちょっとな」
何だかしみったれた空気が漂ってきたので、この辺で本題に入らせてもらう。
「で、メールボックスを覗いたら俺のメールがあったから、直接来たってわけか」
「ああ。あんなメールがあったら疑うだろ普通」
そう言われると苦笑するしかなかった。コーヒーを一口啜ると、何の味も香りもしなかった。
「……自覚はしている」
「お前は何であんなメール送ったんだ?」
何でと言われても困ってしまう。確かに、自分でも気持ちの整理をつけていなかった部分だ。
「見たんだよ」
「何を?」
話しながら自分に問いかける。お前は、何故あの子に関わるのかと。でも、自分の気持ちは、コーヒーの底に沈んだかのように見えないままだった。
「織原がサイトのメンテをしているところ。で、あっちも俺の視線に気付いた。色々話してるうちに、何でこんなことやってるんだとか、ネットのビジネスなら他にもあるだろうとか、とにかくそういう話になったんだ」
「それで、あの協力したいってメールか。ふうん」
今の説明だと。まるで自分が織原と結構仲が良いみたいに聞こえたかもしれない。でも、今はそれでいい。
「俺も同じようなことは言ったよ。エロサイトは稼げるけどリスクもでかい。内容が内容だから、運営側が広告料を踏み倒すこともありえるし、警察が来るリスクだってある。お前みたいに……じゃなくて、今回の犯人みたいに、やってることをばらすぞって脅迫されることもある」
そう言うと、佐藤は無くなったコーヒーをずぞぞっと一気に啜り上げた。
「俺は、そこまでしなくてもいいと思ってる。ばあさんの世話だって、家でやればいいと思うんだ」
「佐藤の家では、自分たちで世話してたのか?」
「世話って程も無かったぞ。自分のことは自分で出来た。普段は部屋に篭ってたけど、休日は詩吟とか買い物に出かけてたしな」
「でも、今は認知症なんだろ?」
「ああ。俺の母親が死んだのがショックでな。まあ娘に先に死なれたんだ。無理もない」
そう言う佐藤は、ショックを受けてないみたいだった。それはこいつが大人なんだからだろうと勝手に納得する。
「でも、ちょっと信じられないんだよ」
佐藤が言った。
「何がだよ」
「ばあさんが認知症ってのが、だ。あれって、言い方悪いけど、趣味とか無くてぼーっとしてるような人がなるんじゃないのか?うちのばあさんがなるとは思えないんだ」
それは、お前の母親が死んだのがショックだったんだろうと言いたかったが、止めておいた。
佐藤は同意を求めていた。困った。ここで簡単に「そうだな」なんて言っても、何の足しにもならない。「織原の家で何かあったのかも」とも安易に言いたくはなかった。
「まあ、俺には分からないよ」
結局、逃げた。
佐藤の瞳の光が、一瞬だけ途切れた。
「まあ、そうだよな。悪い。変なこと聞いた」
佐藤は笑っていた。
「ああ、でも」
佐藤に何か言いてやりたかった。
「ん?」
「……やっぱ何でもない」
「家族の問題に答えはない」だなんて、言えなかった。
店にはきっかり一時間はいたことになる。コーヒー代は佐藤が払ってくれた。
次に会う約束もせず、連絡先も交換せず、佐藤と別れる。ただ、織原の事件を追っている限り、こいつとはまた会うという予感はしていた。それは、多分あっちも同じだろう。
大学に戻り、授業を受ける。不思議なもので、授業内容がするすると頭に入ってきた。普段なら細かいところが引っかかって理解が進まないのに、今はそれがない。きっと、客観視ってものが出来ているからだろう。でも、それは、物事を他人事のように眺めているのと同じだ。
教室を出ると、まだ明るかった。西の空に向き直る。沈みかけの太陽がオレンジに輝き、その周りのうろこ雲をグラデーションに染めている。一日のうちで、一番好きな時間。今日も終わりだ。
スマホが震えて現実に引き戻される。牛島だ。忘れていた。
『ココイチじゃなくて、コンドルに行こう』
速攻で断りの返信を入れる。すると、牛島の家に来いと誘われた。
しぶしぶオーケーだと返信する。自転車に跨り、大学を出る。近くのコンビニで弁当と酒、ドーナツとオレンジジュースを買う。
牛島のマンションは大学の近くで、いわゆる高級住宅街にある。排気ガス臭い大通りをしばらく進み、途中で脇道へ入る。そこから五分ほど進めば、奴のマンションだ。
十四階建てのマンションは門構えからして自分の安アパートとは違う。そもそも、こちらのアパートには門なんて無いのだけれど。
自転車を停め、玄関に近づく。黒塗りの自動ドアが低い音をたてて開き、光が満ちたエントランスに導かれる。間接照明の柔らかい光は、さっき見た夕暮れに似ていた。壁には絵がと花が飾ってある。
エレベーターで五階に上がり、一番手前のドアをノックをする。扉越しにドスドスと品の無い音が聞こえた。ドアが開き、中から牛島がひょっこり顔を出す。
「ああ来たね。上がってよ」
牛島に促され、部屋に上がる。十畳の1DKは、よく整頓されていた。
「ほれ、土産だ」
コンビニで仕入れた土産に、牛島は顔を綻ばせた。
「いつも悪いね」
とりあえず、空いているソファに腰を下ろす。牛島は、斜向かいのソファに座り、テーブルにさっき買ってきた品々を広げた。
酒や弁当で飲み食いして、テレビを見ていたら九時を回っていた。気付くと酒の空き缶がそこら中に転がっていた。
「織原の話は、しないつもり?」
テレビを見ながら、不意に牛島が言ってきた。
「ああ、そういやそうだったな」
何故だろう。牛島とはこの話をしたくない。
「俺も、織原のサイト見たよ。大変だなあいつも」
「ああ、介護費用を稼いでるみたいだな。てか、何で織原ってそんなことしてるんだろうな。普通、親が払うだろ」
「あの介護施設、結構高級だぞ。調べなかったの?」
「高級って?保険とか国の支援とか、色々もらえるんじゃないのか?」
「公的な奴は安いけど予約待ちになりやすい。民間の奴は高くてサービスもいい。金持ちは結構民間のを使ってる」
牛島が詳しくて、少し驚いた。
「詳しいな」
「俺もじいさんがホームにいたからな。同じようなこと、調べたよ」
「そうか。そこも、民間だったのか?」
「ああ。格安のな」
「え?」
「民間は、料金もグレードもピンきりなんだよ。うちのじいさんは格安のホームにぶちこんだ。大手はまともなところが多いけど、小さな施設はやばいところも結構あるんだ。そこを探して、じいさんをぶちこんだ」
ぶちこんだ、という強い言葉を牛島は二度使った。
「それ、大丈夫なのか?」
「何が?合意の上。強要とかにはならんよ」
そう言って、牛島は右手をひらひらと振った。
「モラハラって言うか、DVだな。じいさん、八十になってもまだ親父のこと殴ったりしてたんだよ。俺達は奴隷か召使いだ。親父はいつもビビッてた。殴られても、文句一つ言えない。根性無しだよ」
「そうか」
家のごたごたを話す牛島の顔には自信が漲っていた。自信のある奴は嫌いだ。暗に、自分の強さを承認しろと強要している。
「なんで、お前の親父は何もしないんだよ」
「じいさんは会社の役員で、親父はその部下さ。じいさんには逆らえない。何となく分かるだろ?」
何となく、分かるような気がした。でも、会社とか役員とか、よく分からない。それで何故家族の中の序列が決まるかも、理解は出来るが、納得はできない。
「でも、どうやってじいさんを追い出したんだ?」
こちらが場をつなごうとした質問に、牛島はにやりと笑った。
「知りたいか?」
牛島の顔にますます自信が漲った。酒のせいか、顔が赤黒く見える。
「じいさんがミスしたんだ」
虚空を見つめ牛島が言う。少し、言葉を選んでいるみたいだ。
「じいさんは経理の責任者でね。会社の金を管理してた……その金が、消えた」
「いくらだ?」
「五千万だ」
つい、酒を吹き出しそうになった。
「五千万?!」
「ああ、会社の売り上げとか色々だ。そう珍しい額じゃないさ」
「会社大丈夫なのか?」
「ああ、銀行から保険が下りた。じいさんは、ネットバンキングの不正送金ウィルスに引っかかったんだ。無過失ってことで、全額下りたよ」
他人事なのに、一安心した。
「でも、じいさんは許されなかった」
牛島が顔を歪めて笑った。
「金が保険で出たって言っても、一ヵ月後とかだ。仕入先への支払いも遅れる。うちの信用は丸つぶれだ。田舎だったから変な噂も広がってさ。『あそこと取引すると情報を抜かれる』って噂になって、取引をしてくれなくなったところもある。しかもウィルスに感染したのが、無修正のエロ動画をダウンロードしようとしたからってんだから、恥の上塗りだ」
「それで、じいさんは引責辞任でもしたのか?」
「その通り。サクちゃん冴えてるね。いつの間にか、じいさんは事件の被害者から張本人になった。信用も威厳も、全部まとめて潰れたんだよ。ま、会社は潰れずに済んだけどね」
牛島の言い方は明らかに被害者を貶めていた。しかし、こういうときに一緒に被害者を叩くべきか、牛島自身を諌めるべきか、いつも悩む。
「でも、その分俺の家は地獄になった」
牛島の顔が濃い影に覆われた。
「じいさん、ノイローゼになってな。何かにつけて一層親父を殴るようになった。でも、俺等は力を合わせて反抗したんだ。俺と親父と母親で、『もう一緒に住めない』って突きつけた。向こうは『俺を家から追い出す気か!お前達が出て行け!』って怒鳴ったけど、三人で能面みたいな顔でじーっとしてさ。お前が出て行けって念じ続けたんだ。そしたら向こうが折れた」
牛島は、喜びを隠しきれない様子だった。「家でも外でも信用が無くなった老人を、家族全員でいたぶったんだな」と茶々を入れたくなったが止めておく。目に奇妙な熱を帯びた牛島は、放っておいた方がよさそうだ。
「お前も、色々あるんだな」
「何でもないさ、こんなの」
改めて牛島の顔を見る。さっきまでの奇妙な熱も影も無くなり、元の丸い顔に戻っていた。何かを吐き出したような、憑き物が落ちたような顔だ。
「この手の問題に、正解は無いんだ」
牛島がテーブルの缶ビールを取り、飲み干す。たっぷり入っているはずのビールが、一瞬で飲み干された。
「俺からすりゃ、織原の方が分からん」
今日の牛島は、少し喋りたいみたいだった。
「ホームに入れるのも一緒に住むのも、そいつらの勝手だ。でも、何で孫の織原に負担が
来るんだ?訳わかんねーよ」
「家族の問題に、正解は無いんじゃないのか?」
「いや、わかんねーのは、織原本人だ」
佐藤はテーブルから酎ハイの缶を取って開けた。缶には「ストロング」と書いてある。
「メール見ただろ?今の今まで、織原は資金源を家族に明かしていない。逃げようと思えばいつだって逃げられるんだ。なのになんで、あいつは金を入れ続けてるんだろうな。しかも、だ」
ソファに何かが飛んできた。手で取ると、それは佐藤のスマホだった。
「施設の料金を調べたよ」
牛島のスマホには、月料金が二十九万七千円と表示されていた。ページを繰っていくと、清潔で近代的な施設が紹介されている。ただ、スタッフの表情はどこか力が入っていて、嘘くさかった。
「結構するんだな」
「そうだ。……で、織原が月々せっせと母親に渡してる金はいくらだ?」
そこまで言われて気付いた。
「四十万」
「そう。つまり、織原の金は介護代以外にも使われている。生活費だといいけどな」
そこまで言うと、牛島は乾いた声で笑い出した。耳障りな、不快な声だった。
「はっはっは。あー、うけるな。父親は離婚で別居中。その親父も、織原に金を無心する始末。寄ってたかって娘を食い潰してるんだ。クズみたいな家族だな」
何を言い出すのかと、牛島を見た。
「そんな言い方はないだろ」
「金の流れはそう言ってんだよ!」
牛島がぎろりと睨んできた。
急に酔いが醒めた。とっととここを出ようと決意する。
牛島の酎ハイに、どぼどぼと焼酎を入れる。ストロングらしいから、ばれないだろう。
「まあ飲め」
スーパー・ウルトラ・ストロングになった酎ハイを牛島に渡す。佐藤は缶を引っ手繰り、そのまま飲み干した。
牛島の頭がぐるんと一周して、下を向いた。吐くんじゃないかと身構えたら、何事かをぶつぶつ言い出した。
「サクちゃん。幸せになるための才能って、分かる?」
牛島じゃないみたいな、か細い声だった。
「また牛島大先生のお説教か?」
「俺の経験談。いいから、何だと思う?」
試されるのは好きではない。適当に「趣味の有無」とか言っておく。
「俺が思うにはね……クズを近寄らせない才能だよ」
「なんだそれ」
「幸せじゃない奴を考えりゃ分かる。いるだろ?ミスったらボロカスに叩かれたり、金をせびられたり、殴られたりする奴がさ。自然と周りにクズを集まっちゃう奴。ああいうの
が、幸せになる才能が無い奴だよ」
「能力が無い奴ってことか?」
「違う。能力は関係ない。ゴマ擦りとかコミュ力とかも関係ない。分かるかな?何となく『こいつに嫌われたくないな』って思われるかどうかなんだ。冒し難いものって言うかな。そういうのがある奴だ」
何だか分かるような分からないような、なぞなぞを解いている気分になる。
「そういう奴は、ミスっても許してもらえるし、落ち込んだら励ましてもらえるし、成功したら喜んでもらえる。逆だと、ミスっても落ち込んでも成功しても、殴られる。それは、一生続くんだ。どんなに力をつけても、いつか必ず誰かにやられる」
「よく分からん」
「こいつはな、もう才能なんだ。こいつがないと、世界を相手に一生戦い続けなきゃいけない。そんな奴は永遠に幸せになれない。自分に鞭打って、したくもない努力して、勝って勝って、いつかは負けて『はい、おしまい』だ。最初から無駄な努力なんだよ」
「本人の気の持ちようだろ。そんなの」
「分かんないかなあ、サクちゃん。分かんないかなあ……」
ドスンと音がした。何かと思ったら、牛島がその身体をソファに横たえていた。
「おい、寝るのか?」
牛島は返事をしなかった。とりあえず、布団を頭から掛けてやる。
顔に布団を掛ける直前、牛島が口を開いた。
「だから、俺の周りにいる連中は、大切にしてーんだ……」
返事をせず、顔まで布団を掛ける。三十秒と待たずに、大音量のいびきが聞こえてきた。
寝てくれて良かった。おかげで、言わなくてはいけないことを言わずに済んだ。
――お前は一生幸せになれないよ。
そう心の中で呟き、ドアを出た。

次の日は朝から大学だった。牛島から「ひでーよ」とメールが来たが、何のことだと突っぱねておいた。
今日は朝から曇り空だ。乳白色の空に、老婆の脇腹のような雲が左から右へ流れている。大教室では、教授が口から唾を飛ばして授業を展開している。しかし、出席している学生には、教授の熱意は百分の一も伝わっていないようだった。彼らは板書をノートに書き取るだけの、ひどく単純な機械のようであった。ロボットアームにカメラをくっつければ簡単に代替できそうだとも思えた。
カン、と硬質な音がする。窓に虫がぶつかった。虫は、無機質な放物線を描いて窓の下に消えた。
スマホで織原のサイトを開く。更新が止まってから五日が経つ。織原はもう金を払ってしまっただろうか。警察に行っただろうか。それとも、犯人の魔の手により、あの写真をばらされてしまっただろうか。
例の写真を呼び出す。
やはり、これは違う。何故だろう。苦しい。胸が、喉が、掻き毟られる。
薄いピンクのヴェールは、よく見ると使い込まれていた。繊維が擦れ、薄くなっている。毛玉も少し出来ていた。色も、ちょっと落ちているみたいだ。
何故自分がこの写真に惹かれるか、分かりかけてきた。この写真は、織原そのものだ。
生きている。この写真は、生きている。織原という一人の人間のリアルを、閉じ込めている。
男の劣情は、ひどいぐらいに記号的なものだ。女の裸があれば簡単に催す。妄想でも、絵でも、文字でも。
それはエロだが、エロスではないと思い始めていた。エロとはただの生理で、記号で、死だ。エロスとは愛で、心で、生なのだ。
スマホで画像を見ていると、視界の端を何かが掠めた。視線を下げ、窓の外を見遣る。
一人の女の子が、灰色のカーディガンを棚引かせて走っていた。すごいスピードだった。あっという間に、あっちからこっちへすっ飛んで来る。タタタタッ、という軽快な足音が窓越しにも良く聞こえた。
灰色の弾丸は一本道をかっ飛ばし、噴水の広場に向かっているようだった。そこには、一人の男がいた。そいつはこちらに顔を向けている。佐藤だった。何があったのか、佐藤はひどく不安そうな顔をしている。また、今にもダッシュせんと駆け足の準備をしていた。女の子と合流した佐藤は、二人揃って校門に向かって走り出した。
素早く正確にスマホを操作する。呼び出したるは織原のメールボックスである。ブックマークしているので、ものの数秒で画面が出てくる。『パスワードを入力してください』と出てくる。そんなもの、とっくに暗記済みだ。
真っ先に「家族」の受信ボックスを開く。織原と佐藤が手を組むとなれば、その辺の事情しかあるまい。
お目当てのものは、一番先頭に置かれていた。
『友恵!
さっきホームから電話!
おばあちゃん、また脱走!
これから探しにいくから、友恵も出来る限り探してね!
うちの大事なおばあちゃんだからね!
