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3・11遠く離れたタヒチで過ごした日々

 今から12年ほど前、2011年5月のわたし。生後半年の赤ちゃんをおんぶし、リコーダーを吹いている。
 
 わたしには子供が2人いる。当時、上の子は5歳、女の子。義務教育がはじまっていたので、学校に行っている。
 おんぶしている赤ちゃんは息子で生後5ヶ月。わたしは山の上の廃墟で日がな一日、こうして誰かのリコーダーを吹いていた。

 目の前にはダイヤモンドの粉をまぶしたようにチラチラ瞬く、真っ青な海。天気が良い日は隣の島、モーレア島が見える。
 ここは日本からおよそ9500キロ離れたタヒチ。日本人の誰も知らないけど、正式名称はフランス領ポリネシア、タヒチ島。新婚さんに人気のボラボラ島も、ある。ランギロア島やライアテア島も、ある。
 『あー、ゴーギャンの…』と言われることもある。そう、ゴーギャンが暮らし、絵を描き、亡くなった場所。ちなみにゴーギャンはフランス人にもタヒチ人にもあまり馴染みは無いようだ。日本人にだけ、『あー、ゴーギャンの…』と言われる。なぜかは知らない。
 
 2011年3月11日。
 この日がどれだけの日本に住む人々の心に深く刻まれたことか。わたしより酷い経験をした人がたくさんいることを知っている。だから、どう伝えて良いのかわからなかった。でも、この日のことから語らないと今につながらないんだと思う。
 
 あの日、わたしは娘の幼稚園バスのお迎えに、近所の公園にいた。子供を引き取り、しばらく子供同士遊ばせていたら、揺れた。しばらくして、また揺れた。地面がひび割れるのではないかと思うほど、揺れた。公園の隣には中学校があり、教室の窓が液体のようにたわんでいた。案外窓は割れないものだなぁと、思った。息子は生後3ヶ月。揺れている間中、すやすやと良く眠っていた。
 また、揺れた。なるべく木の無いひらけたところに、子供たちを集めた。隣の中学生たちが、ようやく庭に整列をし始めた。
 あちこちから悲鳴は聞こえたけれど、実際に公園に避難してきたのは、中国人の親子くらいだった。
 3回の大きな地震が過ぎたら、しばらく静かになった。私たちはそれぞれの家に帰ることにした。その時は、ちょっとした高揚感があったような気がする。
 当時、私たちは古いマンションの3階に住んでいた。玄関を開けようとしたら、鉄製のドアが歪んでなかなか開かない。ようやく開けたら、備え付けの靴箱が目の前を塞いでいた。冷蔵庫が1メートル移動していた。棚の中にあるものが全て落ち、割れたものと割れなかったもので床一面、まさに足の踏み場もなかった。
 
 あたりはもう暗くなりはじめていたので、一番近くに住む友人の家に避難させてもらった。
 携帯も通じず、電気、ガスの無い中、キャンプのようにご飯を食べて、みんな一緒に寝た。
 一晩中、揺れた。
 あっちから、こっちから、足元から、ゴーと地鳴りが響いてガタガタと揺れる。風のように、地面が揺れる。地震は平等だ。金持ちも貧乏人も一緒くたに、地球の揺れに肝を冷やしていると思った。
 
 一方夫は、その日、出張で遠方にいた。電車も止まったから、夫は同僚と歩いたり、親切な人に車に乗せてもらったりして、夜更けようやく家に戻り、リビングの机の下で、一晩明かしたそうだ。連絡は取れず、すべて後で知った話。
 
 12日、わたしは友人宅を一緒に片付けながら、小型ラジオから流れてくるニュースを初めて、聞いた。
 
「巨大な、津波が襲ったのでしょう。海岸に、数えきれないほどの遺体が見えます。」
 
 友人と床を拭きながら聞いた。その日、夫も友人宅に合流した。
 友人の旦那さんは、まだ職場から戻れなかった。どこか呑気なキャンプのような生活は突如終わりをむかえた。原発が爆発したのだ。
 
 電気のない私たちがそのニュースを聞いたのは、友人の家に掛かってきた一本の電話だった。
 
「あ、お母さん?うん、大丈夫。え?何…あぁ…うん、わかった…」

 友人は電話を切り、振り向くと不思議な声色でこう言った。

「フクシマの原発が、爆発したんだって。だから、外に行くなって。すぐ窓を閉めて、危ないって。私たち、明日実家に避難するけど、あなたはどうする?」

 SFのようだな。腕の中で眠る、生後3ヶ月の息子を見て、とんでもない世界に生まれてきた息子を思って、目の前が真っ暗になった。

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