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バルバラの謎のブリュッセル時代

生存中、バルバラは彼女のブリュッセル修業時代について多くを語らなかった。1990年代、記者たちはバルバラを知る様々な知人・友人に取材し、証言を求めようとしたが、結局、詳細は不明なままだった。
本稿では、2つの伝記の記述と私の想像力によってその謎に迫りたい。

なぜブリュッセルを目指した?

モニク(バルバラ)は18歳の時、父親が借家契約を破棄し蒸発してしまったため、伯母の家に住むことになったが、伯母は弟の医学の勉強を優先し、ピアノを借りる契約は破棄してしまった。音楽などというものは、将来性のない芸人の戯事だという考え方の人だった。
ピアノを生きがいにしていたモニク(バルバラ)にとって、それは人生を否定するような出来事だった。もう伯母の家にはいられない。
ブリュッセルには、バラライカ楽団の指揮をしている従兄がいたので、彼を訪ねて北へ向かったのだった。

浮浪者のように彷徨うバルバラ

バルバラは、ステージ歌手を目指してブリュッセルに修業に出掛けたはずだったが、何ら成果も出ないまま、手持ちのお金も無くなり、浮浪者のような生活を強いられた。
それで、ついに或る晩、街(ブリュッセル)を出て、あてもなく南に向かって彼女は道すがら歩き出した。
クライスラーのクーペが横に止まって、ヴィクトールという人が乗せてくれ、パリにいくつかある門(入口)の一つPorte de la Villette(ポルト・ド・ラ・ヴィレット)まで送ってくれた。別れ際に「僕が君の面倒をみようか?」と訊かれたが、未だ歌の道を諦めていなかったので断ったと言う。
パリに帰って、一度妹のところに身を寄せたバルバラだったが、再起をかけてまたブリュッセルに旅立っている。

二度目のブリュッセル挑戦

ブリュッセルでまた歌手としてやって行こうといろんなナイトクラブやキャバレーを回ったが、採用されなかった。1952年には一時的にパリに戻って左岸のレクルーズ(L'Écluse)のオーディションを受けたが不合格だった。
それでも、漸く同じような境遇のアーティストの卵たちと知り合い、狭くて汚くて煙草のけむりが充満しているようなナイトクラブの猫の額のようなステージだ歌い始めることができた。
ところが或る晩、悲劇がバルバラを襲った。
ボエンダルという街の店で「愛の讃歌」を歌ったところ、かなり不評だった。一人の男が靴の片方をバルバラに投げたのを発端に観客が大声で喚き出し、大騒ぎとなった。誰かが犬の糞を投げてそれがバルバラの顔を直撃し、彼女は泣きながらステージから降りたのだった。
実は、日本のシャンソン界でも、エディット・ピアフを下手に歌うと非常に評くなるくなる。もちろん、靴を投げたりブーイングしたりしないが、あの人はピアフを歌うに値しないと皆心で思ったりする。当時のベルギーの観客は、相当厳しかったし、それを態度に表す傾向にあった。

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