お金も、最後にはきちんとするからね!』
切羽詰った内容なのに、ちっとも焦りを感じなかった。何だか、「友恵」を利用しているだけのように読める。この人も、自分の母親なんだから心配はしているのだろう。だけど、そこはちっとも伝わらない。
もう一度、窓の外を見る。織原は今日はスカートを履いている。織原は、そのスカートが捲れそうなほど、大股で走っている。カーディガンが千切れ飛びそうなほど、腕を振っている。身体に纏わりつく服が邪魔だと言わんばかりに、織原は全力で走っている。
昨日、牛島に見せてもらった老人ホームの名前で検索する……あった。ホームは、この大学と同じ区内だった。距離にして五キロぐらいだ。
――俺が手伝っても、悪いことにはならないよな。
思いついたら、立ち上がっていた。全員の視線が集まった気がするが、構わずに駆け出す。
鞄を掴み階段を駆け下り、自転車に飛び乗る。
最初の一漕ぎに体重を乗せる。
タイヤが地面を噛み、自転車は急発進した。身体を前傾させ、空気抵抗を減らす。一漕ぎする度にスピードが上がる。内燃機関が急速に熱とエネルギーを生み出していく。
吸い込む空気が暑い。吐き出す呼気も熱い。自分の身体と世界の境目が無くなっていく。世界の熱を取り込んで、自分の熱に変える。今なら、そんな芸当ができそうだった。
佐藤と織原にはすぐに追いついた。意外なことに織原が先頭で佐藤が少し遅れて走っている。
二人を追い抜き、大通りをひた走る。下り坂なので、自転車はぐんぐんスピードを上げていく。
「なんであんたが来んの!」
織原の悲鳴に近い声が後ろから聞こえる。
「迷惑掛けたお詫びに!」
「関係ないからどっか行って!」
「人手がいるんだろ!俺も行く!」
そう言い終わるかどうかのタイミングで、大型トラックが隣を通り過ぎていった。徘徊老人なんて、いつ事故にあってもおかしくないのだ。人手は多い方がいいに決まっている。
大通りから外れて、細い路地に入る。織原達も付いて来るかと思ったら、あっちはそのまま大通りを進んでいった。慌ててスマホを確認する。やはり、こっちの方が近道のはずだ。
構わず自転車を進める。居並ぶ家々が、次第に古くなっていく。トタンで出来た家や腐った木造の家がぎゅうぎゅうに押し込められた区画だった。家の壁にはサラ金のビラが所狭しと貼られ、電柱には犬の小便の跡がこびり付いている。道幅もとにかく狭い。壁にぶつからないように走るのがやっとだった。
小さな橋を渡ったところで、視界は開けてきた。売り地が多いせいだった。しかし、土地のアップダウンが激しいし人通りも皆無に近い。家を建てたり店を開いたりするには向いていない場所なのかもしれない。
路地をくぐり雑木林を抜け、えっちらおっちら丘を登る。頂上に着き、ようやく目指していたホームが見えた。ブレーキをかけながら坂を滑り降りると、ホームの裏に出た。
玄関まで回りこみ、全景を望む。西洋風のおしゃれな門構えだ。建物の両脇には、アーチ状の柱みたいなものがいっぱいついている。三階建ての建物は高級ホテルの様でもあり、荘厳な寺院の様でもある。子供の頃は素敵な建物だなあと思っていたが、その用途を知ったときは、世界の残酷さを垣間見た気がした。
薄いグリーンの服を着た介護士らしき人が三人、施設の周りを巡回している。きっと、おばあさんを探しているのだろう。
ここに来てはたと気付いた。自分はおばあさんの顔を知らない。
ここに来たのが全部無駄足になってしまう。
絶望に飲まれそうになったその時、電話が掛かってきた。知らない番号からだ。
「もしもし」
電話に出る。
「佐藤だ。もう着いたのか?」
「何で番号知ってんだよ」
「お前が友恵に送ったメールだ」
そう言えばそうだった。架けてきたのが織原ではなく佐藤というのが面白い。
「で、もう着いたのか?」
「ああ。着いた。施設の人っぽいのが何人かうろついてる。おばあさんを探してるんだと思う」
「そうか。とりあえず良かった……お前、今どこにいる?」
「施設の正面玄関だ。ところで、お前のおばあさんの顔なんだが、何か特徴あるか?」
「お前は帰れ」
衝撃的な一言だった。これまでのテンションが、ぷっつりと切れてしまう。
「何でだ?!人手が多い方がいいだろ。事故にあってからじゃ……」
「家のことをぺらぺら喋るなって、友恵に言われたんだ。今もそうだ。お前は面白い奴だけど、常識が無さ過ぎる。友恵のメール、また覗いただろ?」
常識。ああ、昔から何度も言われた。怒られた。俺もう二十歳だ。まだ言われなきゃいけないのかよ。
「だから、今は帰れ。気持ちだけ受け取っておく。じゃあな」
そう言って電話は切れた。
分かってくれると思ったのに。俺だって別に面白半分でやってるわけではない。でも、俺がやっているのは明らかにおせっかいで、メールを覗いたのは犯罪だ。やっていいことではない、のかもしれない。
自転車を押して、元来た道を戻る。さっきまで素晴らしいスピードを生み出していた自転車は、ただの重りに成り下がっていた。その重さを両の手に感じながら、さっき下りたばかりの坂を逆から登る。
坂を上っていると、地面しか見えない。迫り来る壁のようだ。下る時には空を飛んでいるような気持ちだったのに。鳥から芋虫に転生した気分だ。
頂上に着き、信号待ちをする。振り返ると遠くにホームが、さらに向こうに、織原と佐藤らしき人影が見えた。ふと、疑問に思った。母親は来ないのだろうかと。しかし、それを考えることすら織原に禁じられている気がして、ただの雑念として振り払った。
信号が変わり、自転車に跨る。
「ちょっとお兄さん」
突如、脇から声を掛けられる。
見ると、モスグリーンのジャージを着た小柄なおばあさんがニコニコしながらこちらを見ていた。
「はい。何ですか?」
昔から道を聞かやすい体質なので、変には思わなかった。ただ、鼈甲で出来たメガネをかけ、髪を紫に染めているので、お金持ちかなとは思った。
「お兄さん、ひょっとして木戸さんかしら?」
心臓が口から飛び出るかと思った。危うく倒しそうになった自転車を、慌てて掴み直す。
おばあさんはニコニコ笑って立っている。餅みたいに柔らかそうな顔の奥で、瞳だけはしかとこちらを捉えていた。
「……どちら様ですか?」
見当はついていた。しかし、思考を整理するために質しておきたかった。
「ご存知かもしれませんが、友恵の祖母の木村と申します。いつも友恵がお世話になっております」
おばあさんは深々とお辞儀をした。
瞬間、思わず笑ってしまった。何が何だか分からない。笑うことしか出来なかった。
ひとしきり笑った後、おばあさんに聞いてみた。
「何故僕が木戸だと分かったんですか?」
「メール」
「え?」
「開けてごらんなさいな。あなたが特別に見ている方を、ね」
瞬間、呼吸が出来なくなる。目の前の笑顔が、本心を隠すヴェールのように見えた。本当はこの人、俺をどうにかするつもりなのではないか……疑心暗鬼に襲われる。
老婆を警戒しながら、スマホで織原のメールを確認する。しかし、受信ボックスには新着メールは来ていない。この人の脱走を知らせる母親からのメールが相変わらずトップだ。
嵌められたか?
「送信メールの方よ」
見透かしたようなアドバイスが飛んできた。おばあさんのしわしわの指が、こちらのスマホの『送信済み』のボタンを示す。
いそいそと送信済みボックスを開く。すると、織原から母親に送られたメールがあった。
『今浩介と探しに行ってる。
こっちは駅側を探すから、そっちは丘側を探して。
あと、変な人から一緒に探すって言われたけど、断って帰ってもらった。
もし話しかけられても、無視しといて』
散々な書かれようだった。しかし、重要なのはそこではない。
「織原さんの、おばあさん?」
「そうよ?おかしい?」
おばあさんはニコニコ笑ったままだ。
「どうして、孫のサイトを覗けるんだって思ってるわね」
こくこくと頷く。
「その辺りは、木戸さんと同じ方法よ。でも、聞きたいのはそこじゃないわね?」
「正直、聞きたいことが多すぎて頭が回りません」
このままどこか喫茶店にでも行って話がしたかった。それだけこの人とは話すべきことがある。
「ふふ。木戸さんには、しっかり話さないといけませんものね。ああ、そうだ。これから、ホームに帰るのを手伝っていただいてもよろしいですか?下り坂が苦手でしてねえ」
逃げ道を断たれてしまった。この人、こちらを逃がす気は無いらしい。
「……はい」
言いたくないのに言わされる。こんな経験は久しぶりだった。こちらの返事を聞いたおばあさんは、それでは、と言って自転車の荷物置きに腰掛けた。尻の下には、巾着袋を敷いている。
おばあさんを後ろに乗せ、さっき来た道を下る。重量が増したせいか、意図せずスピードが出る。
「ひゃー、自転車なんてもう乗れないと思ってたのに!」
後ろでおばあさんがはしゃいでいる。幸いなことに通行人はいない。この光景を誰にも見られたくなかった。とりあえず聞きたいことが山積みだ。でも、今は緊張のせいで何も考えられない。
坂の終わりは赤信号だった。止まりついでに、恐る恐る聞いてみる。
「どうして脱走したんですか?」
おばあさんは、ぜえぜえと肩で息をしている。はしゃぎ過ぎたみたいだった。
「退屈だったからよ。毎日毎日同じことばっかり。切り絵とか塗り絵とか、本当に苦手」
「でも、パソコンができるなんて凄すぎますよ」
というか、ハッキングが出来るのが驚きだ。
「昔からやってたからねえ。パソコン通信って呼ばれていた頃から、インターネットでやり取りしてたのよ」
「パソコン通信、ですか?」
「ええ。まだ大きな企業しか回線が引かれてない時代ね。今じゃ考えられないようなアナログな時代の話よ」
はあそうですかと答え、会話が途切れた。質問だと、会話がぶつ切りになってしまう。刑事の尋問じゃないんだからと言い聞かせるが、どうにも言葉がつながらない。
「じゃあ、私はここで失礼しますね」
そう言って、おばあさんは荷台から下りた。
「え?もういいんですか?ホームの前まで送りますよ?」
「いえいえ、ここで帰ったほうが木戸さんのためですよお。きっとあの子達も来てるでしょうし」
あの子達、と言われて織原達のことを思い出した。確かに、この場面を目撃されると相当面倒なことになる。ついでに、織原の母親も来るかもしれないと思い出す。
「木戸さん、どうもありがとうございました。あの子達をどーぞ、宜しくお願いします」
おばあさんはそう言うと、もう一度深々と頭を下げた。信号が青に変わると、よろよろとした足取りでホームに向かって歩き出した。
おばあさんが道路を渡りきったのを確認して、もう一度坂を上る。今度は自転車に乗ったまま、何とか坂を登ることが出来た。
丘の頂上の交差点で振り返る。ホームの前に人が集まっているのが見えた。モスグリーンの人影はおばあさんだろう。上下とも薄緑の人はホームの人達だ。その奥から、織原と佐藤らしき人物が駆けて来る。二人がホームの人を押しのけて、おばあさんに掴みかかった。喜んでいるのか怒っているのか、ここからでは分からない。
おばあさんはボケている風ではなかった。
――一緒に暮らせばいいと思うんだ。
――ぶちこんでやった。
佐藤と牛島の言葉が交互に思い出された。
元気いっぱいのおばあさん。ホームでの生活は退屈だと言う。
他人の家庭の事情に首を突っ込むものじゃないと、昔から言われてきた。でも、放っておけない、という気持ちも、確かにある。
大学に戻ると、昼休みになっていた。一日の中で一番憂鬱な時間の始まり。好きな時間はいつだろう。夕暮れとか言ったらクサいだろうか。
あのおばあさんは何者なのだ。織原のメールを覗いていることは確かだ。織原家では、メールのアカウントは共有するという決まりでもあるのだろうか。いや、そんな明け透けな家族が、お金や介護の問題でギクシャクはしないだろう。
いつも通り情報棟に行き、もはや指定席と化した椅子に座る。
今度はパソコンで織原のサイトを覗く。当然ながら更新はされていない。
犯人は、いったい誰だろう。何が目的なのか。金だと書いてあるが、ここまで反応がないと肩透かしを食ったみたいで、逆に不安になってくる。
スマホが震えた。メールのようだ。
メールを開いた時、戦慄が走った。
『突然のご連絡、失礼致します。木村です。
先程は自転車に乗せていただいて、本当にありがとうございました。
さて、木戸様にどうしてもお伝えしたいことがありです。
本日午後十時、こちらが消灯になってからお電話を差し上げます。
今しばらく、この年寄りの戯言にお付き合い下さい。木村』
あのおばあさんは、完全に、ずけずけと、こちらの領域に侵入を果たしていた。

その日の晩はいつになく緊張した。
机の上にスマホを抜き身で置く。こうすれば嫌でも着信が分かるだろう。コンビニで買った蕎麦は食べる気がせず、冷蔵庫に放り込んだ。
自分くらいの歳の男なら、彼女からのメールを待って緊張するのが筋なのだろう。ちょっぴり自虐的な気分になる。
午後十時になった。椅子に座り、机上のスマホを前に腕を組んで連絡を待つ。壁にかけた時計の秒針がコチコチと音を立てている。
ガガガ、とスマホが震えた。待ってましたとスマホを取り、画面を開く。来た。約束の十時から五分は過ぎているが、そんなことはどうでもよかった。
「こんばんは、木村です」
昼に聞いたのと同じく、柔らかい声が受話器から漏れた。
「こんばんは。木戸です」
「夜分に失礼いたします。こんな時間に、本当に、申し訳ございません」
頭の中で、腰が曲がった木村さんがより一層腰を折りたたんで頭を下げる仕草が浮かんだ。こちらもついつい頭を下げてしまう。
「いえ、こちらこそ……」
何と言っていいか分からず、生返事になる。
受話器の向こうで、木村さんが息を整えた。
「始めに、この度木戸さんが、うちの友恵を脅している、という恐ろしい事件の犯人に仕立て上げられていることにつきまして。お詫びをさせてください。本当に、申し訳ございませんでした」
「いえ、そんな……木村さんのせいではありませんから」
自分が友恵さんを追い回したのが原因ですから、と危うく言いかけた。
「このことは、いずれ何かの形でお返しをしたいと考えております。今しばらく、こちらでコトが済むまで、ご辛抱くださいませ」
「……今しばらくとは、どれくらいでしょうか?」
そう言うと、木村さんは少し黙った。
「犯人を特定し、友恵に危害が及ばないことを確認するまでです」
心臓がどきりと高鳴った。犯人を特定する。木村さんはそう言った。
「その犯人というのは?」
「彼女の名前は、佐伯京子。友恵と同じ高校で、どういうわけか今も同じ大学に通っている子です。ほんっと、何の因縁かしらね」
砕けた話し方になった木村さんは、ちょっと怖かった。
「そこまで分かっているのでしたら、後は直接彼女に言えばいいんじゃないですか?」
「ええ、そうなの。だから、今日は木戸さんにお願いがありますの」
「何でしょうか?」
「その前に、少しだけ約束おしてくださいませんか?」
「約束?」
嫌な予感がする。
「はい。今回の作戦、といいますか、これから木戸さんにお願いする一切は、全て秘密裏に実行していただきたいのです。ただ、途中どうしても人の力を借りなければいけないこともあるでしょうから、その時は目的を明かさずに手伝ってもらうよう、段取りをつけていただかなくてはなりません」
少し考えて、ぴんと来た。
「友恵さんには知られたくないんですね?」
電話の向こうで、木村さんが息を呑んだ。
「木戸さんには隠し事はできませんね」
そう言って、木村さんはカラカラと笑った。
「その通りです。友恵にだけは知られたくありません。逆に言えば、友恵以外には知られても構いません」
「安心しました。佐伯京子なら、近くに知っている人が居ます。彼に聞けば、何とか接触できると思います」
こちらの脳裏には牛島のやる気の無い顔が浮かんでいた。
「流石です木戸さん!それならば、話します。お願いすることは、全部で三つです。内容を聞いてから、ご意見をお聞かせください」
何だか協力することが規定路線になってしまった。
「一つ目は、佐伯京子の連絡先を入手すること。二つ目は、木戸さんが佐伯京子の近くに居て、私が送るメールを見てくれそうな頃合を教えて下さること。三つ目が、私が送ったメールを読んだ彼女の反応を、木戸さんが連絡して下さることです」
いきなり色々言われ、頭が混乱した。
「これが済めば、木戸さんにはしっかりとお礼をさせていただきます。友恵にも、木戸さんにはこれからはちゃんと接するように伝えておきます……」
「いえ、そんなことは……」
織原がお礼の一つに差し出されたことに、少しだけ驚いた。俺は、木村さんにはどのように思われているだろう。
まあ、そんなことはどうでもいい。
「お礼のこといいんです。ですけど、その……作戦のことをもう少し教えていただけませんか?」
「具体的には、どこでしょう?」
「佐伯の近くに居て連絡するというのは、その、佐伯の行動を見張っておく、ということでしょうか?」
「そう思っていただいて構いません」
木村さんの声に迷いは無かった。そう言われると、返しようも無い。
「もう一つ。佐伯に送るメールというのは、どういうものですか?」
「友恵の脅迫に関わっていれば、反応せずに居られないものです。ですから、その反応を木戸さんにご報告していただきたいのです」
「それなら、スマホで動画を撮って送るってのはどうですか?それを見れば、佐伯が犯人かどうか分かりますか?」
「まあ!それは素敵なアイデアね。是非そうして頂戴」
ホームでは夜中の通話は禁止されていないのだろうか?そう心配になるほど、木村さんは明るい声で喜んでくれた。
少しの間の後、木村さんが口を開いた。
「決めてくれたかしら?」
その口振りは、こちらが断ることなど考えていない様子だった。困った。こちらは、断るも受けるも決めきれないでいるのに。
まごつく俺を見透かしたように、木村さんは言葉を続けた。
「悪いことをしている、とお考えかしら?」
そうとは思えない。
「いえ、木戸さんはそんなことは考えないかしらね」
木村さんはそう言って、ふふ、と笑った。
「どういうことですか?」
「悪く思ったならごめんなさい。謝るわ。でも、木戸さんは、こういうのが好きそうだなって私は思うの」
「こういうの、とは?」
「やりたいことを最短距離でやってしまうところね。木戸さんも、犯人が誰か興味あるでしょう?」
ええ、まあ……と返事をする。
「断る理由は無いけど、受ける理由もそんなに無い感じかしら?」
「よく分かりますね」
「私だったら、そう思うだろうなってね……」
沈黙が訪れ、様々な思いが駆け巡る。どうして自分がこんなことをしているか。どこまで行っても答えは出てこない。
でも、それでいいんじゃないかとも思う。
「やります」
「え?本当に?」
 木村さんぱっと明るい声を上げる。でも、それすらも作り物だと感じるのは、穿ちすぎだろうか。
「木村さんの計画、やります」
「うん。うん。そうね。ありがとう。これで友恵も喜ぶわ」
「でも、一つ教えてください」
「何かしら?」
「どうして木村さんは、佐伯を犯人だと思うんですか?」
こちらの質問に返事は無かった。
「木村さん、聞こえてますか?木村さん?」
電波が切れたかと思い、通話口に呼びかける。
「聞こえてるわ……ええ。よく聞こえる」
数秒の間を置いて聞こえた木村さんの声は、生気が感じられなかった。
「話しにくいことなんですか?」
「そうね。とっても話したくない気分」
そう正直に言う木村さんに、嫌な気はしなかった。
「でも、やっぱり話さなくちゃね。木戸さんに、大変なお願いをしたんですもの。話す義務があると思うわ。ごめんなさいね。ひょっとしたら、木戸さんには話さずに済むかもと思っていたけど、やっぱり駄目よね」
助け舟は出すまいと思った。ここまで思ってくれているのなら、助けたことが侮辱になるだろう。
「友恵と佐伯は同じ高校だったって言ったわよね?そこで、あの二人は出会ったの」
「友達だったんですか?」
「断じて違います」
そうぴしゃりと言われてしまう。
「友恵は、高校でちょっとね……いじめられていたの」
木村さんの声が重たいものを孕んだ。
「あの子、ちょっと何考えているか分からないところがあるでしょう?」
