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【小説】ハッピーアイスクリーム・⑨最後の一人が殺せない

みんな追い詰められている。

あと一話。

 

 残り七日になった。
 有給の残りをすべてそこに当て、午後からも休みをもらった。
 シバタはスマホをデスクの引出しに残し、社屋を出た。この三日で合わせて六時間くらいしか寝ていないというのに、最後の章はちっとも進まず、ただ机の前でぼんやりするばかりなので、タイマーを五分おきにかけてみたが、音が鳴る度に驚くだけだ。
 駅までもう少しなのにもうこれ以上立っていられないくらい眠たくて、シバタはそこから一番手近なドトールに入った。普段なら必ずチェックするガラスケースのケーキも素通りしてカウンターに行き、メニューも見ずにブレンドSサイズでと告げる。
 トレイを持って階段を上がる気力もないから、一階に座る。
 ノートパソコンを出して、ガムシロを三つ入れたコーヒーを飲み干し、それがなくなると水をごくごく飲んだ。 
 このまま仕上がらずこの原稿を投稿できなかったら、自分は十四日後(もう七日後だけど)の世界にはいけないだろというアホみたいな考えが頭の中をぐるぐる回っていた。たとえ書き上げたって、落選して結果が出なかったときに次の原稿を書き出していなきゃ、自分はやっぱりどこにも存在できないような気がする。そうやってずっと、架空の世界を歩いてきた。ときおり途切れそうになる仮の世界を、まるでゾンビみたいに。
 シバタは席を立った。ほんとうに寝てしまいそうだ。
 昔読んだひたすら歩き続けて歩いたまま湖に沈んでしまった物語を思い出したけれど、少なくとも今足元にはアスファルトがある。もう少しで駅だ。定期を自動改札にぶつけるようにして抜けると、線路に落ちないようにホームの深いところに立つ。
 滑り込んできた列車は、平日の昼間だというのに席が埋まっている。ただし、立っている人間はいない。まるで指定席列車にひとり立っているみたいだ。誰かひとりでも降りたらすぐに座ろうと思いながら、吊革にぶら下がる。座席の真ん中に、見覚えのある顔を見つけた。
「こんにちは。この前はどうも」
 そう声をかけると、葛飾さんはぼんやりとした顔でこちらを見上げた。
「は?なんのことですか」
「え?ファミレスで隣に座ってて、自分が寝惚けたりしてなんだかんだあって、てにをは直してもらったよね」
「知りません」
「ナポリタンとあんみつ食べたよね」
「食べてません」
「覚えてないの?」
「あの」
「なに」
「二人殺したんです。三人目が一番重要なんですけど、殺そうとすると必ず邪魔が入るんです。それが決まりだから仕方ないんですけど、だったら最初から三人目を殺しておけばいいのに、それが心残りでいつもいつも」
「なんの話をしてるの」
「二時間サスペンスですけど」
「ああ、そうか。君が殺したのかと思ったよ」
「ちゃんと聞いてくださいよ、今の話、主語がなかったでしょ。自分で殺してたら、こんなふうに電車に乗ってなんかいられないですよ」
「それもそうだよね」
「実を言うと、私、今寝てるんですよ。これ、夢なんです。あなたは私の夢の中に出てきたパーツで、昨日自分があんみつを食べたのなら食べたってことにしておいてもかまわないんですけど、夢なんで記憶もあいまいで」
「それじゃあ、ここにいる僕は幻ってこと?」
「どこかには存在してるかもしれないけど、今の私には証明できないですね」
「君のほうがパーツってことはないわけ」
「さあ、どうかなあ。これがそっちの夢だって感覚あります?」
「夢と言うより現実だと思ってたからね、いまのいままで」
「なんか、変なところはなかったですか?」
「変なところって」
「夢っぽいっていうか、なんか整合性がとれないところ」
「逆にこれが夢だとしたら、しっかりしすぎていると思う」
「少しくらい、あるんじゃないすか」
「そりゃあまあ、少しくらいはあるかもしれないけど、それを言ったら現実だって似たようなもんだし」
「まあいいから、それ、思い出してみてくださいよ」
「ええっと、朝は六時半に起きて」
「朝からですか?」
「そうか、じゃあ、会社を出たところからにしようか。ええっと、眠くてそれでドトールコーヒーに入ったんだ」
「いいですね、ドトール。ウインナーの入ったパンうまいですよね」
「おいしいよね。でも、それは食べなかった。コーヒーのSサイズを頼んだ」
「それからどうしました?」
「昨日君にも話したと思うけど、いやあれも夢なら、君は知らないことになるけど、自分は今締め切り目前の小説を書いていて、それを仕上げられないともう生きていけないというか、その後の世界に行けないみたいなことを考えてた。もちろん締め切りに間に合わなくたって生きてはいけるんだけども、なんていうかその締め切りと締め切りの間を漂って生きているみたいな、架空の人間みたいな、だからそれが途切れたら消えちまうみたいなことを考えていたんだけど、別に小説なんか書かなくたって死にはしないし、間に合わないなら次のやつに出せばいい。そもそも小説を書く意味とかそんなもの考えても無駄だと思って書いてきたんだ。自分はいつもそういうふうに、順序だててというか、整合性がとれたなかで生きてきて、それが自分だと思っていたのに、さっきは締め切りに間に合わないと存在自体が消えちまうような気がした。おかしいといえば、その考えがおかしいかも」
 シバタがぺらぺらと自分の気持を吐露しているあいだ、葛飾さんは窓の外を見ていた。電車はちょうど橋を渡っているところでそこを過ぎたら千葉県から東京都に入る。土手には、風に逆らうように前傾姿勢で自転車を漕いでいる人が見えた。「あの子たちは、確実に目が覚めているよね」
 土手下の広場で、ボールではなくなぜかホームベースを投げ合って遊んでいる野球少年たちを見てシバタは言った。
「覚めてますね」
「あそこに行ってみたら、どうだろう。二人とも目が覚めるんじゃないの」
「目が覚めることが必要なら」
「それもそうか」
「それにもう間に合わない」
 川はもう、遠く隔たって水面からの反射だけが目の裏に眩しい。
「ああ、あんみつが食べたいな」
 と葛飾さんがぽつりと言ったが、シバタはそれ以上目を開けていられなかった。
 
 気が付くと、自分の机の上に突っ伏して寝ているのだった。誰かに肩をたたかれたような感じがして、目が覚めた。最後に見たとき、机の上には飲みかけのコーヒーカップやら、赤ボールペンやら、プリントアウトした原稿やらを散らかしたままだったはずなのに、今はきれいに片付いている。
 シバタは、鞄からノートパソコンを取り出すと、書きかけのファイルを開いた。あるいは、何もかもなくなっているのではないかと思ったが、ファイルはそこにあった。ここ数日間でこれ以上ないくらい、頭がすっきりしている。
 それから問題にしていた章を一気に書き直して、プリントアウトして読み直しを入れた。驚くことに、誤字脱字は一か所も見つからなかった。原稿に穴を開けて紐で閉じ、茶封筒に入れて切手を貼って家を出た。ポストに原稿を落とした瞬間、誰かに肩を叩かれたような気がして振り返ると、頭の中が空っぽになった。

ハッピーアイスクリーム⑩最終回に続く


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