はじめに、発達障害と私。

 私の父は診断なしの発達障害です。
極度のASDで、対人関係の困難、興味関心の限定が顕著でした。
 私の4つ上の兄は診断ありの発達障害です。
極度のADHDである多動、注意欠陥、そして父と同じくASD、
LDで文章を書く、計算が著しく苦手でありながらサヴァン症候群でもあり、歴史や好きな映画のセリフなどには恐ろしい記憶力を発揮します。
まるで目の前に資料や映像が流れているように事細かに再現していました。
「歴史(社会)の教科があったから高校に合格できた!」と
本人や母親が大喜びしていたことが印象に残っています。
 今から40年前、発達障害という言葉などほとんど知られていない時代、
「変わり者や、理解できへん」が母の口癖でした。
夫が発達障害の場合”あるある”で、家族以外の人に打ち明けたところで全く理解されません。
母も嘆いてました。実母に相談しても「おとなしくて、いい人やんか」と言われると。
または「男の人ってそういうもんでしょ」など。
今思うに母は、カサンドラ症候群に陥っていました。そして育児放棄。
こういう家庭環境で育った私は幼い頃から、自問自答の日々でした。
私は父や兄、望みを無くしたような母から、「どうせお前には無理、できない」と最初から何もかも否定され、夢や希望を持つことができず、ただ耐えるだけ。生きる意味も分からないまま、安心して生きたことがありません。
 兄は10代半ば二次障害に陥り、引きこもりになりました。
家族間の諍い、怒号が毎日のように繰り返される状況に鬱々とする日々、
私は二十歳頃、ふと「障害なのでは?」という疑問が浮かびました。
「もしかして兄には障害があるのでは?」自分の中で『障害』という言葉はとてもショッキングで、受け入れがたい言葉でした。
それだけ当時の私には『障害』が身近なものでなく、偏見があったのだと思います。そもそも自分で自由に動き、話すことができる健康な人が『障害』だなんて。
しかし、考えれば考えるほど、私の中で腑に落ちる感じがありました。
「兄は何か障害があるのかも。」と母に恐る恐る話してみると、案の定母は「そんなことないやろ」という具合で全否定でした。
 その後も、父や兄に振り回され否定的な言葉を浴びせられ続け、こんな家族がいるために私は結婚できないかもと心配しながらも、縁があり結婚をして無事に子どもを授かりました。
その数年前頃から、少しずつ世間で『発達障害』が認知され始めたと思います。その頃、母が癌で他界。疎遠だった兄と話す機会があり、
兄は父を「発達障害で、自分も発達障害だ」と話しました。
大人になるまで生きづらさの原因が分からず、周りから理解もされず、きっと辛かっただろうなと思います。
しかし、もともとコミュニケーションが取りづらい上に、私が心に負った傷も深く、完全に寄り添うことは難しい状況です。
母が他界してすぐ、兄は事故で下半身不随、車椅子生活となりました。
思うに、特性の注意欠陥多動障害が事故の引き金になったのだと思います。
第一子妊娠中に母が癌、第二子妊娠中に兄が大事故。
精神的にしんどかったけど、お腹に子どもがいることが私にとって救いだったのかもしれません。子どもにはストレスが相当かかったかもしれませんが。
 緊急帝王切開を経て、無事に元気な第一子、計画帝王切開で第二子を出産。
そしてまたこの二人の子ども達が、枠からはみ出している子でした。
調べれば調べるほどに、発達凸凹に関する種類や特性があり、うまい具合に子ども達の特徴とはまっていきます。
私は決してレッテルを貼りたいわけではありません。自分を把握するために、強みはより強く、弱みはパターン化して思考の癖を矯正し補強する必要があると思っています。発達障害は広範囲で多岐に渡り、誰もが何かしらに当てはまると思います。ただ特性の出方に強弱があると思います。それが私の子ども達の場合、強い方であると思います。
幼少期からの私の経験があるので、子ども達にはなるべく生きづらさを感じないように、無駄に傷つくことがないようにと、日々を送っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?