ややあって、木村さんが同意を求めているのだと分かった。ええ、と返事をする。
「今の子達って、そんなことで意地悪するのね。あの子も、じっと我慢したの。でも、それが悪かった。佐伯たちは、ますます面白がるようになってね。泥だらけで帰ってくるあの子を、何度か見たわ」
「いじめていたのが、佐伯なんですか?」
「そう。佐伯さんの他にも、三人くらいいたかしら。男の子もいたらしいわ」
 話が読めてきた。
「とすると……」
木村さんに、自分の考えを話したい衝動に駆られる。しかし、それはできない。あまりにも残酷な推測だった。想像するだけで、吐き気が込み上げてくる。
「ふふふ」
不意に、木村さんが笑った。
「どうしたんですか?」
「いえね、木戸さんが考えたことが分かっちゃったから」
「すごいですね。言ってみてくださいよ」
「友恵が盗撮されたと思ったでしょう?」
その通りだったので黙るしかない。俺の想像力は、木村さんの制御下にあるようだ。
「図星かしら?でもね、木戸さん。安心して。そうじゃないの。でも、そうじゃないのが、問題なのよ」
「どういうことですか?」
「友恵はね。自分の力でいじめを終わらせたの」
もっと説明があるのだろうと、スマホに耳をそばだてた。しかし、通話口からは、木村さんの荒い息遣いだけしか聞こえてこない。
「木村さん?」
「分かってくださらないかしら?」
何だ。何を言っている。自分が試されているようで少しイラつく。そして、木村さんの期待に応えられない自分に余計にイラつく。
「すみません。降参です」
なぞなぞを解いている暇は無かった。
「いいわ。でもね木戸さん。これから言うことは、誰にも内緒だからね?」
「はい」
気が付くと、スマホを持つ手が震えていた。
「高校三年生の夏にね、あの子の下着姿が、ネットにアップされたの」
心臓が止まりそうになった。
いやらしい大脳が、高校生の織原を即座に描写した。何故か、スカートを脱ぎ去り上着を脱ぐ途中の格好が浮かんだ。頭の中の織原の肢体は、光を纏っていた。紛れも無く生命の輝きであり、エロスそのものであるという確信が持てた。
学校で盗撮したのなら、体育の着替えの時間だろうか。教室のどこかにカメラを仕込もうと思えば余裕だろう。
鼻柱が強い織原をやり込めようと、佐伯が考え付いたのであろうか。気丈な女子高生を汚してやろうと計画したのなら、センスが良いといわざるを得ない。同時に、そう思う自分は最低なんだろうなと実感した。
唾を飲み込もうと嚥下する。しかし、逆に舌が喉に張り付いて窒息しそうになった。
「いじめが……悪化したんですね」
潰れた喉で、何とか声を発する。
「いいえ、だから、違うの」
木村さんの声に、力が篭もった。
「え?」
「写真を撮ったのはあの子。ネットにアップしたのもあの子なのよ!」
天地がひっくり返ったような気がした。思わず足元から崩れ落ちる。よろけた拍子に、大きな音を立てて机に激突した。
「木戸さん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫……です」
床に突っ伏しても、まだ視界は回っていた。息が浅い。顔も冷たく感じる。どうやら血の気が引いているらしい。
「ショックよね。私も、信じられない。今でも」
脚に力が戻り、やっとのことで立ち上がる。また倒れても嫌なので、ベッドに座る。
「どうしてそんなことを?」
「いじめを終わらせるため、と思うわ」
木村さんが言葉を濁した。
「あの子は誰にも相談しなかった。先生にも友達にも、家族にも。木戸さんは分かるかしら?いじめって、誰にも相談できないものよ。本人に止めて欲しいって言ったら、余計にひどい目にあう。先生に言ってもひどい目にあう。八方塞がりなの」
混乱した頭で、辛うじて想像する。何となく、分かる。きっと誰にも相談なんて出来ないのだろう。自分でも、多分そうだ。
「三年生の夏よ。あの子は担任に『自分の写真がサイトに上げられてる』って言いに行ったの。その写真も印刷してね。当然、いじめをしていた人達が事情を聞かれる。その子達が関与を否定する。でも、大して素行が良い子達でもないし、そもそもいじめをしていたのだから、先生には中々信じてもらえない」
「でも、そんなのサイトを管理している会社に問い合わせたらばれてしまいませんか?」
「写真は、事件が騒ぎになった辺りで消えたそうよ。プロバイダー会社は絶対に個人情報を外には教えない。警察に届け出れば捜査してもらえるけれど、マスコミが来て学校が大騒ぎになるでしょう?関係ない生徒の親御さんも、黙ってないでしょうね。半年後には受験を控えた子達ですし。木戸さんが先生なら、警察に届け出るかしら?」
木村さんの話を聞けば聞くほど、身体が震えた。恐ろしいからではない。織原の計画があまりにも素晴らしいからだった。
「それじゃあ佐伯は一体……」
「いじめっ子の中で、彼女が一番そういうことをやりそう、ということで疑われたらしいわ。いるでしょう?頭が良くて意地悪で、弱いものいじめが好きな女の子って」
そう言われると、どこにでもそういう子はいるかもしれない。
「それが、私が佐伯さんを疑う理由よ」
「佐伯が逆恨みをしたと?」
「どこかで、佐伯さんが高校のときの事件の真相を知った。今では、友恵がサイトで稼いでいることを知って、腹が立った。あのメールをご覧になったでしょう?『いやらしい写真をばら撒く』というのは、あの事件のことを指しているとしか思えません」
そこまで捲くし立てて、木村さんはしばらく咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……です」
咳交じりの木村さんの声は、消え入りそうなほどにか細いものだった。お年寄りに長く喋らせすぎたらしい。
木村さんの話は、スケールが大きいというか、荒唐無稽な部類だと今更ながらに思った。しかし、織原ならばやりかねないと、何故だか思えた。
「事情は、分かりました」
「ありがとう。木戸さん。私も、あなたに話せてよかった」
「とりあえず、準備が出来たら連絡します」
「ありがとう。木戸さん。ありがとう……」
通話口から涙声が聞こえ、通話が切れた。
スマホから顔を離す。すると、ぐるりと目眩がした。勢いに任せてベッドに倒れこむ。
天井のポスターには、変わらないアイドルの肢体が描かれている。しかし、数刻前から脳裏に浮かんでいる織原の肢体の方がはるかに生き生きと、肉体的に見えた。
天井に向かって手を伸ばす。ぼやけた視界の中で、織原のイメージに手が届きそうな気がした。
織原のイメージには、自分に無いものが備わっている。それを手に入れれば、自分は別の存在に生まれ変われるような気がする。
織原友恵は生きている。概念的にもそうだし、肉体的にもそうだ。あいつは、俺と同じ時間を生きている。それなのに、あいつにはあって俺に無いものがある。そう思うと、何故だかとても寂しい気分になる。
あいつと会って、それが何なのか確かめたい。そのためなら、木村さんに使われることなんてお安い御用に思えた。

「お前の酔狂にも付き合いきれんよ」
牛島はそう言ってペットボトルのジュースを飲み干した。
佐伯の連絡先はすぐに割り出せた。牛島のいたサークルに、佐伯とインターンで競った末に落とされたという奴がいた。駄目元で聞いた結果、そいつは佐伯と連絡先を交換していた。そいつにとって佐伯は自分を落とした相手のはずだが、「同じ就職戦線を戦う仲間」というよく分からない理由で連絡先を交換したらしい。木村さんと電話をした翌日に、第一段階はクリアとなった。
第二段階と第三段階は立て続けに行われる以上、状況は選ばなくてはいけない。色々考えた結果、佐伯が出ている授業開始の直前、もしくは直後を選ぶことにした。
一番のハードルは、登校してから佐伯と遭遇できるか否かにある。それを確実なものとするために、時間と場所を固定するしか方法が無かった。少しの聞き込みの後、佐伯は毎週水曜日の民法の授業を取っていることが分かった。一号館の中でもとびきり広い大講堂なので、自分が紛れても怪しまれない可能性が高い。
「サクちゃんさ、変わったよな」
一号館の一番後ろの席で、牛島と並んで座る。佐伯が来れば、牛島が教えてくれるはずだ。いつもは太った駄牛だが、今日は警察犬よろしくスマートに見える。
「何だよ急に」
牛島の悪い癖が始まったと思った。こいつは緊張すると関係ない話をする癖がある。カバンからペットボトルを出して、茶を飲む。
「サクフワちゃん」
牛島が軽妙なリズムに乗って口にしたそのセリフで、盛大に茶を吹き出す。机の上がびしょびしょになってしまった。
「お前!」
牛島の肩をグーで殴りつけ、ティッシュで机を拭く。牛島は手伝ってくれなかった。
「何でこんなことやってんの?」
牛島が退屈そうにこちらを見て言った。
「いちいち理由なんか無い」
 そう言い返すと、牛島は肩を竦めた。
どうして俺の周りにはこんな奴しか集まらないんだと、今更ながら辟易する。
 牛島との馴れ初めを思い出す。今からちょうど三年前だった。
長男が司法試験に合格し、長女が国立の医学部に合格した三年前の春、自分は高校を休学した。
きっかけは単純で、進路希望の紙を書くよう担任に言われたからだった。あれこれ真剣に悩んだ結果、「なりたいものが無い」という単純な結論に行き着いた。周りの人達は悩みを口にはしていたが、結局何かしら紙に書いて来ていた。こちらはと言うと、なりたいものが無いのだから、学校に来るのも無駄だな、などと真剣に考え始めていた。
紙が白紙であることを見た担任は、俺を朝から進路指導室にぶちこんだ。部屋の中の資料を参考にして、今日中に書き上げろという指示だった。数分おきに見回りに来ては、周りの奴はこういう風に書いているだの、お前はこんなのが向いていそうだだの、世話を焼いてくれた。
結局、その日も書き上げられなかった。当然のことながら、家にも連絡が行った。さらに悪いことに、両親は学校で何か重大事が起こったのではないかと妄想を巡らしたようだった。両親と担任とによる四者面談がすぐさま設定された。
四者面談は苦痛でしかなかった。
両親はこちらが得意そうなものを思い出混じりに並べて立て、担任がそれを取っ掛りに向いていそうな職業を連想し、こちらの反応を窺った。
一通り無駄な時間を過ごした後、静寂が訪れた。デート中に会話が途切れてしまったカップルみたいだと思った。
「本当に、何も無いの?」
母親がぼそりと聞いた。枝垂れかかった前髪が、汗で額に張り付いていた。
答えられなかった。本当に何も無かったからだ。でも、それを言ったら母親が悲しむと分かっていた。
「なあ、とりあえず大学に行くってのはどうだ?今はやりたいことがなくても、大学で探せばいいじゃないか」
担任がこちらの顔を覗き込むようにして言った。
「大学に行けるくらい、この先自分が頑張れるとは思えません」
「いや、木戸はやれば出来る奴だよ。大学はいいぞ?可能性が広がる。俺も、お前みたいな時期はあった。でも、やっぱり大学に行ってよかったと思っているよ。俺なら、お前を大学に合格させてやれる」
担任はそう言って、飛び切りの笑顔を押し付けてきた。
「大学に行って可能性が広がった人が、こんな田舎で教師をやっているわけないですよね」
気付いたときには口にしていた。
その一言で担任の顔はぱっと赤くなり、母親がわっと泣き出し、父親が頬を張って面談が終了した。
とりあえず、俺は休学ということで話が纏まった。
休学までの僅かな日数、多くの人間が接近しては離れていった。近づいてきた人間は、俺が別の道を見つけたのだと期待していたようだった。旅に出るのか、人に言えない仕事に就くのか、フランス外人部隊にでも入るのか。前のめりな彼等のきらきらした眼差しを今でも思い出す。そんな彼等に対する回答は、いつも同じだった。
「何にも決まってない。フワッとサクッと、生きていこうと思ってる」
ほぼ全ての人間が、この一言で離れていった。皆一様に、白けた顔をしていた。
頭が悪いフリをすれば、深く追求されないだろうと踏んだ。言葉に出来ない思いを分かってもらおうとするより、馬鹿だと思ってもらった方が色々楽だった。
何かを止めるということは、何かを始めるのと同じように、理由が必要なのだと思い知らされた。
そうやって休学した俺に近づいてきたのが牛島だ。何故だかこいつは、今の今まで俺についてきている。
「俺はサクちゃんのこと、すごいと思ってる。誰もできなかったことをやったんだ」
こちらを軽率だと非難する人間が少なくない中で、牛島ははじめて肯定してくれた。非難していた人間のうち一人がつけた渾名が「フワサク蔵」で、本名の木戸朔雄と引っ掛けて「サク」と呼ばれるようになった。
結局休学したものの、何故か卒業日数が足りているということで卒業はできた。せめて大学は出ておけという父親からの助言もあり、牛島と同じ大学に入った。兄と姉からは、俺の休学にも大学進学にも、今の今まで一言の意見も聞いていない。
 そんな自分が、何故か織原に執着している。そして牛島は、それが面白くないと言う。牛島は、誰かと一緒でいたいのだ。だから、仲間がおかしなことをするのが耐えられない。たまにそれが死ぬほどうざったい時もあるが、まだ言えないでいる。
「来たぞ」
牛島に耳打ちされ、現実に引き戻される。
教室の入り口に目を向ける。三人の女の子が、笑いながら入ってくるところだった。
「おい、どれだ?」
「一番背が低い奴。黒いバッグを持ってる……あれだ」
 そう言われ、もう一度視線を配る。三人は教室の端のほうに並んで座った。佐伯らしき黒いバッグを持った女の子は、他二人に挟まれて座っている。その瞬間、ある決断を下す。
「じゃあ、行ってくる」
牛島にそう言い残し、席を立つ。牛島は「ああ」とだけ返事をした。
 佐伯を含めた三人の位置を確認する。教壇に向かって中段の列に、右に詰めた形で三人が座っている。これだと、佐伯の隣から動画を撮影できない。後ろに座ったとしても顔は見えないから、メールを見た反応など分かる訳もない。
佐伯が座っている席から、ちょうど二列前方の席に座る。気配を殺してスマホを取り出し、カメラを起動する。すかさず、カメラを画面側に切り替える。すると、七インチのディスプレイに冴えない自分の顔が映った。そのまま、少しずつスマホを傾ける。肩越しに、佐伯の顔が覗いた。
佐伯は、傍目に見ても可愛い女の子だった。笑い方や頷き方、会話の間なんかが分かりやすい。その全てに、気遣いが行き届いている。大口を開けて笑ったり、でかい声を上げたり、手足をばたつかせたりしない。見ていて安心できる女の子なのだ。
佐伯は終始会話をリードしていた。佐伯が会話の枝葉を広げ、背の低い子がもたもたと返事をし、背の高い子が明け透けなツッコミをする、という流れで会話は進んでいる。背の高い女の子は何かスポーツでもやっているのか、笑い方や話し方まで快活という印象だ。
授業開始の十三時まであと三分。まだ、木村さんに合図を送るわけにはいかない。佐伯が会話の方を優先して、メールを取らない可能性がある。ただ、時が来るのをじっと待つ。
十三時一分前になり、教授が入ってきた。背中で、三人の会話が勢いを失うのを感じた。
 机の下でスマホを操作し、用意していたメールを木村さんに送る。第二段階クリアだ。
「それでは、民法第十二回目の授業を始めます」
教授が頭を下げ黒板の方を向いた。佐伯達の会話が止んだその瞬間、ヴヴヴヴ……というバイブ音が後方から聞こえた。
すぐさまスマホのカメラを起動する。練習した通り、自分の肩越しに佐伯の顔を狙う。
音に気付いた佐伯はカバンを漁り、スマホを手に取った。こちらもスマホを操作して、録画モードに切り替える。音がしないように指で通話口を抑え付け、録画を開始した。
 佐伯はスマホに視線を落とし、両手でスマホを挟むように持っている。しばらくは視線を上限に振っていた佐伯が、何かに気付いたようにはっとした。その「何か」が自分にとって悪いものだと気付いたように、唇が細かく震え出す。ある程度メールを繰り下げたところで、スマホを持っていた右手を離し、口元を押さえた。そのせいで、目元の変化がより鮮明なものとなる。
佐伯は泣いていた。少し赤くなった眼がうるうると波を打ち、光を乱反射させる。
全部読んだのか、佐伯はスマホをカバンにしまった。そのまま両手を拝むように合わせ、口と鼻を押さえている。見開かれた眼は何度もしぱたき、左目の端から一筋の涙がこぼれた。
くすん、という鼻音が聞こえた。
「どした?大丈夫?」
隣に座る背の高い女の子が心配そうに声を掛けた。
「ん?ごめん。ちょっとね……」
佐伯はそう言って、ティッシュで涙を吸い取った。しかし、心の動揺までは吸い取りきれなかったみたいだ、眼は見開かれ、何もない空間を見つめている。
スマホをしまい、こっそりと録画を終了する。理科の実験で化学反応を見ているような気分だった。罪悪感や興奮より、不思議だな、と思う気持ちのほうが強い。出来立てほやほやの動画をメールに貼り付け、木村さんに送信する。動画サイズが大きいので小分けにしなければならなかったが、しばらくして全て送ることができた。第三段階クリアだ。
最早この場に居ても仕方が無い。教授が板書をした隙に席を立ち、忍び足で教室を抜け出す。
一号館を出ると、容赦ない日差しに焼かれた。蝉の鳴き声を浴びながら、噴水横のベンチに雪崩れ込む。
頭上に、樹が茂っている。青い空に、黒い枝葉がジグザグに走っている。青と黒のコントラストは冷たい印象だ。茹ってしまった今の頭には、ちょうど良かった。
大学に居るのもかったるくなって、家に帰った。三時前の昼下がりだが、異様に眠かった。
ベッドに入ってしばらした後、スマホが震えた。何故だかその時には頭がはっきりしていた。スマホを取ると五時を回っている。どうやら少し眠っていたらしい。
カズオからメールが来ていた。件名には「あの授業後」とある。
嫌な予感が胸を掠める。息を吸って動画を開いた。
動画は出だしからひどく揺れていた。しばらくして、牛島が走ったまま撮影していると気付いた。
「お前なあ!いい加減にしろよ!」
 ぶれぶれの映像の中、女の子の怒号が響いた。その声には聞き覚えがあった。
「何のことよ!そっちこそいい加減にしてよ!」
対する声にも聞き覚えがあった。織原の声だった。
映像がやっと落ち着いたところで、相対する二人の女の子が映し出された。誰だろうと思ったところで、ちょうどよく二人の顔にズームした。織原と、佐伯が大写しになった。二人とも相当頭に来ているみたいだった。
「分けわかんないメール送ってんじゃないわよ!」
「うっさい!分けわかんないのはあんたよ!あんたが馬鹿なのが全部悪いんでしょ!」
「この……」
佐伯が右手を振りかぶった瞬間、あの背の高い女の子が佐伯を止めに入った。
「落ち着いて」
背の高い女の子がそう言うと、佐伯は苦々しく右手を下ろした。そのまま佐伯は落ちたバッグを拾って足早にフレームアウトした。
画面には、背の高い女の子と織原が大写しになっている。すると、織原が彼女に何かを言った。言われた方はこくこくと頷き、佐伯の後を追って駆けていった。背の低い女の子も、彼女の後を追って走っていった。動画はそこで終わっていた。
不思議な気分だった。胸がもやもやする。俳優が、自分が逃げ出した後の舞台を、観客席から眺めているような気分だった。かわいそうな女優達が劇を進めようと役を演じる。しかし、どこまで行っても虚しいだけだ。
佐伯に掴みかかられるのも、織原に罵声を浴びるのも、自分だった。あの怒りに焼かれるべきは、自分だった。
――クソ。
スマホを閉じて放り投げる。頭が痛くなってきた。眩暈がする。吐き気もする。理由が分からない苛立ちが身体をぞわぞわと這い上がった。
電話が鳴った。
牛島かと思ったが、木村さんだった。苛立ちが少しだけ大きくなった。
「はい」
「どうも。木村です。木戸さん今、お電話大丈夫かしら?」
「はい」
「動画、どうもありがとうございました。大変参考になりました」
「佐伯は、犯人だったのでしょうか?」
「ええ、そこなんですけどね、これはもう、十中八九間違いないと思います」
そこで木村さんはケホン、と咳払いをした。
