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「珠名の森のねむり姫」 第十章(1)

 僕は駐車場で車を待っていた。五分ほどで、その車は到着した。大きなワンボックスだった。洋子さんが降りてきて、代わりに僕が乗り込んだ。
 僕がシートベルトを締めると、良治さんはすぐに車をスタートさせた。
 僕らは、それぞれが両親に結婚の報告をした。すると、良治さんから二人で話したいという申し出があった。反対というわけではないのだが、事前に二人で話したいとのことだった。
「申し訳ないが、このまま車の中で話させてもらっていいかな」
 と彼は言った。
「はい」
 車は、詩穂とのドライブコースに入っていった。何度通っても良い道だなと思った。
「結婚の申し出ありがとう。反対するつもりはないし、私たちはとても喜んでいる。まずはそれを伝えておきたい」
 僕は、話の方向性がつかめず、「はい。ありがとうございます」とだけ言った。
「君が、詩穂の病状について理解していることは分かっている。ただ、あの子の夫になるということなら、知っておいてほしいことがあって今回は付き合ってもらっているんだ」
 本題に入る雰囲気がした。
 だが、良治さんは「なぜ、私がワンボックスに乗っていると思う?」と聞いた。
「アウトドアが趣味なんですか?」
 良治さんは微笑んで首を振った。
「詩穂のためだ。詩穂と移動するときにたくさん物が詰めた方がいいと思ってね。いざというときにあの子を寝かせて移動できるのも大事だと思った。まあ、実際には、こんな大きな車にする必要はなかったけれど、とにかくあらゆる準備が必要だと思ったんだ」
 僕は、そんなことにまったく頭が回っていなかった。考えが足りていなかった。
「この十年で何もかもが変わった」
 と良治さんは言った。淡々とした口調だったが、疲労がにじんでいた。
「時折、無性にこうして山道を突っ切ったり、深夜に高速を走らせたくなったりする」
 車は緑を抜けて走っていく。
「だけどね、あの子が生まれてきてよかった。病気が判明しても変わらない。それは分かっていてほしい」
「はい。分かっているつもりです」
 雨が降り出した。良治さんがワイパーを起動させた。
「詩穂はいつ眠るか分からないし、いつまで眠るかもわからない。場合によっては、何十年も眠り続けるかもしれない。それでも、約束してほしい。支援は続けると」
「もちろん、そのつもりです」
「今はそうだろう。何しろ結婚しようというのだから。でもね、いつまで経っても目を覚まさない人間と暮らし続けるというのは、想像以上に苦しいものだ。相手への感情が、時間によってすり潰されていく」
「……」
「私はね、実のところ、詩穂が眠り続けた場合の君の心変わりを咎めないつもりだ。遊んでもいい、他の恋人を作ってもいい。だけど、詩穂が人間として眠り続けられる環境は気持ちと関係なく支援し続ける、これは義務だと、心に刻んでほしいんだ」
「……」
「これは脅迫かな。それとも、呪いだろうか」
 僕は「守ります」とだけ答えた。良治さんがそこまで考えているとは思ってもみなかった。今の僕からしてみれば心外な部分もあった。だが、良治さんの十年の日々から吐き出された言葉だと思うと、簡単に否定するわけにはいかなかった。
 彼は「呪い」と言った。詩穂の病自体を呪いと考えるならば、一緒に生きることは、同じ呪いを引き受けることなのだと思った。
 僕らは一時間ほどドライブして病院に帰った。最後に良治さんは、「詩穂をよろしくお願いします」と頭を下げた。


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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