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自己低発本

 世の中には自己啓発本というものがある。
 自分を啓発して、一時的な全能感を得ることができるモンスター的なあれである(飲んだことないけど)。
 かく言う私も某メンタリストの効率的なうんちゃらみたいなのにハマった口である。つまりはTHE低俗人間である(低俗であることが悪いとは全く思ってないことをご理解頂きたい。場合によっては高尚であることこそが滑稽である場面もあるのだということもコモンセンスとして筆者は理解している)。その魔力と謳われる効果に誘蛾灯の如く引き寄せられついつい買ってしまい、後悔するというパターンが何回もあった。なんなのかね、あれ。
 今日も今日とて下北沢の駅近の本屋(ツタヤ)に行き、色々と本を物色していた。自己啓発、ビジネスの棚を華麗にスルーして、映画関係の本棚に向かおうとして、はたと気が付いた。世の中には、自己啓発をする本はあるのにそのままの自分を受け入れる、つまりは自己低発をする(低い自分を肯定する)本というものがないではないか。
 これは大変社会の精神衛生上よくないのではと結構真面目に思う。というのも、当たり前なことに勝者のイスに座れる運のイイ人というのはほんの一握りだからだ。卑近な例を上げれば毎度のごとく上がる受験である。反論が聞こえてきそうだ。「受かった人たちは頑張ったから受かったんだよ!」じゃあ、聞きたい。あなたの言う頑張ったとはなにか。「困難に負けず、歯を食いしばって努力することだよ。」いや、だからその頑張ったって何よ。「頑張ったは、頑張っただろ。ほらあそこにいる。頑張っている女の子を見てみなさい。机に10時間も向って勉強しているじゃないか。あれこそ頑張っている姿だよ」あなたの言う頑張ったというものを構成する要素は3つあるようだね。1つは何時間やったか。2つ目は苦痛(あなたの言う歯を食いしばったね)に耐えたこと。3つ目は帰ってきたフィードバックに打ちのめされず頑張ったこと(困難に負けない)。1つ目に関して言えば、これは自制心の問題だよね。つまりは脳の前頭前野の実行機能の問題。つまりこれは個人差がある。個人差があるものを「頑張った」の一言で片付けるのは、雑過ぎないか。ウサイン・ボルトと中年のおっさんは比較対象にすらならんじゃろ。2つ目の苦痛に耐えたこと。それってプロテスタンティズムの倫理観だよね。別にそれ良くも悪くもないよ。骨折り損のくたびれ儲けってこともあるし。同じくらいの時間かけても結果が違うことだってあるよ。3つ目の、フィードバックに打ちのめされずに頑張っただけど、これも疑わしい。そいつはそもそもできるやつだった(潜在的な能力があった)というのが結構あるんだけど、なんか美談にしてそいつの頑張りってことにするよね。凡人って自己申告している人、実際に凡人だったことってなくね。凡人(早稲田大学卒業)みたいな。そもそも凡人って凡人だから人に注目されないもんじゃないの。
 つまりなにが言いたいかといえば、バラ色サクセスストーリーに乗れる人間はほんの一部ということである。それに乗れなかった一般人の心はどこに行くのか。どこにこの想いを吐き出せばいいのか。
 行き場のない嫉妬と劣等感はどこに行く。トイレに流せればいいのだが、そうもいかない。
 嫉妬と劣等感というのは理想形とする姿が高すぎるから生まれる感情なのである。つまりは意識が高いことで生まれるのである。その意識の高さへの処方箋、高すぎるハードルのクリスパーキャス9が自己低発である。自己低発の概念をここで示していこうと思う。
・頑張ってもどうせ上手くいかない
・人は食べて、うんこして、寝る。それだけ
・全ての知的労働は余剰
・生産性という言葉は自己低発の一番の敵。無駄こそが自己低発において推奨される
・昇進は不幸。むしろ島流し上等
・自己低発を謳った結局のところ生産性に帰着するものは、似非自己低発。
・生産するな。人生を楽しめ
・毎日楽しく生きること
・きちんとするな、リラックス、リラックス
・マウンティングをされたら、自身の低さに喜ぶ
・期待しないから裏切られない
・どうせみんないなくなる
・好きにやったら
こんなところである。我ながらなかなか面白い概念だ。また思いついたら書く。ではサラダバー。


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