「私は、佐伯に友恵が受け取ったメールの一部を送りました。あの「お金が欲しい」というメールです。それから、私達は友恵の預かり知らぬところで動いていること、友恵はお金を払う意思は無いこと、もし写真をばら撒いたなら、こちらも相応の対処をさせてもらうことを書きました。あの驚きようから、佐伯さんはやはり犯人だったと思います」
「え?それだけ……ですか?」
「はい。それが何か?」
「いきなりそんなメールを送ったら、誰だってびっくりしてああいう反応をするんじゃないでしょうか?」
そう言うと、木村さんは深い溜め息をついた。
「ええ、そうね。そうかもしれないわ。やっぱり木戸さんには隠しごとは出来ないわ」
「どういうことです?」
「友恵の写真を送りました」
「下着の写真ですか?」
 木村さんは少しだけ答えに詰まった。
「……ええ、そう。友恵に送りつけられた写真よ。佐伯さんの反応は、私には、匿名で脅している気分だった犯人が、証拠を突きつけられてうろたえているように見えました」
そう、かもしれない。でも、あの写真は……。
「あの写真は、佐伯が友恵さんに送ったんですか?」
「そうよ。まったく、あの子の性根は少しも変わってないのね。友恵をいじめて、その上お金まで……ああもう!考えてだけでいらいらする!」
木村さんの剣幕に、何も言えなくなる。
「でも、これで終わり。やっと、あの子は自由です。木戸さんのお陰よ。本当に、ありがとうございました」
「佐伯さんは、あの後友恵さんに会ってましたよ」
「えっ?!」
木村さんが不安な悲鳴を上げた。
「それで、友恵は大丈夫なんですか?!」
「正直、一触即発って感じでした。でも、背の高い子が止めに入ってました。あの、動画に映っていた……」
「ああ、宮田さんね!良かった」
「宮田?」
「ええ。友恵の高校からのお友達よ」
「じゃあ、佐伯とも知り合いなんですか?」
「そうね。宮田さんはすごく優しい子なのよ。友恵がいじめられているって分かってから、すごく仲良くしてくれてね。だけど優しい分、佐伯みたいに心が寂しい人にも分け隔てなく接してあげているのね」
動画の中で織原が彼女に何かを言っていたが、合点がいった。
「それにしても、木戸さんのお陰よね。ありがとうございました」
「いえ、私は何も……」
「謙遜しなくてもいいのよ。やっぱり木戸さんはすごいわ。そんな人に付いていてもらえる友恵も幸せよ。やっぱり、あの子の才能かしらね」
「才能、ですか?」
「そうよ。あの子、変わったところがあるでしょう?その分変な子……佐伯みたいな子も近づいてくるけど、木戸さんや宮田さんのような素晴らしい方も味方になってくれる。それは、あの子の才能なの。素晴らしいお友達を作る、あの子だけ才能。幸せになる才能よ」
そこまで言われ、さっきから足元でもぞもぞしていた苛立ちが、一気に全身を駆け巡り、脳天を突き破った。
「木村さん」
「はい?」
「お話は終わりましたか?」
「え?終わりだけど……どうしたの?」
「すごく疲れたんです。そろそろ……」
「ああ、そうね。木戸さんにはすごく頑張ってもらったものね。お礼の件は、また今度相談しましょう。それじゃあ、また」
木村さんが言い終わるより先に通話を切った。そのまま、破裂した頭を抱えたまま、部屋の中を三周ほど歩き回った。
立ち止まり、メールを打つ。
『木戸です。大事な話があります。明日の午後一時、噴水前に来てください』
宛先はもちろん織原である。
送った後、一時間ほどして織原のメールを覗いた。当然ながら、受信ボックスに送ったメールはあった。メールは既読になっていた。

 銀輪は光を掻いて進んだ。スポークがきらきらと輝き、光の襞が波を打つ。
 最高気温は三十五度とのことだが、それは涼しい百葉箱の中のファンタジーだ。庶民はこうして地獄の窯の底を這いつくばる外無い。
 噴水近くの木陰に身を寄せる。約束の正午は十分後だ。
さすがにこの時間になると人通りが多くなる。織原が警戒しないようにと考えた結果こうなった。
 噴水の飛沫が虹を描き、夏の空気に融けていく。道行く人影も、現れては陽炎の向こうに消えていく。この暑さでこの熱風だ。自分が融けて排水溝に流れていくところを妄想した。
 しかし、それはできない。この重ったるい肉体のせいだ。飯を食い、呼吸をする。暑くなればこうして汗が噴き出る。飯をクソに変換する作業だけをする単純な機械だ。こんなもんに何の意味があるのかと自問してしまう。いつかSFで読んだ「精神生命体」というのはさぞ楽だろうと思った。
 体重を支えるのもつらくなってくる。樹にもたれたまま、ずるずると腰を下ろした。少し湿った土が冷たくて気持ち良い。植物が皆無の都市空間は砂漠と同じなのだと前にテレビで見た。確かに、砂漠ならばこの暑さも納得するしかない。
 ふと、視線を感じた。首を回しても人の姿は無い。
「何の用よ」
 涼やかな声が降ってきた。
慌てて顔を上げる。そこには、こちらを見下ろす織原がいた。
「やあやあ。ご足労いただきまして」
 尻を叩いて立ち上がる。立ち上がると、思いの外織原との距離が近かった。
 織原は今日も今日とてダサい格好をしている。英字新聞の柄をしたシャツに、下は青いスカートを履いている。ダサいけれども、似合っていた。きっと彼女の中には、おしゃれというか、人からどう見えるかを気にする回路がそもそもないのだ。だから、これでいいのだ。
「最初に言わせて。ごめん」
 初手で頭を下げる。ピンクのスニーカーが目に入った。
「それって、ど・れ・を、謝ってんの?」
 織原を下から見上げる。細い腕が絡み合って、腕組みをしていた。
「この前の喧嘩のこと」
 織原の顔が曇った。
「俺が佐伯さんを怒らせたんだ。ほんと、ごめん」
 正直、殴られるか罵声を浴びるかと覚悟していた。しかし、織原は不機嫌そうな顔で立っているままだ。
「怒ってないの?」
「……別に。あんたに言ってもしょうがないから」
 息を吸い込み、顔を上げる。
「そっちのおばあさんだ。俺を操ってたのは」
「知ってる」
「驚いた。何もかもお見通しなんだな」
「お見通しなのは、あんたらの方でしょ」
 あんたら、と言われて気が付いた。そうだ。俺は、織原とだけ話をすればいいのではない。
 振り返り、校舎を望む。窓の一つ一つに目を凝らしていると、奴と目が合った。
「ちょっと。何してんのよ」
「いた」
「え?」
 スマホを取り出し、電話を掛ける。番号は、この前かかってきた時から把握済みだ。
 窓の向こうの影が、びくりと飛び退く。電話は留守番電話に切り替わった。
「降りて来いよ」
 そう言って電話を切る。
「浩介?」
「そのはず」
 程なく、校舎から佐藤が現れた。この状況を望んでいなかったと見え、憎々しげな視線をこちらに送っている。
「あんたもいたの」
「いや……その……」
 明らかにまごつく佐藤に対して、織原は冷静そのものだ。この状況すら想定内だったのだろう。
 佐藤がこちらに縋るような視線を送った。以前といい、こいつは守勢に回ると弱いタイプのようだ。
「そんな顔するな。織原には、メールのことはばれてるんだ」
 佐藤は一瞬驚いたような顔になり、次にこちらに食って掛かろうとしたみたいだった。しかし、織原の冷静な顔を見て悟ったらしく、溜飲を下げた。
「で?雁首揃えて何しようってわけ?」
 腕を組んだままじろりと睨みつけられる。口を開こうとしたとき、佐藤が口を開いた。
「とりあえず、中入らないか?暑いし」
 全員、異論は無かった。
 佐藤に連れられて行った先は、出来たばかりの十四号館だった。画一的な教室の一号館と違い、目的別の教室が大小ずらりと用意されている。
 シンナーの匂いも新たな廊下を歩き、着いた先は半地下の小教室である。
佐藤がドアを開けると、十人程度の容量しかない小さな教室があった。床は真新しく、使われた形跡が無い。
 佐藤は教室の真ん中で立ち止まり、適当な席に座った。それから、俺達も銘々に座る。織原は、何故か教室近くの席に座った。
「ここなら話せるだろ」
 確かにここなら申し分無い。これから話すことは、他人には聞かれたくないことばかりだ。
 息を吸い込み、頭を整理する。
「まず、ここに来てもらったのは、他でもない例の事件の犯人についてだ」
 犯人が佐伯か、どうしても確かめたかった。俺が木村さんを出し抜くにはそれしかない。
 木村さんは、織原のサイトを守ろうとしている。自分や家族、いや、家の収入源だからだろう。だが、そのために多くの怒りと悲しみが巻き起こった。
何より、織原だ。
 あの夕日の中で見た織原を、どうしても忘れることができなかった。
多くの人間が踊らされすぎた。もう、こんなことは終わりにするべきなのだ。それにはまず、真犯人を見つけないといけない。そういう決意を持ってここに来た。
話を切り出したが良いが、反応は予想と逆だった。食いついて欲しい織原はさほど興味を示さず、食いついて欲しくない佐藤は身を乗り出してきた。
「興味無さ気だな」
 織原に話を振ると、「まあね」と気のない返事が来た。
「何でだよ。何か知ってるのか?」
 今度は佐藤が織原に聞く。すると織原は面倒臭そうに口を開いた。
「私、犯人知ってるから」
織原が何気なくそう呟くと、佐藤は目をひん剥いて織原を見た。
「おい!」
 佐藤が立ち上がった。
「誰なんだ、そいつは」
「宮田」
佐藤の顔が凍りついた。見開かれた眼は一点をただ見つめ、唇は小刻みに震えている。
「証拠は、あるのか?」
喋れない佐藤に変わり、こちらが代わりに質問をする。
「サイトが改竄されたとき、パソコンに証拠が残ってた。あの人、データの吸い出し先を普段使ってるアドレスに指定してたのよ。どうせばれないって思ったんでしょ」
今度は佐藤が口を開いた。
「それって、何かデータを吸い出されたってことか?!」
「私のパソコンの中のデータを全部ね」
「どこでそんなウィルスを貰ってきたんだ?!」
「画像を集めてるときに、サイト経由でメールが来たの。自分もアダルトサイトを運営していて、ここの画像が使えますよってね。それで」
「じゃあ、そのサイトを作ったのが宮田ってことか?」
「多分。随分執念深いことね」
織原は飄々と言うが、佐藤は口をあんぐりと開けたままだった。完全に置いてきぼりを食らった俺に、織原は涼しい視線を向けた。
「だから、最初からあんたが犯人じゃないって分かってたの。あんたが浩介と組んで色々やってるのも、こっちからしたらいい迷惑よ」
「だから、馬鹿って言われたんだな、俺は」
「そゆこと」
織原は不敵な微笑を浮かべている。状況を支配している者に特有の、余裕の笑みだ。その笑みに、俺は好感を持った。
織原は佐藤の方に向き直った。俺とは違い、幾分敵対的な眼差しをしている。
「で、あんたは誰の差し金で動いてんの?」
佐藤が視線を泳がせる。
「婆ちゃん?母さん?それとも叔母さん?まあその辺ってことは、分かってるけど」
「分かってんなら、聞くなよ」
佐藤が顔を背けた。
「だからもう、ほっといてくれない?」
織原が突き放すような声で言った。顔つきも、心底うんざりしているという風に見える。佐藤には悪いが、自分にはこんな顔を向けられなくて良かったとほっとした。
「……ほっとけるかよ」
ぼそりと佐藤が呟いた。聞こえたはずのその声を、織原は聞き流した。
「話すことは終わり?」
 織原が向き直る。今のイライラが、ちょっぴり尾を引いていた。
「あと一つある」
「何よ。とっとと言って」
 タイミングが悪かった。順番を入れ替えるべきだったかもしれない。
 意を決して口を開く。
「何でそこまでして、あんなエロサイトをやってるんだ?」
「そりゃ、稼げるからだろ」
 何故か佐藤が口を挟んだ。
「それじゃ同義反復だ。最近気付いたよ。何の答えにもなってない」
 佐藤が首を捻る。
「親の介護代と、あと生活費で月四十万だっけ。どうしてここまでする。お前の両親は、何で木村さんをお前任せにするんだ?」
 こちらの質問に、織原と佐藤はお互いちらちらと視線を配った。
 二人が同じ目的で動きつつも、何となくずれているのは薄々感じていた。二人の背後にある大きな目的を突き止める必要がある。
「ま、ちょっとだけならいいかな」
「おい、他人の前だぞ」
「何か、今は他人の前で話したい気分」
 織原がそう言うと、佐藤は「そうかよ」と言って黙った。どうやら、二人の力関係は織原に軍配が上がるらしい。
 織原が立ち上がり、こちらの前に立った。
「知ってると思うけど、うちの婆ちゃんは施設に入ってる」
「ああ」
「その費用は、大体私が稼いでる」
「それも知ってる」
「……うちは憎しみが支配する家なのよね、これが」
 そう言ったきり、織原は黙った。何かを考えているのか、床の一点だけを見つめている。
「ね、あんたのとこって、親戚付き合いって上手くいってる?」
 どこかで聞いた質問をされた。佐藤と見合い、苦笑する。
「まあ、介護代をどっちが出すかで揉めたりしないかな」
「それが普通か。でもま、介護や相続で揉める家って多いから、うちが特別変ってわけじゃないんだろうけど」
「いやいや、十分変だろう」
 佐藤が口を挟んだ。
「もうね、あたしも疲れてるの」
 織原が肩を落とす。
「うちの婆ちゃん、当たりが強くてさ。頭も回るし嫌味もヤバいの。大分前におじいちゃんが死んだのも、ストレスで胃に穴が開いたせいだし」
 頭が回るというのは同感だった。どうやら木村さんは想像以上の厄介者だったらしい。
「浩介の叔母さんが、婆ちゃんと上手く行ってたのよね。婆ちゃん、うちの母親が嫌いでさ。何してもトロいし、自分のことしか考えてないもの。叔母さんの方がキビキビしてて、婆ちゃんに似てる。うちの母親は駄目よ」
「んなことないよ。うちの母親は単なるヒステリーだ。嫌味を言い出すと止まらん。うるせーからほっといて欲しいけどな」
 親の悪口とは何故こうも楽しいのだろうか。二人とも、言葉に任せて言いたい放題だ。
「それで、婆ちゃんの世話をしてた叔母さんが、二年前に亡くなったのね」
 織原が気の毒そうな視線を佐藤に投げる。当の佐藤も、少し感傷的な顔になった。
「それで、友恵の叔母さんが引き取るって言い出した」
「あれ?確か、佐藤の家って……」
「引き渡すのには反対だったさ。特にうちの親父がな。そしたら――」
「うちの母親が、直接婆ちゃんを説得したのよ」
 織原が不快そうな顔で言った。
「最初はワケ分かんなかった。仲が悪いのは知ってたから余計にね。でも、私が何を言っても『おばあちゃんを放っておけないじゃない』の一点張り。ちょっと引くくらい必死だった。それで、親同士喧嘩になっちゃったの。私、もう浩介とは話すなって言われてくらいだし」
 佐藤と織原が、同時に寂しい顔をする。どうしようも無い大人の事情を前にした子供は、こういう顔をする。
「じゃあなんで、婆ちゃんはホームに入ったんだよ?」
 佐藤が感情を押し殺して言う。しかし、言葉には非難の色が滲んでいた。
「…………許せなかったんだと思う」
 しばらく間を置いて織原が答えた。それ以上言葉が続かないみたいだった。佐藤の方も何かを言いたくて言えない顔をしている。
何となく、織原達の家庭の事情が分かってきた。
利発でない叔母さんを、木村さんは遠ざけた。叔母さんもそれを感じ取っていた。新たな土地で織原家を作り、織原友恵を授かる。しかし、愛された姉への嫉妬は、ずっと胸の中に眠っていた。それこそ数十年に渡って。
しばらくして、状況が大きく変わった。妹が死んだのだ。木村さんは取り残される。叔母さんは、得られなかったものを取り戻せるかもしれないと思ったのではないか。
でも、ダメだった。どうしても、母を許せない自分に気づいてしまう。母親に気に入られようと介護すればするほど、自分は与えられなかった側、自分は可哀想な子供という事実を再確認するだけ。そんな虚しい儀式だったのではないか。
失った愛情を得られないと気づいた叔母さんは、認知症ということにして木村さんをホームに入れ、可哀想な子供だった自分を葬り去った。
「何となく、分かるよ」
 なるべく真剣なトーンで俺がそう言うと、二人ははっとしたように見てきた。
「意外だな。ただの面白がりの無神経野郎だと思ってた」
「ほんと。ただ下着マニアだとばかり……」
 織原がそう言うと、三人で笑いあった。
 ひとしきり笑った後、織原が涙を拭いながら言った。
「うちの母親はね、逃げてるの。でもそれは、私も同じなんだよね」
 織原が自嘲気味に言う。
「私だって、今の家族が大事。あんなサイトでみんな仲良くやれるんなら、それでいいの」
 織原の顔に疲れが滲んだ。
 しばらく沈黙が流れたところで、織原が立ち上がった。
「話しすぎちゃったかな。じゃ、そういうことで」
俺達を尻目に、織原がバッグを拾い上げる。
「じゃあね。今日はありがと」
ドアを開けて、織原は出て行った。俺と佐藤は、まるで織原なんか最初からいなかったみたいに、男二人で部屋に取り残された。
お互い、無言になる。
結局、あいつは最初から一人で何とかしようとしていたのだ。自分はただのお節介だった。そのことを、痛いほど思い知らされた。クーラーで冷え冷えとした部屋に差し込む夏の日差しが、白々しかった。
「なあ、木戸」
「うん?」
「最後にちょっくら、付き合ってくれねーか?」
その顔に、目を見張った。佐藤の眼には、最初に会ったときと同じ怖さが戻っていた。
「付き合うって、どっか行くのか?」
 佐藤は答えず、ポケットからスマホを取り出した。
「これ見ろ」
佐藤がこちらの鼻先にスマホを突きつける。そこには、メールらしき文面で何かが書いてある。佐藤から少し距離を取り、文面に焦点を合わせる。
『お前の仲間が犯人探しをしているようだが、全部無駄だ
どれだけの人を悲しませれば気が済むんだよ、お前は
お前なんか生まれてこなければ良かったし、生きてるのが間違いだ
お前だけは絶対に許さない
 明日までに金を振り込め
 さもないと、お前の写真も過去の悪行も、全部バラしてやる』
「おい、これって……」
 慌てて自分のスマホで確認する。最早お決まりの手順で織原のメールにアクセスする。しかし、受信ボックスにも削除済みボックスにも、それらしきメールなかった。
「もうねーよ。あいつが見る前に、俺が消した」
 佐藤がスマホをポケットにしまう。
「消したって、これ織原が読んでないとまずいんじゃねーか?」
「友恵が読んでも解決しない」
「だからって、隠しても解決しないだろ」
「俺が、処理する」
 聞き間違えたかと佐藤を見る。しかし、佐藤はこちらの訝る目を真正面から受け止めた。
「友恵には宮田に対抗する材料が無い。宮田にサイトを消せって言われたら、あいつは何も出来ないんだ」
「お前は何をするつもりだ?」
「俺達で、宮田を説得する」
 俺……達?意味が分からず、言葉を鸚鵡返しにする。
「礼はしっかりさせてもらう。だから、手伝ってくれないか?」
 あまりの突拍子の無さに、つい笑ってしまう。
「おい、ちょっと待ってくれ」
「何だ?」
「何でお前が織原に拘るんだ?おかしいじゃないか」
佐藤の顔が苦み走った。
「金だろ?サイトの収入を守りたいんだろ?いや、老人ホーム代なんだろ?」
 確信を突いて佐藤を引き止める作戦だったしかし、佐藤は真剣な表情を崩さない。
「怒らないんだな」
「金が要るのは俺じゃねーからな」
「お前の後ろにいるのは木村さんか」
「そこは聞くな」
「なあ、織原を連れて行って宮田に謝ろうぜ。それで許してもらえれば、サイトも今まで通りやれるじゃないか。ホームの金だって払えるはずだ」
「それで許してもらえると思うか?金を要求されるに決まってる」
「おい佐藤」
佐藤は振り返り、窓の外を見遣った。だが、佐藤の顔に寂しさが忍び寄ったのを俺は見逃さなかった。
「……ところで、協力って何するんだよ」
「説得は、俺が直接宮田に会って言う。お前は隣で見てるだけでいい」
「なんだよ、それ」
「どうせなら牛島もいた方が助かる。人手は多いに越したことは無い」
 振り向きもせず佐藤が言葉を続ける。あまりにも淡々と言うので、怖くなってくる。
「おい、何考えてんだ。見てるだけでいい?しかも牛島を連れて来いだと?」
「宮田には、ちゃんと説明しようと思うんだ。この事件に関わった奴全員でな。俺が代表で喋る。お前たちは、聞いてるだけでいい」
