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備忘録的な紐付け知識学 ~三日坊主頑張る編~ しょの41

 画像を自分で描いてるんですけど、だんだん慣れて来て味が出てきたように思います。注目度も、皆様の画像をお借りするより有る様な感じがします。
「ヘッタだな~」とお思いでしょうが、許してやってください。人生には愛が大事です。

コタツ、湯たんぽに続いて、冬にこれがあれば何にもいらないシリーズ 今回はお風呂です。
湯船に浸かるお風呂は最高ですよね。しかも日本には温泉文化があるし、今度生まれ変わっても日本人かニホンザルに生まれます。

 風呂の歴史はかなり古く、紀元前4000年頃のメソポタミアで祓い清めの為の浴室が作られていたそうです。
ローマ時代、「テルマエロマエ」でご存じの方、たくさんいらっしゃるでしょうが、この時代は、公衆浴場が普及して、社交場みたいな感じでした。
ズラ~ズラ~っと時代は流れ江戸時代、銭湯文化が日本にありました。
概ね、朝八時開店 夜八時閉店だったそうです。料金は8文から10文
大体150円から200円前後じゃないでしょうか?
防火上の観点から、自分ちにお風呂は付けられないので、みんな銭湯に通ったそうです。 そうなると銭湯はみんなの社交場の役割も果たし、落語なんかも催されたそうです。
男湯の二階は座敷になってて、風呂上りにくつろげました。
この辺が「えっ?なんで?」なんですが、二階の座敷から下を見下ろすと女湯が丸見えだったとか。
 江戸時代の銭湯は色々興味が湧く事が多くて、今では考えられないのですが(上に書いた事も考えられないけど)、三助と呼ばれる男性従業員がいました。個人ではなくて、三助と言うお仕事です。
三助さん達は、要は薪集め、釜焚き、下足番などをする従業員なんですが、男女問わずお客の背中を流す事もやってました。希望する人は“背中流し代” チップですね、それを払うと背中を流してくれたそうです。
江戸時代初期は“湯女”と呼ばれる女性がやっていたんですが、風紀上の問題が多発して、幕府から禁止令が出て、三助に変わっていったんだそうです。
三助は、見習の修業時代があって、初めは薪集め、徐々に下足番や釜焚きと進んでいき、お客の背中を流すのは数年先になります。そうなって初めて“三助”を名乗れるそうです。
そうやって修業を積んだ三助さんは行く行くは独立して自分の銭湯を経営するようになるそうです。
最後の三助さんが引退したのは、割と最近で、荒川区東日暮里の「斉藤湯」の御一人で、ご高齢の為2013年12月29日で「流し」の業務を終えられたそうです。
 でもその後、三助サービスが完全に無くなったかと言うとそうではなくて(これ書いとかないと怒られる)、目黒区緑が丘の「みどり湯」が指圧師による現代版三助サービスを復活させていて、墨田区の楽天地スパで三助に近いサービスが受けられ、「湯の泉」さんで無料で三助サービスが受けられるそうです。こんな風にあっちこっちで三助サービスが復活してるみたいです。

 私が、面白いと思ったお風呂は、名前は忘れたけど諏訪湖のほとりにある温泉施設で、結構深くて立って入る温泉がありました。
 後、京都だったかな?めっちゃくちゃ熱いお風呂で50度くらいあったと思います。
「誰が入るの?」と思ったら80くらいのお年寄りが入ってました。怖ぇよ。

そんな無理しなくて良いですよ。