 そういう佐藤の目には、誤魔化しは無いように思えた。だが、まだ完全に信用は出来ない。
「牛島には俺から言うよ。お前も、牛島が来たら、来るだろ?」
 佐藤は両手をポケットに突っ込み、背筋を伸ばして窓の外を見ている。こちらのことなんか気にも留めていないと言いたげだ。強がっているのだろう。
 佐藤に気付かれないようにゆっくり立ち上がり、入り口に向かう。
「逃げないでくれよ」
 佐藤が振り返った。その顔には、固い決意が見て取られた。ここで終わらせるという、強い意志だ。
こいつは危険だと本能が知らせている。こいつの言葉に幾許かの嘘が混じっていることも、俺は知っている。しかし、人からこういう視線を向けられたとき、俺は断る言葉を持ち合わせていない。
「……分かった」
 ほんの少しの満足を得るために、そう口を動かす。ありがとうと言う佐藤を前にして、元気を搾り出すのに努力を要した。
 その日の午後、牛島からメールが届いた。
『行くよまじ行く』
 正直に言えば、断って欲しかった。
『本当にいいのか?お前はあんまり関係ないだろ』
『いやいや、木戸ちゃんだけにこんな思いはさせられんよ』
 額面通りには受け止められなかった。奴がこんな物分りが良いはずがない。
『佐藤に何言われた』
『謝礼が出るんだと。受けない手は無い。心配しなくても、サクちゃんの分もちゃんと用意してるって言ってたよ』
その一言で合点がいった。やはり、佐藤の裏にいたのは木村さんだ。俺だけでは心配だったのか?眠っていた苛立ちが頭をもたげる。同時に、どこか諦めたような佐藤の顔が脳裏をよぎった。
『そうそう、サクちゃんにも教えなきゃ。明日の午後三時に学館の屋上に集合だってさ。佐藤が宮田にアポ取った』
『俺はお前の強心臓っぷりに驚いてるよ』
『何が?今更どうでもいいっしょ。他人の家だし』
嘘だ。牛島だって、気分くらい悪くなるだろう。関係ない佐伯を傷つけた。佐藤もそうだ。あいつは家の事情に巻き込まれて、やりたくもないことやらされている。
そう書いて、送信ボタンを押す直前に思い止まる。
全部、こちらの感傷だ。
 下書きを全部消し、別の文に差し替える。
『明日の段取りはどうなってる?』
 指先が震えて、短文を書くのにも苦労した。
『あいつの横に突っ立ってるだけだ。何も言わなくていいし、何もしなくていいんだと』
『怪しくないかそれ?』
『まあね。でもそれで五万くれるんだ。やるっしょ』
 とりあえず、牛島が話しに乗った理由は理解できた。納得は出来ないが。
『サクちゃんも来るんでしょ?』
『行く』
『そっちはいくら貰える?』
『知らん。じゃあ明日』
 スマホをベッドに投げ、自分も横になる。明日になれば全部終わる。無理にそう思わないと、寝付けなかった。電気を消しても頭は冴えたままで、起きているのか眠っているのか分からないまま、時間だけが過ぎていった。

 学生会館へは早めに出向いた。
 会館へ足を踏み入れると、いつものシンナー臭がしなくなっていた。キャンパスに溢れていた学生達も少なくなっている。七月も終わりに近い。人によっては、もう夏休みに入っているのだろう。
 神輿とロッカーと獅子舞と冷蔵庫をくねくねと避けながら歩き、非常口に辿り着く。
 屋上に着くと、誰も居なかった。少し曇っているおかげで、日差しも幾分和らいでいる。
 佐藤は何と言って説得する気だろう。宮田はどんな反応をするだろうか。
 時が経つにつれ、じわじわと不安が頭をもたげる。
 しばらく屋上をぶらついていると、螺旋階段から甲高い足音が聞こえた。話し声も聞こえる。牛島と佐藤だ。
「早いな」
 佐藤が無表情に言った。ただ、声の具合からするとそんなに緊張している風ではなかった。対する牛島は、何だか浮かない顔をしている。昨日は余裕をかましていたのに、今日になってビビるとは救えない。
「なあ、俺達に責任が来たりしないよな?」
「大丈夫だ。俺だけの責任になる」
「そうか……おい、宮田はまだか?」
「まだ時間じゃない」
 牛島の不安は消えるどころか、ますます大きくなっているようだ。牛島は何を怖がっているのか、少し気になった。じいさんを追い出したと自負する牛島と、目の前で神経質になっている牛島とが重ならない。
 螺旋階段から足音がした。三人とも、同時にそちらを見る。
 かん、こん、という軽妙な音が近づいてくる。
三人が固唾を飲んで見ているところで、ショートカットの頭がひょっこりと覗いた。宮田はこちらを一瞥し、全身を出した。
宮田は、自分も記憶よりもずっと中性的な顔立ちをしていた。
Tシャツの上にグレーのカーディガンを羽織り、下はジーンズというラフな格好だ。しかし、ダサいとか手抜きとか、そんな感じは微塵も無い。
中性的な顔立ちで背の高い宮田は、男性的な着こなしに長けているように見えた。ローライズジーンズはすらりと伸びた脚を際立たせ、控えめな胸は不思議な倒錯を引き起こす。
「どうも」
 近づいてくる宮田に、佐藤が頭を下げた。
「用って何ですか?」
 のっけから宮田は警戒モードだ。そう言えば、佐藤は何と言って宮田を呼び出したのか聞くのを忘れた。
「ああ、うんとね、織原のことなんだけどね」
「織原さんが、何?」
「脅してるっしょ?あとハッキングも」
 佐藤はいきなり本題に入った。対する宮田は、深い溜め息をついた。
「証拠はあるの?」
 「何のこと?」でも「知らない」でもなく、宮田は証拠の有無を聞いた。この時点で無関係でないと言っているようなものだが、宮田はそんなことはお構い無しといった風で表情を崩さない。
「証拠はある」
「何?」
 ここで、佐藤が不安そう牛島の方を向く。驚いたことに、どこまで喋っていいのか判断がつかないみたいだった。こいつもこいつで救いようが無い。
牛島が小さく溜め息をつき、口を開いた。
「織原のサイトが改竄されたとき、データの送信先が、宮田のアドレスだったんだよ」
「部長が見つけてあげたの?」
「いや、あいつが自分で見つけた」
 宮田はふーん、と言って何かを思い出すように虚空を見上げた。
「で、何?脅迫罪で訴えますって?」
「いやまあ、そうじゃないんだ」
 佐藤がぽりぽりと頭を掻いた。その顔には、余裕が戻っている。
「こっちも事を荒立てたくないんだ。金は払わんし、サイトもやめない。で、そっちも手を引いてほしい。それを言いに来た」
「織原は?何で自分で言いに来ないの」
 佐藤は口をつぐんだ。早く話題が変わって欲しいという感じで、微妙に視線をふらふらさせている。
「宮田」
 牛島が声を上げた。佐藤と同時に牛島を見る。
「わざとだろ」
 牛島の言葉に、宮田はにやりと笑った。
「わざとばれるように仕込んだんだろ。普通、あんなミスはしない。テストで答案用紙に名前を書き忘れるのと同じだ。あれ?違うな。泥棒に入って名刺を落とすみたいな……」
「それ、絶対その名刺は罠っしょ」
「ああ、まあ、そうだよな。でも、あれ?」
 牛島が首を捻りうんうん唸る。その様子がおかしかったのか、宮田はふふっと小さく笑った。
「おい牛島。犯人が別にいるなら、わざわざ無関係な奴を宛先にしない。しっかりしろよ」
 佐藤が苛立たしげに牛島を責める。そのせいで、宮田の笑みが消えた。
悪手だった。牛島が苦い顔をしているのを見て、わざと馬鹿みたいに振舞っていたと分かった。
「話を戻そう。もう一度言う。金は払わない。サイトもやめない。オーケー?」
 こちらの思いも虚しく、佐藤が啖呵を切った。宮田に立つ瀬が無い。
 佐藤に呼応するように、宮田の目付きが鋭くなった。
「嫌。織原には、しっかり責任を取ってもらう」
「何の責任だよ」
「みんなを騙したことよ」
 宮田の目には、綺麗事だけではない迫力があった。その視線を受け止めきれず、佐藤が目を伏せた。戦う気がないのに前線に立つなと、心の中で佐藤に蹴りを入れる
「お前は、織原と仲良かったじゃねーか。何で今更あいつを責めるんだよ。終わったことだろ」
 佐藤が口を開いた。その一言で、宮田の双眸に火が着いた。
「騙したからよ」
「誰を?」
「私をよ!」
 大きな声だった。宮田の声がビルに反射して、わんわんと山彦が聞こえる。佐藤は完全に怯んでしまったらしく、身体をぷるぷると震わせている。
「どういうこった」
 牛島が辛うじて口を開いた。
「特待だから」
 渋い顔の宮田が、言葉を搾り出す。
「あたし、特待でこの大学に入ったから」
 佐藤が何かに気付いたように、舌打ちをした。
「特待の選考で、あたしともう一人が競ってた。そいつの方が、何もかも上。勉強も、部活も、生徒会も」
「利用したんだ」
 佐藤がようやく口を開く。
「自分の評価を上げるのに、友恵に優しくしたのか?」
「担任のせいよ」
 宮田の声が震えた。
「そうすれば、特待に通すって。担任にアピれるところはもう無かったし。それにあたし、馬鹿だし……」
 宮田が伏目がちにそう言った。宮田の視線に押し潰されるように、全員で床に視線を落とす。
「だからって友恵には関係ねーよ。逆恨みだ」
 もう何なんだお前はと、喉まで出掛かる。それは牛島も同じみたいで、怒りに燃えた目付きで佐藤を見ていた。
宮田が顔を上げた。目の光が消えていた。
「あいつを慰めてるときも、佐伯を問い質したときも、写真見て笑ってる男子に注意したときも、あいつは笑ってたんでしょ?ふざけないでよ!」
 宮田が声を荒げた。
「別に、お前に実害があったわけじゃ……」
「あいつに関わったせいで、あたしが何人友達無くしたか知ってんの?!最初からあいつが悪かったのよ!いつも人を馬鹿にしくさった態度取って!あたしまで変な目で見られたんだよ?!私の写真だって撮られてサイトに上がったんだからね!それ消すのにどんだけ大変だったか、あんた知らないでしょ?!」
 ひとしきり叫び、宮田は肩で息をした。
「あたし……馬鹿みたいじゃない」
 宮田が、込み上げるものをぐっと堪えた。
 そうだ。確か織原はこう言っていた。
――あんたが馬鹿なのが全部悪いんでしょ。
 あれが、致命打だったらしい。
「とりあえず、手を引いてくれないか?」
 状況に流されまいと、佐藤が口を開く。無理に感情を押し殺したような顔を作っているのは明らかだった。
「私が止めると思う?」
「友恵が謝ればそれでいいか?」
「そんなんじゃもう無理。そもそも、ここにあいつが来てないじゃない。それがあいつの本心なんでしょ?」
 痛いところを突かれ、佐藤が唇を噛む。
「エロサイトはもうおしまい。稼いだ金も、みんなに配ってもらう。そうしないと、あたしが全部ばらすから」
 今度は宮田が啖呵を切った。
 ややあって、声が聞こえた。
「……繰り返すが、今からでもお前を脅迫で訴えられるんだ。就職はどうすんだ?人生棒に振る気かよ」
 宮田は顔を背けた。将来を人質にされるのは、これが一度目ではないからだろう。
「友恵にはしっかり俺から言って聞かせるから、手を引いてくれないか?」
「そんなんじゃダメ!」
「じゃあ訴えるぞ!」
 佐藤の方も腹を括ったらしく、宮田に強気に出る。
 二人の強情な心がばちばちと空中戦を展開する。先に視線を逸らしたのは、宮田だった。
顔を伏せた宮田が、肩を震わせる。
「……分かった」
その言葉を聞いた佐藤の顔に、安堵が浮かんだ。しかし、それは間違いだと思われた。宮田の気配が戦闘モードを解いていないからだ。
宮田が、その長い右腕を真横に伸ばす。その手には、いつの間にかスマホが握られている。
「決心ついたよ」
 宮田が顔を上げる。さっきまでの会話が嘘のように、吹っ切れたような顔になっていた。その不可解な表情に、ようやく佐藤も危機感を持った。
「今まで、何度も送ろうとしたけど、送れなかった」
「おい、待て」
 佐藤が半歩踏み出す。
「送ろうとするたび、あの子との思い出が頭をよぎるの。どうしてだろうね。こんなに嫌いなのに」
「おい!」
 佐藤が怒号を上げる。
「決心がついた。ありがとう」
 宮田の指がスマホを叩いた。佐藤がダッシュしたが、間に合うはずも無い。
 真っ白な陽射しの中を影法師のように、四人が動きを止めた。
ピリリリッ、と電子音が鳴る。牛島のポケットからだった。
牛島がポケットを漁る。続けざまに、自分のスマホがポケットで震え出した。隣の佐藤からもバイブ音が聞こえる。
 まさかと思い、スマホを開く。送信元不明で、一件のメールが届いていた。
『織原友恵 は変態です
 高校生のとき、自分のエロ画像を撮ってネットに上げました。
 織原友恵 は詐欺師です
 自分で写真を上げたのに、盗撮だと偽り、自分は被害者のふりをしました。
 織原友恵 は白状者です
 自分を心配してくれた人間を騙し、笑い者にしました
 織原友恵 は犯罪者です
 違法なサイトを立ち上げて、汚いお金を稼いでいます。
 彼女に近づかないで下さい
みんな不幸になります
彼女からの償いを待っています』
 メールの最後には、織原のサイトのURLが貼られていた。
 佐藤は顔面蒼白になっている。
「おい……これ誰に送った!」
「私の友達と、高校の担任。あと、あいつのメールボックスに入ってた人にも。あいつの正体を知ってもらった方がいいでしょ?」
 佐藤は口をパクパクと動かしたが、上手く声にならない様子だった。
「……訴える。絶対に」
 ようやく佐藤が声に出す。
「あっそ。どうぞご勝手に」
 対する宮田は涼しい顔をしている。多分、訴えられるとかもうどうでもいいんだろう。
 宮田がその涼やかな視線をこちらに向けた。
「あなたが木戸君?」
「……うん」
 素直に返事していのか、躊躇した。
「勝手に名前使って悪かったね」
 そう言う宮田は、元のスポーツウーマンに戻っていた。
 その素直さを別にところに生かせなかったのかと問いたくなる。しかし、素直だからこそ織原を許せなかったのだと、すぐに思い直す。
「帰る」
 宮田が振り返った。
「待て!どう責任取るんだよ!」
「さあ?あの子と勝手に決めてよ。じゃあね」
 そう言うと、宮田はさっさと階段を降りていってしまった。
 屋上に男三人、取り残される。
 牛島と二人で、憔悴しきった佐藤の顔を覗き込む。
「おしまいだ」
 佐藤がその場にへたり込んだ。
「作戦失敗、か?」
「分からん。もう何も、分からん」
 佐藤は完全にポンコツになったようで、うわ言を繰り返すだけになってしまった。
 牛島が佐藤を見て口を開く。
「最初から、織原を連れてくれば違ったかもな」
「いや、あいつは最初から一発かましてやるつもりだったんだろう。織原が来たところで、無駄だったさ」
「それなら、サイトを改竄したときのミスが説明できん。わざと自分がやったってばらしたんだろ?結局、謝りに来て欲しかったんだろう」
 牛島の説明に、佐藤はますます肩を落とした。
 することも無くなり、屋上を離れることにした。佐藤を引き起こそうとしたが、立つ気力すら無いみたいだったので放っておいた。
 学生会館を離れてしばらくしたところで、牛島が立ち止まった。
「げ、しまった!」
 何やら慌てている。
「どうしたんだ?」
「報酬だ!作戦が失敗しても報酬が出るか聞いてなかった!」
 そう言えばそんな話もあったなと、今更ながらに思い出す。
 そこで閃くものがあった。
 慌てて佐藤に電話をかける。
「……あい……」
 佐藤はゾンビみたいな声で出た。
「おい、木村さんから何か連絡は来たか?」
「え?」
「こんなことされたら、木村さんは黙っちゃいないだろ。俺か、お前に連絡を入れてもおかしくない。で、どうなんだ?来たのか?」
「…………来てない」
「ちょっと、その辺探ってみてくれないか?被害状況を確認するんだ」
 佐藤が「分かった」と返事をする。その声には、僅かに力が戻っていた。
 電話を切ると、牛島が聞いてきた。
「ハッタリだったってこと?」
BCCだったから、俺達にはメールが誰に送られたか分からない。一番重要なところが不確定なのだ。
「あ、でもあいつ学校の奴には全員送ったみたいなことを言ってたぞ。家族とかは送って無くても、やっぱり友達ぐらいには送ってるんじゃないか?」
「そうかもしれん。でも、木村さんに送っていないことは重要だぞ」
「どういうことだ?」
「お前の報酬の払い主は、この一件を知らないってことだよ。お前も少しは気にしろよな」
「おお!そういうことか。よし、まだ希望はあるな」
「焦るな。まずは被害状況の確認だ。絶望するのは、それからでも遅くは無い」
 牛島とは校門で別れた。暑かったのでコンドルでも行こうと誘ったが、今日は止めておくと断られた。
一人になり、改札へ向かう。
 長い坂を下っている間、宮田と佐伯の顔を思い出した。織原に食って掛かった佐伯と、メールを送信した宮田。静と動の違いこそあれ、どちらも織原を憎む気持ちは同じだ。自分と変わらないくらいの年齢なのに、そこまで人の怨みを買っている織原を初めて怖いと感じた。しかし、元はといえば佐伯達のいじめがあるわけだし、一方的にどちらかを断罪できない。
 坂を下るにつれ、段々と不安が大きくなっていった。
 宮田のメールは、一体どんな範囲でばら撒かれたのだろう。
 佐藤は訴えるのどうの言っていたが、そんなことで織原の評判が回復できるわけではない。傷つけられたから傷つけるというのは、何か違う気がした。そもそも、織原がそれを望むとも思えなかった。
 そう、織原だ。
 そもそもこの件を織原の耳に入れる必要がある。それに気付いたとき、底なし沼に沈み込むような感覚を覚えた。
 改札前でスマホを取り出し、織原に電話をかける。しかし、どうしても発信ボタンを押せない。諦めてメールにしようとも思ったが、厄介事を招いた張本人の一人として、しっかり口で説明しなければいけないと思った。
 出ないでくれという期待はすぐに裏切られた。電話は一コール目で取られたのだ。
「――あんた何したのよ!」
噛み付くような声が聞こえた。キンキン声に思わずスマホを耳から話す。
「俺じゃないんだけど……宮田を怒らせちまった」
「ワケわかんないこと言わないで!また何かやったんでしょ!いい加減にしてよ!あんた責任取りなさいよ!」
「待ってくれ。責任を取るのは佐藤の方だ」
「はあ?!」
 織原に事実を話す。今話し合うべきなのは責任の取り方ではなく、織原を守るために何をすべきなのかだ。
 三十分は話していたと思う。その間、改札から出てくる人が不思議そうにこちらを見ては去って行った。彼女と喧嘩していると思ったのか、にやにやした微笑を投げてくる奴までいた。
 全てを話し終えたとき、織原にはもう怒る気力すらないみたいだった。
「事情は分かった。浩介の馬鹿が先走ったってわけね」
 怒りの矛先は佐藤に向かった。しかし、こちらとしても佐藤を矢面に立たせたくは無かった。あいつもあいつなりに頑張ったのだと、自分でもよく分からないフォローを入れる。
「とりあえず、そっちに実害は来てるか?」
「知り合い二人から連絡が来たぐらい。まあ、そいつらは面白がってたけど」
 意外と反応が無いみたいだった。しかし、メールが撒かれてから一時間も経っていないのだ。メールを送られた側も、気持ちの整理をつけているのかもしれない。
「そうか。何かあったら……何でも相談してくれ。何とかする」
「あんたに何が出来んのよ。これ以上首を突っ込まないで。あと、浩介の馬鹿にも言っといて。もうあいつとは当分口聞かない」
「そう言えば、木村さんからは連絡来たか?」
「まだね……まあ、別にもういいわよ。知ってもキーキー騒ぐだけだし」
 正直、再び木村さんから極秘指令が下るのではという秘かな予感がしていた。木村さんだったらこの状況にどう対処するだろうかと、見てみたい気もする。
 木村さんに相談してみたら、と危うく言いかけた。
「とりあえず切る。あと、あんたの責任もいずれ取ってもらうから。覚悟して」
 ぶっきらぼうな声とともに、電話は切れた。
肩を落としたまま改札を潜る。疲労で崩れ落ちそうだった。
責任が取れるものなら取りたい。責任が取れないことが辛いなんて考えたこともなかった。責任なんて本人が勝手に感じるものだと思っていた。その信念が、ぐらぐらと揺らいでいる。
その後も、織原からは実害らしい実害は報告されなかった。ただ、その奇妙とも言える静寂に佐藤は気が気でない様子だった。
宮田が織原の「悪行」を暴露した日の晩、佐藤から連絡が来た。こちらが無断で織原に連絡したことに腹を立てていた様子であったが、佐藤も佐藤で織原を守ることを考えていたようだった。
「結局さ、意外と大した被害は無いまま終わるんじゃないか?」
 こちらが能天気に放った一言に、佐藤は激高していた。
「甘い!お前みたいな情報弱者がいるから、いつまで経ってもこういった事件が後を絶たないんだ。考えてもみろ。就職とか結婚とかで、恨みを持つ奴が相手に連絡を入れたらどうなる?いや、恨みを持ってるかなんて関係ない。面白がってるってだけでも十分理由になりうる」
「そんな暇な奴いないだろ。考えすぎだよ」
「あーもう!なんでお前はいつもそうやって軽く考えるんだよ。もっとあいつのことを考えてやってくれよ」
 うざったかったので、佐藤とはそれっきり話していない。
 ただ、奇妙な動きは一つだけあった。それは、まだ誰にも話していない。
 織原のサイトのアクセス数が、跳ね上がっていた。毎日一万件前後だったアクセスが、この一週間とも三倍以上で推移している。
 まあそんなこともあるだろうとは思った。アクセス数なんて日々の変動は大きい。ただ、俺はあることを検証したいと思っていた。思ったまま、こうして時間だけが経過してしまっている。
 情報棟には、誰もいない。誰もいないほうが好都合とはいえ、こうしてだだっ広い部屋に一人でいると不安になってくる。そして、できれば、今は誰でもいいから近くにいて欲しかった。
 インターネットを立ち上げる。検索窓に打ち込むべきは「織原友恵」その人だ。
 一瞬の間を置き、検索結果が表示された。検索時間は0.45秒、検索結果は三万件とのこと。
 同姓同名の人間はかなりいた。陸上選手、ブロガー、投資家、特許取得者などなど。
 多すぎるので、条件を絞り込む。
検索窓に「織原友恵 詐欺師」と打ち込む。
すると、予想していたものが出ていた。
大小様々な掲示板群だ。格闘技にペットにメンタルヘルスと、とにかくあらゆる掲示板に、宮田のメールと同じものが貼り付けられている。
最近アクセスが増えた理由が判明した。同時に、宮田の行動の真の恐ろしさが垣間見えた。これを貼っているのが宮田なのか佐伯なのか、それとも他の誰かなのか、最早判断できないところまで来ている。
検索結果は五百件程度だった。
事情を知らない人間からすれば、訳の分からない書き込みだ。このまま放置していても良いかもしれない。いつか飽きてくれればそれに越したことは無い。
パソコンを落とし、情報棟を出る。向かうべきは教室ではなく、老人ホームである。
昨日、木村さんから久しぶりに連絡が入った。宮田の一件を問い質される、という危惧が頭をよぎった。しかし、木村さんは柔らかい口調でこう言った。
「お礼がしたいので、ホームに来てくださいな」
 こちらはと言えば、取り繕ったような声で返事をするしか無かった。
久しぶりの老人ホームだった。西洋風の豪華な建物は何度見てもワクワクする。でもきっと、入るときはそんな気分でもないんだろうなと想像する。
受付のおばさんに声を掛ける。木村さんに会いにきたことを告げると、話が通っているのか中に入れてくれた。
スリッパに履き替えて中に入る。壁は薄いグリーンで統一され、天井は青く、高かった。
エレベーターで二階に上がると、広々としたホールに出る。内装は意外にも木造風で、テレビで見た田舎の小学校を思わせる造りだ。木の色も濃すぎず薄すぎず、中々シックでいい感じに仕上げてある。ホールは円形で、真ん中に大きなカーペットと安楽椅子が並べてある。何人かの老人達が、椅子に揺られながらテレビを見ていた。
「こんにちはぁ」
 輝くような笑顔のヘルパーさんが話しかけてきた。気のせいか、薄いグリーンの制服も眩しく見える。
この手の笑顔は苦手なので、こちらも顔が引き攣ってしまう。
「あの、えー、木村さん……に会いに来たんですけど……」
「あー、はいはい木村さんねぇ。伺ってますよぉ。どうぞこちらへ」
 促されるままに案内される。歩く途中で、微かに排泄物の匂いが鼻をついた。ヘルパーさんのネームプレートには「鈴木」とある。
 ドアが閉まった部屋の前で立ち止まる。そのまま、鈴木さんがノックした。
「木村さーん。お客さんよー。起きてますか?」
 間延びした声で鈴木さんが問いかけた。しばらくして、ドアの向こうから断続的なスリッパの音が聞こえた。音の間隔から、相当ゆっくり歩いていると分かる。
 がらがらとドアが開き、木村さんがひょっこり現れた。
「木村さーん。こーんにーちはー。お客さんでーすよー」
「はいはい、聞こえとりますよ、もう」
 ああ、やっぱり木村さんは木村さんだった。鈴木さんがゆっくり話すので少し心配だったが、木村さんは明晰なままであるようだ。
「それじゃあごゆっくり」
 鈴木さんはにこりと笑いかけると、足早に去っていった。そして、また別の老人に間延びした声で話しかけていた。
「鈴木さんはいつもあんな感じよ。すごく真面目な方なのだけれど」
 部屋に戻りながら木村さんは言った。
 後ろ手にドアを閉める。その拍子に、窓際のカーテンが風で揺れた。窓の向こうはバルコニーらしく、カーテン越しに光がたっぷりと入り込んで来ている。
 部屋の中は白で統一され、言っては何だが病室に近いと思った。無機質で画一的だが、その分生活感も無く、清潔な感じはする。
「ここのホームすごいでしょう?さっきの大広間は良いわね。懐かしい感じよ」
「小学校とか、ああいう造りだったんですか?」
「ええ、そうよ。でも、私には思い出の方が強すぎるわね」
 そう言われ、木村さんの小学校時代を想像した。小学校に行っていたのは、もう七十年以上前だろうか。テレビで見た木造の小学校を思い描く。だけど、きっとそんなものでは、木村さんの人生の欠片すら再現できないだろうと思われた。
 ふと、沈黙が訪れた。風がカーテンを凪いだ。
「ベランダ」
「え?」
「見てらっしゃいな。景色がいいの」
 そう言われ、カーテンの向こうを見遣った。僅かにだが、窓の外が望めた。
 カーテンを開くと、広い空間が広がっていた。一階部分の屋根の上のようだった。その向こうに、来るときに下りてきた山が見える。緑が濃く、青に見えた。
見ているだけで山から元気を分けてもらえるような気がした。
「すごい景色ですね」
「ええ、本当に。もうすぐ、あと三ヶ月もすると、紅葉になるそうよ。楽しみね」
 お餅みたいな顔の木村さんが目を細める。何故だろう。この年齢の人と話すと、将来とか未来とか、そういうものを話すことにひどく臆病になる。
話の軸を今に戻す。
「あの……お礼ということなんですけど……」
 お礼は断るつもりでいた。本当は電話で断るつもりだったが、一度きちんと会って話をしたかった。
「ああ、そうそう。そうよね。今日はそのために来ていただいたんでした」
 木村さんがベッドから腰を上げる。そして、テーブルの上にある茶封筒を取った。
「実はお礼はお断りしようと思っているんです」
「え?」
 木村さんが困った声を上げた。
「またどうして?」
「私は、褒められることなんて何もしてません。というか、佐伯を傷つけたんです。お礼を貰うというのは、すみませんが、どうしても出来ません」
「でも、木戸さんは友恵を助けてくれました。そのお礼として、受け取ってもらいたいのですが……」
 逡巡するこちらに、木村さんは食い下がった。
「木戸さんは、良いことをしたのですよ?佐伯は、今まで友恵が受けてきた苦しみの一部を味わっただけです。これでおあいこではありませんか。バランスを取ったのです。それは、良いことなんですよ?」
 歪みとバランス。確かに、これで「おあいこ」になって全てが終わればそれに越したことは無い。確かに、そうなのだけれど。
「これで友恵も、佐伯も、貸し借りゼロ。全部元通りですよ。もう誰も、悲しむことは無くなった。二人は木戸さんに助けてもらったようなものですよ」
 子供を諭すように木村さんが語りかける。こちらが話さないのを揺らいでいると見たのか、木村さんはすっと息を吸い込んで最後の一押しを発した。
「友恵には、きちんと言っておきますから」
 木村さんの意図するところが分からず、顔を見る。
「どういうことです?」
「好いてくれているのでしょう?友恵を」
 木村さんが、にこやかに微笑む。身内にのみ見せるであろう、優しい笑顔。カーテンの内側。光の恩寵。
 ビィン!と身体が跳ね上がった。
「――違います!」
言葉が口を突いた。木村さんははっとしたように目を見開いた。
「違います……友恵さんも佐伯も、誰も救われてなんかいません」
「どういうこと?」
 木村さんの声に不安なトーンが混じる。
正直言いたくなかった。でも、言わなければ駄目だと思い知らされた。
「脅迫犯は、宮田さんでした」
 カーテンが舞い上がる。
 こちらの言葉が分からなかったように、木村さんはぽかんとしたままだった。
「え?」
「ずっと友達だと思っていた宮田が、友恵さんを脅していた犯人でした。友恵さんに優しくしていたのは、大学に特待に行くためです。そのために、宮田は佐伯を問い詰めたり友恵さんを庇ったり、とにかく色々頑張っていて、友恵さんに騙されたって感じたんです」
 木村さんは床の一点を見つめ、「嘘よ」とか「そんな」とか小さな声で呟くだけになってしまった。
「最悪なのは、宮田が友恵さんに復讐したことです」
 それを聞いた木村さんの顔色が変わった。
「一体どういうこと?!」
「友恵さんがみんなを騙したことや変なサイトをやっていることを、メールでばら撒いたんです。あと、ネットの掲示板にも友恵さんのしたことを書いて回っているみたいです」
 木村さんは絶句して立ち上がろうとしたようだった。そのまま前のめりで倒れそうになったので、慌てて支える。
 受け止めた木村さんの体は、怖いくらいに震えていた。ひゅー、ひゅー、という荒い息遣いが間近に聞こえる。
「それで、友恵は大丈夫なの?!」
 鬼気迫る表情で聞いてくる木村さんに、どんな顔をすれば分からなかった。
「今のところは、何もありません」
 木村さんをベッドに座らせる。ベッド横の小さ手擦りに掴まらないと、姿勢を保てないようだった。
「宮田がメールで送った人数は、そんなに多くないみたいです。友恵さんに文句を言ってくる人もいません。掲示板に書いたのも、無視されているみたいです」
「友恵は、変な目には遭っていないということ?」
「はい。何かあったら相談するように言ってあります」
 それを聞くと少し安心したようで、木村さんは深く息を吐いた。再び顔を上げた木村さんの目には涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい……」
 木村さんがハンカチで涙を拭う。
「宮田さんが……私、まだ信じられないわ。私だって、宮田さんとは何回かお会いしたけれど、そんな人には見えなかった。だってあの子、正直で優しくて、すごく人なのよ?何かの間違いじゃないかしら」
「私にも信じられませんでした。でも、直接会って、少し分かったことがあります」
「どんなこと?」
「宮田さんは、いい人です」
「私も、そう思ってたわ」
「だから、許せなかったと思うんです」
「友恵のことを?」
「自分をです」
 こちらの説明に木村さんは顔を歪めた。
「そんなの、全部あの子の勝手ですよ。あの子の優しさも、全部嘘だったんです。宮田さんは、友恵を裏切ったんだわ」
「……私たちは、間違っていたんじゃないでしょうか」
 こちらの言葉に、木村さんは目を見張った。
「間違っていた?」
「はい」
 自分で口走っておきながら、うまく説明が出来なかった。ただそう思った。それだけだった。
 木村さんは顔の右半分を歪め、にやりと笑った。敵の弱点を見つけた人間は、得てしてこういう顔をする。初めて見るその顔に、背筋が凍りついた。
「木戸さん。確かに私は脅迫犯を見逃していたわ。そこは間違っていた。ということを言いたいのよね?」
 木村さんの笑う目に力が篭もる。八十代とは思えない迫力だ。しかし、怖いとは思わなかった。それは、その力は木村さんのものではなく、木村さん自身がその力に操作されていると感じたからだ。
「いえ、木村さんの全てが間違っていたんです。どこがとは言えませんが、一つ一つの積み重ねが、今回の結果を招いたと思います」
 滅茶苦茶だ。うまく説明できない自分の馬鹿さ加減が嫌になる。
 木村さんはしばらく考えた後、不意にこちらの顔を覗き込んだ。
「やっぱり、あなたに頼んだのは失敗だったかしらね」
 木村さんは、他人行儀な冷たい顔をしていた。その瞬間に自分はお役御免になったのだと悟る。
「正直に言いましょう。あなたを使ったのは、あなたが人の痛みが分からない人だからよ。頭の中に、自分しかいない。どこまでも自分勝手な人だからよ」
 その通りだと思ったので、特に怒りも湧いてこなかった。
「あなたなら、分かってくれると思ったんですけどねえ」
「すみません。無理でした」
 そう言うと、何故だか笑いが込み上げてきた。我慢できずに笑い出すと、木村さんも笑い出した。
 ドアがノックされた。返事をすると、ドアが開いた。
「あーらあーら、随分楽しそうですこと。木村さん良かったわねえ。こんなに楽しいお友達が来てくださって」
「ええ、本当に。もう笑いすぎて、早めにお迎えが来ちゃいそうですよ」
 そう言うと、三人で大きく笑いあった。

 お礼は受け取らずにホームを出た。後悔を引き摺って漕ぐ自転車は、重かった。
最近どうもおかしい。他ならぬ自分自身が。何故自分の周りにはこんな人ばかり集まってくるのだろう。牛島に言わせるなら、俺も幸せになる才能はないということだろうか。一生こんな感じだとすると、結構辛い。
することも無いので、大学に帰らず街に繰り出す。渋谷が近いので、自転車をそちらに滑らせる。
センター街の細い路地へと分け入る。
白くて広いヒューマン・フレンドリーな空間を離れ、薄汚れたコンクリを塗り固めた場所へ入っていく。何というか、町自体がゆっくりと死んでいるような気がした。
道の細さも店のボロも、さっきの老人ホームの近所に似ている。きっと同じ時期に出来て、同じように歳を喰ったのだろう。逆に言えば、煌びやかなセンター街と豪奢な老人ホームは対の存在ということになる。そう考えると、腑に落ちるものがあった。
目的は、スパゲティ屋だった。食い物に目がない牛島から四月に教えられた店だ。あいつと食べる飯はいつもまずいが、その店のスパゲティは本当に美味しかったので、それから一人で偶に来ている。
 ドアを開けた瞬間帰ろうかと思った。かんころんとベルが鳴り、薄暗い店の中から何人かの客が振り向く。その中に、牛島の顔があった。牛島はフォークを持った右手を挙げ、合図を送ってきた。無視できるはずもなく、牛島の目の前に座る。
「よく来るの?」
 盛大なげっぷをしながら牛島が聞いた。周りの客は、競馬新聞やテレビに釘付けの爺さんしかいない。彼等の前にあるのは、ビールと枝豆だ。
「たまにな」
 適当に返事をして、注文をする。あんかけスパゲティを頼むと、カウンターの奥で店員が威勢のいい返事をした。
「何か難しい顔してますね」
 あんかけスパゲティ、通称あんスパは五分で出てきた。太目の麺は湯通しならぬ油通しでギトギトになり、上の「あん」にはケチャップと油脂が練りこまれている。全体的に黒胡椒をぶっかけられ、トッピングはとんかつと海老フライだ。見ているだけで胸が焼けそうなこの料理は、牛島が言うには名古屋の国民食らしい。見た目は普通のパスタと大差ないが、実態は「西洋風油そば」にでも改名したほうがしっくりくる。
「織原、あれから何ともないの?」
「あのメール、どうもネットに上がってるっぽい」
「まじで?やばくないっすかそれ」
 会話しながら食事するのは苦手だ。フォークで巻いた麺を口に運ぶタイミングを計りかねる。
やっとのことで麺を口に運ぶ。麺と油の甘味が強い。それをケチャップの酸味が包み込み、ぽつぽつと胡椒がアクセントを打つ。見た目通りの味とはこのことだ。
とんかつと海老フライを順に口に運ぶ。どちらも衣がカリカリになるまで揚がっている。どんかつなんか、肉の硬さとあいまって口の中を怪我しそうなほどだ。でも、衣を食い破ると旨みが一気に広がる。食べていて楽しい料理というのは、ここに来るまで知らなかった。
「あーこれか。結構書かれてんね」
牛島がスマホを見て言った。
「ああ、宮田か佐伯から知らんがな。執念深いにもほどがある。織原のサイトのアクセスが増えてるから、それはそれでいいんだけどさ」
「ふーん。今のところ、織原を喜ばせるようなことにしかなってないってことか」
「なあ、これ、宮田と佐伯のどっちがやってると思う?」
 コーヒーフロートに手をつけている牛島に聞いてみた。コーヒーの上に浮いているアイスクリームを、牛島はしばらくの間いじり続けた。
「どっちかっつーと、佐伯でしょうね」
 自分と同じ答えだった。
「ちぐはぐなんだよ。宮田のメールは、織原のことを知っている人間じゃないと意味が通じない。ネットに曝すなら実名と一緒に住所とか写真とかも付けないと効果が薄い。あれじゃ、織原のエロサイトを訪問して終わりだ。宮田なら、そんなこと分かってると思う」
「俺もそう思う」
「ただ、もしかしたら、その二人じゃないかもしれないけどね」
 フォークを止める。
「どういうことだ?」
「宮田のメールで触発された奴もいるんじゃないの?」
 考えもしないことを言われ、思考が止まった。こちらのことなどお構い無しに、牛島の言葉は続いた。
「佐伯はもう織原に関わりたくないでしょ。リアルの付き合いで忙しいっぽいし、こんなことに時間使わないんじゃない?あいつが想像以上に陰湿な性格だったら別だけどさ」
 言われてみると、そうかもと思えてくる。
「じゃあ、誰がやったのか分からないな」
「元からそうじゃん。脅迫犯が宮田って分かったのは、あいつがわざとそうしたからだし。サクちゃんも佐藤も、この事件で何か出来たかって言うと、微妙でしょ」
 言われ放題だが、その通りだ。自分でしたことと言えば、織原のメールを覗いたくらいだ。あとは、木村さんと佐藤の計画につき合わされている。
「サクちゃんさ、変わったよな」
「またその話か。どこも変わってないぞ」
「ウソ。人のために苦労してるじゃん」
 人のため?俺が?言われるまで考えたこともなかった。
「何?自分、織原に気があるんスカ?」
「ねーよ」
「じゃあその木村さんって人に金を貰ってる?」
「違う。礼は断ってきた」
「織原に同情しちゃった?」
 否定はできなかった。しかし、同情というほど入れ込んでもいない。
「どうでもいいけどさ、人の家に首突っ込むの、止めた方がいいよ」
 突き放すように言われ、何も言い返せなくなる。
 あんスパを食べ終えるのと同時に、牛島もコーヒーフロートを食べ終えた。締めを悩んだ挙句、同じコーヒーフロートを頼むことにした。
「なあ」
 水を飲んでいる牛島に話しかける。ちょっぴり、仕返しをしたい気分だった。
「ん、何?」
「じいさんを追い出したとき、どんな気分だったよ」
 こちらの質問に、牛島は顔をしかめた。しかし、それも一瞬のことだった。
「ああ、最高の気分だったよ」
 牛島は少し表情を作っているみたいだった。そんな単純な気持ちじゃないことは分かっている。
「具体的に、どんな風だ?嬉しかったか?すっきりしたか?」
「……嬉しかったし、すっきりしたし、やっちまったなって感じだ」
「後悔しているのか?」
「いや違う。……不可逆性だよ」
「不可逆性?」
 牛島は単純なくせにたまに難しい言葉を使う。大抵は格好つけたいだけだが、ごく偶に的を得たことを言うから性質が悪い。
 メイドの服装をしたおばあさんが、コーヒーフロートを運んできた。
「もう戻れないってことさ」
 目の前に山盛りのコーヒーフロートが置かれる。
「意味が分からん。けど、何でそれが最高の気分につながるんだ?」
 少し考えるように、牛島はお冷の氷をばりばりと噛み砕いた。
「昔からさ、幸せになるためにはどうすればいいか色々考えてきたんだ」
「そらまあ殊勝なことで」
「でさ、まあ、大体子供が生まれたら幸せだって、世の中の多くの人は言うじゃん。何でかなって思ったんだよ」
「自分の遺伝子を残せるしな。本能でそう思うんだろう」
「でもさ、それって動物的なセンスじゃない?幸せって、そういうのとはちょっと違うと思うのよ。もっと文化的な、哲学的な営みだと思うわけですよ」
 そう――かもしれない。
「成長した子供を見ていて、幸せを噛み締める人もいるだけだ」
「ああ、いるな」
「その時、親の中でどういう心の動きがあるのか。これはやっぱり、自分無しにはこの人間は存在しなかったって、そういう確信があるんだと思うんだ。自分が、今目の前で人生を謳歌しているこいつの起点を作ったって言うかな。そんな感じだ」
「征服感とか、そういうことか?」
「近いけど、少し違う。自分がいなかったら、この人間は存在しない。まずその事実が厳としてあるわけ。子供は、永遠に親の所有物なんだ。心理的にね。そうすると、子供が幸せであれば、無からその子を生み出した自分は神様だと思えてくるんじゃない?子の幸せが親の幸せっていう言葉も、理解できる」
 何となく、牛島の言う意味が分かった。
「それが、不可逆性か?」
「俺はそう解釈した」
「爺さんを追い出したとき、どうしてそれを感じたんだ?」
 牛島はこちらを無視してメニューを取った。しばらく眺めた後、めぼしいものが無いという風に元の場所に戻した。
「サクちゃん。俺達の人生、自分で決められることって驚くほど少ないんスよ」
 牛島は少し疲れているみたいだった。目の前の俺に力説しているからなのか、昔の記憶と格闘しているからなのかは、分からない。
「仕事も大学も星の数ほどある。でも、あるってだけだ。自分の人生がつまらないのは、自分がつまらない奴だからなんだ。面白い奴はどうしたって面白い人生を送る。大学や会社の選択は、実はほとんど意味がないと思う。面白い奴ってのは、どう進もうとも、結局面白い人生になるんだ」
「……お前は、どうなんだ?」
 答えは分かっていた。だけど、聞いた。
「俺はつまらない人間だよ。自分でも分かる。何も出来ない。考え付きもしない。『考え付きもしない』ってことにも気付きもしない。その代わりに毎日飯をクソに変換して、絵を見て興奮してる。だから、だからこそだ。じいさんを叩き出したってことを、精一杯噛み締めてるんだ。俺は、自分で、やってやったぞってな」
「……難しいな」
 牛島の言葉を理解できているのか、自分でも分からなかった。そもそも、牛島が何か意味があることを言っているのかも分からない。
 ただ、今の話で一つだけ疑問が湧いた。
「なあ、お前の言う不可逆性ってのが幸せの原因にならば、だ」
「うん?」
「人を殺すことでも、幸せになれると思うか?」
「思う」
 牛島は即答した。試されることを恐れていない、真っ直ぐな顔をしていた。
「人を殺して後悔する奴の方が多いんじゃないのか?それか、人を人とも思わない特別な頭の持ち主だったりもするだろ。それでも、そう思うのか?」
「大した考えもなく、軽い気持ちでやればそうなるだろうな。何の覚悟もせずに女を妊娠させても、多分同じ気分になるだろう」
 その例えはすとんと腑に落ちる。
「全部引き受けるって覚悟が重要だと思うんだよ。何が起こっても、『これは自分が望んでやった結果なんだ』って思う意思が大切だ。それが無いならやっちゃ駄目だし、そんな奴はクズ以下だ。死んだ方がいい」
 牛島が吐く強い言葉は、半分は俺に向かっていて、もう半分は自分に向かっているように聞こえた。
「だから、だ」
 牛島がグラスの氷を一気に飲み干した。
「俺は、爺さんを追い出してかわいそうだなんて思ったりしない。しっかり噛み締めて、満足してやる」
「客観的に見れば、爺さんはかわいそうだと思う。少なくとも、俺にはそう見える」
「それも理解できる。だけど、それじゃあ駄目なんだ」
「不可逆性か?」
「そうだね。爺さんは気の毒だとは思う。でも、だからって、許しちゃ駄目なんだ。そんなだから、俺達の幸せは遠ざかっていくんだ」
「爺さんが改心していても、か?」
「関係ない。爺さんが改心したなら、多分、今頃穏やかで健康な余生を送っているはずだ。でも、それは爺さん側の話だ。家に戻すのとは別の問題だよ」
 牛島はそう言った。何故だろう。正しそうな気がするが、上手く納得できないでいる。
「なーんか、腑に落ちない感じだね」
 牛島が笑いながら言った。
「まあそうだよな。うん、そうだ。でも、その問題にも俺はケリをつけてるよ」
「どんなだ?」
「相手が謝ったから許そうってのは、こいつもそこそこに動物的なセンスなんだろう。本能的って言うかな。で、俺が言ってるのは観念的な話だ。だから腑に落ちない。けど、結局俺の考えが最後には勝つと思うよ。さっきのあんスパと同じ。炭水化物とたんぱく質と脂肪だ。どれも重要だよな。でもさ、あんなもんばっかり食ってたら病気になってすぐ死んじまうだろ?苦くてまずくて吐きそうになっても、野菜は必要なんだ。大昔は知識が無かったから、米ばっかり食って脚気が流行ったんだってさ。本能のまま旨いもの食ってるだけじゃ駄目だってことさ」
 牛島はそう捲くし立てた。こちらはと言うと、今の話が厨房まで聞こえていないか気になっていた。
 牛島の話したいという欲求と、こちらの聞きたいという欲求が、同時に引いていくのが分かった。お互い言いたいことを言い終えた感がある。嫌な感じは残らなかった。
「じゃ、帰るわ」
 牛島が席を立った。余韻に浸るとか考えない、牛島らしい去り際だ。
「何か用事か?」
「ああ、週末に実家に帰るんだ。その準備がある」
「爺さんには会うのか?」
 つい聞いてみたくなった。しまったと思ったが、牛島は嫌な顔一つしない。
「会いに行くよ。でもま、会ってくれないだろうけどね。いつもそうだよ。土産を届けておしまいだ」
 牛島はカウンターで支払いを済ませ、出入り口から外へと消えていった。からんころんという音が店内に響いた。
 牛島が賢いのか馬鹿なのか、強いのか弱いのか、よく分からなくなっていた。ただ一つ確かなのは、迷いを捻じ伏せる強い信念を持っているということだ。同時に、いつもの疑問が形を変えて俺に問いかけた。
 どうして牛島は俺なんかに構うのだろう。
俺が全てを投げ出して学校を去ろうとしたとき、牛島は俺に近づいた。あの時は、まだ心を固めていなかったのかもしれない。しかし、その後も牛島は俺の相手をし続けている。
お冷を傾け、中の水を飲み干す。心のどこかで牛島を見下していたが、今日ばかりは本当に見方を変えないといけないかもしれない。世界の中で、自分のランクが少しだけ下がったような気がした。
店を出ると、日が傾きつつあった。コンクリートの峡谷に、刺すようなオレンジの光が落ちる。オレンジと黒に塗り潰された世界が広がっていた。
時間を見ようとスマホを出す。瞬間、声を上げた。
着信履歴が二十件も入っていた。その全てが、佐藤からだった。留守番電話も一件、佐藤から入っている。
ただならぬものを感じ、留守番電話を再生する。
「佐藤だ。すぐに折り返ししてくれ。友恵だ。やばいことになってきた」
 録音はそこで途切れた。
 言い知れぬ不安に包まれ、電話をかける。しかし、いくら待っても佐藤は出なかった。
 自然と脚は大学に向かう。
自転車を飛ばしながら、今までのことを思い出していた。織原に会って、佐藤に疑われ、木村さんに会い、佐伯を泣かせ、宮田をキレさせる。碌なことをしてこなかった。織原の周りで、全員でぶんぶんと蝿のように飛び回っていただけ。その中でも多分、俺が一番働いた蝿だろう。多くの人間を困らせ、煙たがられている。
 木村さんも牛島も、俺が織原を好きだと思っていた。好きって何だ?正直、分からない。女とヤリたいと思うことは多いけど、相手は誰だっていい。今のところ、織原を抱きたいとは思わない。あそこまで性欲を惹起しない女は初めてだ。
 今、はっきりと分かることがある。俺は、織原がこれからどうするのか、見たい。佐伯と、宮田と、木村さんとどうするのか、見たい。出来ればその中で、すべてが丸く収まって欲しいと思う。みんなのわだかまりが解ければいい。そんな夢みたいなことを思いながら、ペダルを漕ぐ脚に力を込めた。
 信号待ちをしているときに、スマホが震えた。即座に電話に出る。
「はい!」
「俺だ!友恵がやばい」
「落ち着け、どうしたんだ?」
「来ちまった……」
 そのまま五秒くらい、佐藤は黙ったままだった。
「おい、どうした?落ち着いて話せ!」
 こちらの声にも力が入る。
「ああ、悪い……えっと、そうだ、宮田。あいつがメールを撒いたから、とんでもない奴らが友恵に復讐しようとしてる!」
「復讐?!」
 何人かの通行人がこちらを振り向いた。
「そうだ。俺の高校にいたヤンキー軍団だ。今はチンピラやってるらしいが……とにかくそいつらが来たんだ」
「宮田がそいつらを呼んだってのか?」
「あいつらとは付き合いが無いはずなんだが……でも、そんなことはいい。友恵を隠さないとやばいことになる!」
「分かった。とにかくそっち行く。大学か?」
「ああ。俺は友恵を探して一緒に逃げる。お前も、もし友恵を見つけたら一緒に逃げてくれ。あいつ、電話に出ないんだ」
「分かった」
 電話を切ると、手が震えていた。困った。ヤンキー軍団とか、漫画でしか見たこと無い。もっと困るのは、佐伯や宮田が指示を出していない場合だ。そのヤンキー軍団とやらがネットを見て自発的に動いたなら、本格的にまずい。
大学に着いた頃には汗だくになっていた。
ひとまず、織原に電話をかける。しかし、出ない。最悪の展開が想起された。同時に、織原のピンク色の双球が脳裏に浮かんだ。ピンク色のマシュマロみたいな双球に、悪意を持つ何本もの腕が忍び寄るイメージだ。考えるだけで胸が締め付けられた。
とりあえず自転車で構内を巡る。いくら目を凝らしても、織原も宮田も佐伯も見当たらない。
闇の帳がキャンパスに落ちようとしていた。ガラス張りの理学部棟が青く暗い光を飲み込み、鈍い輝きを放っている。まるで月面のモノリスだ。こいつは、人間達の愚かな所業をずっと見守ってきたとでもいうのか。
モノリスを眺めたところで、ふと思い至るものがあった。
 佐藤に電話する。
「見つかったか?!」
 佐藤が電話口で叫んだ。
「まだだ。だけど落ち着いて俺の話を聞け」
「なんだよ?!」
「お前、ヤンキー軍団のことは織原にメールしたか?」
「勿論だ」
「じゃあ可能性は三つだ。織原はもう大学にいない。お前の連絡に気付いていない。身を隠している。この中のどれかだ」
「ああ……まあそうかもな」
「役割分担が必要だ。そっちはヤンキー軍団を見つけて、そいつらの場所を俺と織原に教えてくれ。織原が勝手に逃げてくれればそれでいいし、連絡に気付いてないなら俺と一緒に逃げる」
 ややあって、「分かった!」という力強い声が聞こえた。
 今度は、建物をしらみつぶしに探す。どこから行こうかと考え、とりあえず情報棟へと足を向けた。
 情報棟と言っても、色々部屋がある。まずは大部屋から探す。いつものアジア人留学生と、固まってゲームに興じる数人の男達。そいつらはまだ部屋にいた。織原の姿は見当たらない。大部屋の後は、たくさんの小教室を順に見る。しかし、そこにも織原はいなかった。
次の教室に行こうと思った瞬間、この教室以外は人がいないことが分かった。センサー感知式の明かりがどこも点いていないのだ。
ここでは無いと判断し、情報棟を出る。
 次に一号館に入る。サークル活動をしている学生がかなりいた。その学生の顔を一人ずつ確認する。顔を見た女子の中には明らかに警戒している子もいたが、今は一刻を争うときだ。気にしていられない。眼を限界まで見開きながら、教室を一つ一つ確認していく。
しかし、やはりどこにも織原はいない。薄暗い中、眼を酷使し続けた。視界が徐々に霞んでくる。
スマホが震えた。織原かと身構えたが、佐藤からだった。
『今裏門奴らが近くにいる。そっちはいたか?』
『ありがとう。こっちはまだ見つからない。連絡も来ない』
『分かった。引き続き見張る』
『了解。見つかるなよ』
 佐藤は頑張ってくれているみたいだった。こっちもサボるわけにはいかない。
一号館最後の角部屋に着く。しかし、ここにも目当ての織原はいなかった。
吹奏楽部の練習が遠くに聞こえた。
 これからどこを探そうか。このキャンパスには十四号館まで建物が存在する。この一号館を探すだけでも二十分はかかった。単純に考えてこの十三倍の時間と労力を費やすことになる。二百六十分だから、四時間以上。視力と体力がもつだろうか。
 絶望という虎バサミが脚に噛み付く。もう動けなかった。
スマホで、例の写真を呼び出す。チェックのスカート、ピンクのヴェール、小さな黒子、四隅の青空。
完璧だ。美しい。
今なら分かる。自分がこれまで見てきたものは、全てが作り物だった。そういうことのために、作られたのだ。
この写真には作意が無い。織原の悲壮な決意の結晶だからだろうか。人の意思の美が滲み出ている。俺は、ずっとその意思を欲していた。自分もそうありたいと願い、追いかけてきた。
そして、織原は今でも走っている。己を解き放とうとしている。この写真を撮ったときのまま、進み続けている。だから惹かれたのだ。
「こんなところで何見てんのよ。この変態」
 後ろから声がした。しかめっ面の織原がいた。でかいリュックを背負い、ぶかぶかのカーディガンを羽織り、くせっ毛爆発の織原だった。
 嬉しさのあまり奇声を発しそうになるのを、寸前で飲み込んだ。
「ちょっと!しゃがめよ!」
 空襲に備えるみたいに、俺は膝を曲げて屈んだ。
「あいつらさっきまで裏門にいたんでしょう?まだ来ないよ」
呆れたように織原が見下ろす。それもそうだ。照れ隠しをしながら立ち上がる。
「おい、逃げるぞ!あいつらが来る」
 織原の腕を掴もうと手を伸ばす。その手から、織原はするりと逃れた。
「連中の現在位置も教えてもらう方が先でしょ」
「ちょっと待て。佐藤に報告してもらおう」
 佐藤にメールをする。
『織原発見。これから逃げる。今どこだ?』
 メールを送ってから、少しだけ冷静になる。心臓が落ち着くに連れて、織原の冷静さが際立った。
「織原はいつだって落ち着いてるな」
「そう?そんなことないんじゃない?」
 机に腰掛けながら織原が言う。
「いや、実際そうだ。俺が詰め寄ったときも平然としてたよな。佐伯に襲われたときも、宮田がメールをばら撒いたときも。今もそうだ。どうしてだ?」
 うーん、と織原が頭をゆらゆら振った。
「分かんない。考えたことも無かった」
 織原は驕るでも誇るでもなく、本当に分からないという顔を浮かべた。
「あ、昔からやる気が無いとか意思が無いとか言われてきたから、そのせいかも」
「ああ、いるな。人を見かけで判断する奴」
「でも、本当にやる気もないし何も考えてないから、合ってるんだけどね。昔から、色々なことをやらされたよ。華道にピアノに囲碁に水泳。全部辞めちゃった。何もしたくなかったの。親や婆ちゃんは褒めてくれるけど、全然嬉しくなかった」
 遠い眼をして語る織原は、寂しげだった。愛情が足りなくて寂しいのではない。愛情を欲することが出来ない自分を諦観しているのだと、何故かそんな気がした。
「でも、とりあえず今はやりたいことがある」
「何だ?」
「あのサイトでお金稼いで、婆ちゃんにはホームに入っててもらう。うちの母親にも、変な気苦労はかけさせない。平和な家族を続けるのが、今一番やりたいこと」
「……それは一体いつまで続くんだ?」
「婆ちゃんが……」
 死ぬまで、という言葉を織原は飲み込んだ。
「それって……」
――変だよ。
その言葉が出なかった。理解は出来る。納得は出来ない。この数週間、こんなことばかりだ。
 お互い無言の間が続く。手持ち無沙汰に痺れを切らしたところで、織原の電話が鳴った。
「浩介からだ」
 織原が電話に出る。俺への配慮か、通話をスピーカーに設定してくれた。
「……はい、友恵です。そっち今どこ?」
 返事は聞こえなかった。変だなと織原と顔を見合わせる。
「おい、木戸だ。そっちはどうなってる?」
 しばらく待って聞こえたのは、強烈な笑い声だった。
「アハハハハ!よう織原!元気か?!」
 その言葉の後ろで、同じような軽い笑い声が聞こえた。頭の軽さを体現したような笑い声だった。
「は?あんた小暮?佐藤は?どうしたのよ?!」
 織原が声を荒げる。
「えー、我々はー、ストーカー禁止条例にのっとってー、佐藤被告をー二度と手出しできないようにーボコボコにしちゃいましたー。アッハッハッハッハ!」
 ストーカー規制法だバーカ、という茶化すような声が聞こえ、うっせえ!という男の怒号が聞こえた。
「とりあえず、高校の件責任とってくれや。佐藤と一緒に待ってるからよ。場所は……おいここどこだ?」
 またもや後ろから「第三グラウンドだってさ」と声が聞こえた。
「第三グラウンドにいる。五分で来い。来なかったら佐藤をしばく。んじゃ」
 ぷつ、と通話が切れた。
 まずい!まずい!最高にまずい!心は乱れに乱れ、血の気が一気に引いていった。
「そういうことだから、あたし行ってくる」
 織原はまるでコンビニにパンを買いに行くという風に、さらりと言ってのけた。
「いや、まずいだろ!どうすんだよ!」
「でも行かなきゃ浩介がボコボコにされちゃうかも」
 格好をつけたいのに、つけられない。本能が危険だと命じていた。またしても、本能にドライブされている。牛島なら、この状況で本能に手綱をかけることができるだろうか。
「まあまあ、どうせ相手も十八かそこらのヤンキーでしょ。ちょっと殴られておしまいだよ。女相手なんだし」
「ああそうだ!こんな不細工な格好でも、お前は女だよな!しかもエロサイト運営してるしな!完璧だぜ!頭スッカラカン、えてモンキーの奴らに何されるか、想像できるだろ!」
 織原に罵声とも説得ともつかない言葉を浴びせる。できればこのまま一緒に逃げて欲しい。しかし、目の前の女は、微塵もそんなことを考えている風ではなかった。
 しばらくして、織原は困ったように微笑んだ。その笑みで、全てを理解した。
「……どうしても、行くんだな」
「あんたも来る?見せ場くらい欲しいでしょ」
 挑発的なことを言われるが、従わざるを得なかった。
 夜のキャンパスを二人で歩く。傍から見たらどう思われるだろうか。何事も無いかのように胸を張って歩く織原と、この世の終わりみたいな顔をして歩く自分とでは、どうみたって付き合っているとは見られないだろう。そんなことを思って気を紛らわせないと、嫌な予感に支配されてしまいそうだった。
 織原のでかいリュックガシャガシャと音を立てた。中にブリキのおもちゃでも詰まっているのだろうか。静まり返ったキャンパスの中では、かなり目立つ。
「それ、何が入ってんだ?」
 何気なく、織原に問う。
「秘密兵器」
 頭の中で天使のベルが鳴った。そうか、織原はこいつがあるからこんな余裕なのだ。これまでの抑圧された気持ちがばねになり、天にも昇るような気持ちになる。
「中身は何?」
 はやる気持ちを抑え、冷静を努める。しかし、駄目だ。心はクリスマスプレゼントの箱を前にした子供みたいになっている。
「えーと、そうだ。一応、作戦会議」
 そう言って織原は足を止めた。
「これはあんたに渡しとく」
 そう言って差し出されたリュックは、ずっしり重たかった。外から触った感じだと、なんだかごちゃごちゃしてよく分からない。
「中見ていい?」
 織原がこくりと頷く。すると、織原はこちらの腕を掴み、茂みの中へと分け入った。おもむろに距離が縮まり、胸が高鳴った。
「ゆっくりね」
 その言葉を合図に、リュックに手を突っ込む。すぐに、細長く冷たいものに手が触れた。ゆっくり、それを抜き出す。
「……まじかよ……」
 出てきたそれは、ライフルと呼ばれる代物だった。しかも、素人目に見ても相当な改造を施されていると分かる。握りの部分はいわゆる肩当てが切り落とされ、拳銃のように丸められている。銃身も短く切り落とされている。さらに言えば、銃身の先には空のペットボトルがガムテープでぐるぐる巻きにされ、取り付けられていた。これは、映画で見る減音器という奴ではないか!
 言葉を失っていると、織原がじっとこちらを見ていることに気付いた。
「何?」
 こちらから声を掛けると、織原は「うん、よし」と口にした。
「ビビッてるかと思ったけど、違うみたいね」
 なるほど。合点がいった。
銃を持ったまま、今一度自分の胸に問いかける。疑いようも無く、実戦仕様の武器を手にした俺は、ときめいていた。これが、動物的なセンスに流されているということか。牛島の言う信念なんかは欠片もない。
牛島よ、見ていろ、本能でも幸せになれることを証明してやる。そんな気持ちが、地震で岩盤が隆起するみたいに湧き上がってきた。
「これはあんたに預けとく。いい?最初はあたしがあいつらと話す。本当にやばくなったら、それを出して。あと、レーザーポインタを使って適当に狙って撃って。絶対に当てちゃ駄目だからね」
 話が頭に入らなかったが、適当に頷いて茂みを出た。当てないでと言われても、どこに飛んでいくか分からないぜとは言えなかった。
 第三グラウンドは五分ほどで着いた。暗闇の中にスマホの光が複数浮いているのが見える。連中は、ここから見て三人だ。佐藤らしき人影も、その中にあった。
連中はこちらが近づくと、スマホをポケットにしまった。俺達は五メートルくらいの距離を開けて対峙した。
「織原!久しぶりだなあ」
 三人とも、かなりの体格だった。佐藤と同じくらいか、それよりも大きいかもしれない。人数と腕力のどちらも、こっちの劣勢は明白だ。
 色黒で坊主頭、タンクトップ姿の男が前に出た。どうやらその短い髪は金色に染めているようだった。黄金の猿みたいだと思った。
「今更謝って欲しいわけ?」
「そんだけで足りるか!てめえのせいで大学の推薦落ちたんだ!責任取れや!」
 その一言で、織原の気配が変わった。
「は?あんたらが大学なんて行けるわけ無いっしょ?写真の件で疑われたのも、元はといやあんたのいじめが原因なんだ!バカの分際で背伸びすんのやめれば?!どうせ金をせびる口実なんだろ!このクズ!」
「うるせえ!」
 男はそう言うと、近くにいた佐藤に向き直った。少し離れた場所から何をするのかと思いきや、男は右足を恐るべきスピードで振り出した。男の脚は弧を描き、佐藤の頭を打ち抜いた。
 佐藤の身体が吹き飛び、どさりと地面に落ちる。正直、目の前で行われた暴力にびびってしまった。だが、織原は変わらぬ様子で男を睨みつけている。
「こいつがどうなってもいいのか?」
 息一つ乱さず、男が居直る。
「そいつをいくら蹴っても、金は払わない。クズの上にバカとか救えないね。いっぺん死んだら?」
 あ、これは男が切れるなと覚悟した。胸に抱いたリュックの重みを感じながら、一人静かに心の準備をする。
 男の激昂に備えていたが、不思議と静かなままだった。そのまま二秒、三秒と時を重ねる。
 男の沈黙を不自然だと感じた瞬間、隣で物音が聞こえた。
「きゃあ?!」
 振り向くと、織原の背後から男が飛び掛っていた。男は二人いた。一人は織原の上半身に抱きつき、もう一人は両脚を抱えて持ち上げようとしている。
「バカ!」
「やめろ!」
 佐藤と織原が同時に声を上げる。こちらもついに出番が……来たはずだった。しかし、動かない。心の岩盤の下から現実という冷たいマグマが噴出し、精神の働きを永久凍土の中へと封じ込めてしまう。
「撃って!」
 織原が叫んだ。こちらを見るその顔は、絶望していた。自分を担いでいる男たちではなく、明らかに、俺を見て絶望していた。俺は、自分の顔が引き攣っているのを自覚した。
「どうするつもりだ!」
 佐藤が叫んだ。
「あ?とりあえずあいつのサイトはいただく。エロサイトって儲かるんだろ?これからその撮影会ってわけだ。安心しろ。ゴムはすっからよ」
「人が来るぞ!」
「はい残念。裏に車停めてあっから」
 男が佐藤に向かって舌を出し、大笑いした。
 撮影会。ゴム。あーそうか。そういうことね。ピンク色の双球がついに俺のものでも、織原のものでも無くなるんだな。なるほどなるほど。
 ガチャン、と音がした。リュックが床に落ちる音だ。結構盛大な音がして自分でも驚く。
場にいる全員の視線が俺に集まる。正確には、俺が手にしている細長いモノに。
「あ?そういやお前、誰だ?」
 手にしたライフルは、さっきよりも冷たく重たかった。銃身についているレバーを動かし、弾を込める。手順はさっき織原が教えてくれた。まだ引き金に指はかけない。
「撃って!」
 そう言われ、銃口を織原を抱えている奴らにゆっくりと向ける。二人の人影が立ち竦むのが分かった。結構面白くて、二人に交互に狙いをつけてびびらせる。
「違うバカ!私に当たる!あいつを撃って!」
 抜き出した右腕で、織原は坊主頭の男の方を指差した。男は状況を飲み込めない様子で、きょとんとした顔を浮かべた。
「早く撃ってよ!」
 少しだけ銃を下に傾けて、引き金を引いた。
 パン!という乾いた音が聞こえ、世界中の光が爆縮した。
反動はほとんど無かった。銃口から迸る光をペットボトルが閉じ込め、電球のような残像が視界にこびりつく。
 ゆっくりと、新しい世界が焦点を合わせた。視界に飛び込んできたのは、横っ腹を赤く染めた佐藤だった。
「あう、うあ……」
 佐藤が苦悶の表情と共にのた打ち回る。佐藤はしばらくばたついた後、動かなくなった。
 男は完全に色を失っている。口を半開きにして銃を見つめるそいつは、赤ん坊よりも非力な存在に見える。
「排莢!」
 織原の声が飛んでくる。その声を合図に、銃のレバーを引き排莢する。ちいさな金属製の筒がぽとりと落ちた。続け様に、握りの部分にある小さなスイッチをオンにする。すると、微小な赤い点が男の足元に落ちる。レーザーポインタを即席で括りつけたものだ。
「消えろ!」
 男に叫んだ後、ゆっくりと銃を動かす。赤点が男の身体を舐めるように昇り、胸へぴたりと吸い付く。男が手を払って赤点を掻き消そうとするのが面白かった。
「早く行けよ!」
 もう一度、引き金を引く。今度は男の顔面の真横を狙って撃った。乾いた音の後、男が「はひゃっ!」と情けない声を出して頭を抱えた。亜音速の金属片が顔を掠めたのだ。男の耳には、死神が通り過ぎる音が聞こえたに違いない。
 男は振り返ることも無く、一目散に逃げていった。そのまま、レーザーポインタを周りの男たちにも合わせる。赤い点が近づいてくるのを見た男たちは、散り散りになって闇へと消えていった。
 勝った。脅威は去った。起き上がった織原が、こちらに駆け寄ってくる。まるで映画のラストシーンみたいだと、両手を広げて織原を迎えた。
 織原は俺から銃を引っ手繰り、リュックサックを拾って中にしまった。代わりに取り出したのは、破裂したヘアスプレーの残骸二つである。火で炙ったのか、黒く変色していた。織原はそれをグラウンドの隅に投げ捨てた。
「あんたは佐藤を!早く!」
 そう促され、佐藤に駆け寄る。
 倒れた佐藤に声を掛ける。その様子は道路で引かれた猫に似ていて心苦しくなる。
「大丈夫か?!」
 声を聞いた佐藤がゆっくりと上体を起こした。しばらく眠っていたという感じで眼をぱちくりさせている。
「……すまん」
「へ、ただのかすり傷だ。Tシャツ、弁償しろよ?」
 佐藤はそう言って立ち上がった。脇腹の辺りの鮮血は近くで見ると一層グロく見える。織原が新しいシャツを投げて寄越し、佐藤はそれに着替えた。
「とにかく逃げよう!木戸は、浩介に肩貸してやって!」
 織原と佐藤と三人、グラウンドの端をこそこそと歩く。これじゃ、どちらが悪役か分かったもんじゃない。
暗い雑木林の中を歩く。気がつくと、三人とも走っていた。佐藤はすっかり元気になっていた。
「なあ、あいつら警察行かないかな?!」
「叩けば埃がでる奴らばっかだ。女を襲いに行って返り討ちにあったとか言えねーよ!」
「別の奴らを連れてくる可能性は?!」
「こんなの、格好悪くて他人にゃ言えねーだろ!」
 大通りは避け、出来る限り裏道を歩く。最寄り駅から三駅ほど離れたところでタクシーを拾い、佐藤を押し込んだ。佐藤の元気な姿を連中に見られるとまずい。
「今日はありがとう」
 織原がもじもじしながら言ってきた。少しだけ、あくまでほんの少しだけ、女の子っぽく見えた。
「……冷静に考えると、とんでもないことをやってしまった気がする」
「ふふ、銃刀法違反に殺人未遂、脅迫だもんね」
「笑い事じゃない」
「まあ、もし疑われても、馬鹿な学生がボンベを破裂させたってことで済むでしょ」
「本当に悪知恵が効くんだな」
「あんたもド変態の割には、根性あったじゃん」
「こいつ!」
 そう怒ってみても、自然と笑みが零れてきた。またしても、二人で笑いあった。
「撃てないかと思った。でも、撃ったね」
「ああ。撃ったさ」
 やった。やってやった。これは本能だろうか。観念だろうか。不思議な感覚が体を満たしていた。
「じゃあ、あたしらも帰ろうかね。今日はどうもありがとう」
 改札を潜ろうとした織原の腕を後ろから掴んだ。
「……何?」
 出来れば、言いたくなかった。でも、言わなくちゃいけないんだ。
「話があるんだ。ちょっと来てくれ」
 織原は少し考えたみたいだったが、従ってくれた。
 駅を離れると、小さな公園があった。ブランコと砂場があるだけで、切れかけの街灯に虫が群がっている。ブランコには錆が浮き、砂場は雑草が生い茂っていた。
 街灯の下で立ち止まり、振り返る。
「こんなところまで来て、何?もしかして告白?きゃー」
 織原は楽しいままの顔ではしゃいでいた。
何も言わず、ポケットを漁る。手にしたそれを、織原の前に差し出した。
「……弾?」
先ほど、リュックからくすねた弾を見せる。黄色い金属筒に、鉛の弾頭がついている。
「二十二口径ロングライフル弾、かな?」
「よく知ってるね」
歩きながら、スマホで見当はつけていた。
「世に出回っている弾の中で、一番弱い部類の弾なんだってな。子供でも簡単に撃てるらしい。だから俺でもあんな簡単に撃てたんだ」
 弾丸を見ていると、銃の感触が蘇ってくる。
「空砲だろ」
 弾丸を縦に覗き込む。すると、弾丸の先頭に穴が開いていた。薬莢の中の火薬が爆発してガスになった後、この穴を通って銃口から吹き出る。押し出すべき弾頭に穴が開いているので、当然弾は発射されない。
「こいつもあった」
ポケットから小さな赤い袋を取り出す。袋の表に四角囲いで「水性」と書いてある。
「演劇部って、十月にゾンビパニック劇やるらしいぜ。たまに血まみれのゾンビに出くわすから、結構ビビるんだ」
 佐藤はあの時裏門の近くにいると言っていたが、その間に学生会館に忍び込んだらしい。
結局、織原は最初から危害を加えるつもりはなかった。だが、問題はそこじゃない。
「あいつらが逃げなかったら、どうするつもりだったんだ?!」
「怒らないでよ……」
「だって……だって……」
 声にならない俺に代わり、織原が口を開いた。
「保険は……あったよ」
 織原はリュックの脇のポケットから一発の弾丸を出した。その弾の頭にも、穴が開いている。
「知ってる?この穴は、当たったときのダメージを上げるホローポイントって仕組みなの。花が咲くように裂けて、体の中をぐちゃぐちゃに傷つけるんだって。本当にやばくなったら、こいつで撃ってもらう予定だった」
 その弾を、織原の細い指がくりくりと弄ぶ。
「ウソだ。お前は、そんなことはできない」
「ウソじゃないわ」
「俺まで、騙すなよ。寂しいじゃないか」
 俺がそう言うと、織原は顔を伏せた。上から降り注ぐ光のせいで、表情は読み取れない。
「じゃあ、試してみる?」
 織原はリュックから銃を取り出し、かちゃりと弾を込めた。銃口には、さっきの減音器がついている。
 ゆっくりと銃が持ち上がる。右腕から一直線に伸びた銃が、俺の額に宛がわれた。
「さっきの言葉、取り消すなら今だよ」
 織原がにこりと笑って言った。
「取り消さない」
「命に換えても?」
「ああ」
 織原の眼がマジになると同時に、俺の鼻を汗が伝った。
 織原が引き金を引き、世界中の光が爆縮した。


***


 出てきたのは真っ白い骨だった。その骨を囲むたくさんの人たち。いつの日か私も死ぬのなら、こうして誰かに思ってもらいたい。まだ若かったのにねえと惜しむ人もいたけれど、近い人間からすると素直にそうは思えない。
「こちらが、喉仏の骨でございます。この骨を一番上に乗せるのが作法とされています」
 みんなで壷に入れた骨に、係の人が喉仏の骨を乗せて蓋をする。これで、この人はおしまい。この人の全部を知っているわけじゃないけれど、何もかもお疲れ様でしたと、心の中で手を合わせる。
 外の方がずっと涼しかった。秋の空は高い。高い空に、雲が棚引いている。特に信じているものは無いけれど、ああやってぷかぷか浮いている雲を見ると、亡くなった人もあっちに行っているのかなって思ったりする。
遺産相続について、お母さんと叔母さんは相変わらずギクシャクしている。あの二人と一緒にいると、余計なことを詮索されそうで嫌だった。
そんなことよりも、悪いけど私は、来週から行くアメリカ留学の方がよっぽど楽しみだった。予定があるってコトは生きているってこと。予定が無いってコトは死んでるのと同じ。場所が場所だけに、そんなことを考えたりもする。
結局、何もかもほっぽって出て行く。宮田も、佐伯も、小暮達も、私に関わった全ての人を騙して、謝りもせず、出て行く。
あれから一度だけ、宮田を見かけた。あっちもこっちに気付いてはっとした表情をした後、どこかへ行ってしまった。小暮達もどうしているかは分からない。小暮達と同じことを考える人間が、出てこないとも限らない。
木戸はどうやら婆ちゃんと会っていたらしい。最後に会ったのは二ヶ月前らしいけれど、それからも木戸と話をしたいとうわ言のように言っていた。その度に電話すればいいじゃないと言ったけれと、「喧嘩しちゃってねえ」としょげていた。木戸を連れてくると約束してすぐに、婆ちゃんのガンが見つかった。最期は家の畳で、という婆ちゃんの要望もあって、ホームは退去して浩介の家に戻った。
留学を提案したのは木戸だった。ホーム代が浮くじゃないかとぬけぬけと言う木戸に、本当にホローポイント弾をぶち込みたくなった。
「まだ耳鳴りがするんだけど」
 木戸は会うたびにそう言って愚痴をこぼす。
「今度は頭すれすれじゃなくて、股間すれすれを撃ってあげよっか?」
 こちらの返事はいつも同じだった。
 あの人のことが今でも分からない。
 銃弾が頭を掠めた後、あいつは泣いていた。泣きながら、大笑いしていた。怖くておかしくなったんじゃないかと思うくらいに。大笑いした後、あいつはそのまま気持ち悪い顔をぶら下げて帰って行った。
 今まで何人もの人を泣かせてきた。相手を泣かせることについて、私は知っていることがある。期待を裏切られると、人は泣く。あのときの木戸は、私に撃たれることを期待していたのだろうか?それが今でも分からない。
 窮屈なスーツに疲れた頃、電話が鳴った。木戸だった。
「終わった?」
「終わった」
 この人の会話はいつも事務的なトーンで始まる。たまによく分からないことを言い出す場合もある。昔ちょっとだけ入っていたサークルの会長がそんな感じだったと思い出す。
「ご愁傷様」
「うん。それを言いに電話したの?」
「ああ。うん」
 言いたいことを言わないでいる。それがこの人の性格だと次第に分かってきた。
私もそうだ。
 私はいつも、口にブレーキをかけている。思ったことを口にすると、周りから怒られたり、悲しまれたり、笑われたりするから。自分が一の力で話をすると、向こうは五くらいの力で返してくる。それが山彦のように反射して十万とか百万とかになって、最後は爆発する。その結果は、大抵不幸なことが多い。
「あんたってさ」
 この世界では言いたいことを言えない人間のためのスペースは、限られている。
「私のこと、どう思ってんの?」
「はあ?!」
 木戸が素っ頓狂な声を上げたので、こっちも恥ずかしくなった。
「勘違いしないで!あの写真、まだ持ってるんでしょ?どういうつもりなのよ。恥ずかしいからとっとと消してよ」
「自惚れてんじゃねーよ!消せばいいんだろ消せば!電話が終わったら痕跡も残さずに抹消してやる。安心してアメリカ行って来い!」
「あっちで射撃の練習してくるから、今度はもっとスレスレで撃ってあげるよ。家から少し行ったら、射撃場があるんだって」
「……気をつけてな」
 不意な優しさは卑怯だ。
「あっち行ったらさ、何かネットビジネスの勉強でもしてこいよ。んで、帰ってきたら会社作るんだ。俺も入れてくれよ」
「で?新会社であんたは何の仕事するの?」
「コンテンツ精査とかが向いていると思うんだよな。ほら、あの写真を見てぴんと来た俺の感覚を、ビジネスに生かせると思うんだよ」
「バカ!」
 死ね!と言いたくなるのを堪えた。場所が場所なのだ。
こいつといると気楽でいい。それは確か。でも、ずっと一緒に居たいかと聞かれると、はっきりとは答えられない。
「ああ、そうだ。お金ありがとう。昨日振り込まれてたよ」
 婆ちゃんが入っていた生命保険のうち一つが、受取人が私に指定されていた。保険金は一千万円だった。母親も叔母さんも何か言いたそうだったけど、お父さんがすごい気迫で守ってくれた。結局半分を家に入れて、残りは留学費その他に当てるということで私が引き受けた。
 婆ちゃんから私宛の遺言の中で、木戸にも寸志あげるように言い含められていた。
「十万円でいいなんて謙虚ね。そんな性格だったっけ?」
「実はプレゼントを買ったんだ」
「え?プレゼント……私に?」
 つい声がはしゃいでしまう。
「防弾チョッキ。これすごいんだよ。一番丈夫な奴でマグナムも通さないんだってさ」
 ……バカだ。こいつは最高にバカだ。
「バーカ」
 試しに言ってみる。全然言い足りない。
「バーカ、バーカバーカ、ホント、バーカ」
 続け様に言っても、全然言い足りない。
「それって、言ってるお前のほうが馬鹿っぽいよ」
 そう言われ、何も言えなくなる。そのまま、二人無言のままでいた。
「……あんたも気をつけてね」
「ああ、じゃあな」
「うん。それじゃ」
 通話を切ると、一陣の風が体を包んだ。
 空の高さに気を取られる。今頃婆ちゃんも、この空と一つになっている頃だろうか。
 友恵という名前は、婆ちゃんがつけてくれたのだと聞いた。友達に恵まれて幸せになるようにと、願いが込められているそうだ。ありがとう、そしてごめんなさい。良い名前で気に入ってるけど、私の周りはこんな奴ばっかりです。
 私ってやっぱり、幸せになる才能が無いのかもしれない。


                                    了

(2015年カドカワ野生時代フロンティア投稿。2次落ち)

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