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空き地

 女がひとり、スケッチブックをひろげて熱心に絵を描いている。
 彼女の目の前には、空き地がひろがっている。描き始めてから半時ほどすると、女はひとつ息を吐き、スケッチブックを閉じて空き地に背を向け、ゆっくりと坂道をくだりはじめた。
 そんな姿を、一人の爺が見ていた。
 爺はこの土地の持ち主で、ここからほど近い場所にある瀟洒なマンションに住んでいる。金はうざるほど持っているのだから空き地などさっさと売ってしまえばよさそうなものなのに、ときおりやってくる不動産屋を相手に、すっかり売る気になったような顔をして、「あの土地も、手入れが面倒になってきたな。売ろうかな」などと言うのを楽しんでいた。
「ほ、ほんとうに売っていただけるので?」
 不動産屋は、すぐに気色ばんだ。
「いくらくらいになるかな?十億かな?」
「いやあ、さすがに十億は無理ですよ」
「なら、やめよ。わしとしても、あの土地には思い入れがあるもの」
 若い不動産屋はかつがれているとも知らずに、がっくりと頭を下げ、それを見て爺はほくそ笑むのだ。
 
 坂道を歩いている女に、爺は声をかける。
「ちょっと、そこのあんた」
 声をかけられた女は足をとめ、手にしていたスケッチブックをまるで巨大な貯金通帳でもあるかのようにぎゅっと握り直した。爺は、そんなものとりゃせんわい、わしは金も不動産もたんまり持っておるのだと言いたくなったものの、そこはぐっとこらえて、
「わしはそこの土地のもんじゃがな。さっき、あんたがあそこに立っていたのを見たもんだから」
 絵を描いていたことは重々承知で、とぼけてみせた。
「あすこで何をしてなさったのかな」
「何って、絵を描いていたんですけど。あなたの土地には足を踏み入れていません」
「ほお?絵を描いてというが、あそこは今、何も建っておらんぞ」
「わたしはただ、野の草が風に吹かれているのを描いたんです」
 はて、あそこにそんな風情のよいものが生えていたかな、と爺は不思議に思う。だいいち、先週きっちり草むしりをさせたばかりだ。
「あんたは絵描きさんかね」
「ただの趣味ですよ。スケッチブックを持ち歩いて、気に入った風景をメモのように描きとめているんです」
「そんなら、その絵を見せてくれんかな。なにせ自分の土地じゃ。さすればそこに生えるのもわしの草じゃ」
「仕方がないですね」
 女はスケッチブックをひろげて見せた。
「これはなんとも、妙な絵じゃな」
「そりゃあ素人ですから」
「いやいや、うまくかけとるよ。しかし妙だ。というのは、この草たちは季節がごっちゃまぜになっとるんじゃ」
「ごちゃまぜ?」
「この黄色い花火みたいなもんは女郎花といって、秋の草じゃ。こっちのうるさい拍手みたいなピンクのやつがポインセチア、冬じゃな。そいでもってこのなんにも悩みのなさそうな真っ赤なやつはハイビスカスじゃよ。わかるじゃろ?」
「なにがわかるんですか?」
「もちろん、夏の花ということじゃよ、ひひひ」
 爺はハイビスカスに特別な思い出があるというようで、へんな笑い方をした。
「はあ」
 女があまり興味がなさそうなので、爺は急に腹立たしくなってきた。
「あんた、なんでこんな支離滅裂なものを描いたのじゃ」
「べつに、見たままですよ」
「ふうむ。ますます妙じゃね」
「似た草が生えていたんじゃないですか」
「そうかもしれん。どれ、一緒に行って見てみようじゃないか」
「行くならお一人でどうぞ」
「何を言うんだ。あんたにも、責任があるんじゃぞ」
 女は面倒になったが、正直、自分でも妙な話だと思ったのでついていくことにした。
 二人は坂をのぼり、空き地へ戻る。
「あれ」
 空き地はいまや、隙間なく草が生えていた。
「こりゃ驚いた。いつの間にこんなことになっとったんだ」
「さっきより生えてますよ」
「とくと見てみよう」
「いやですよ、気持が悪い」
「何を言っとる。そもそもあんたが絵を描いたせいじゃろ」
「そんな」
 二人は静かに土地に足を踏み入れる。風がさあさあと草花の合間を通り、そのすきまに、ちろちろとした影のようなものが見えた。
「あっ」
 爺が叫んだ。
「何ものだあ、わしの土地にいい」
 爺が叫ぶと、その動きもとまる。影のようなものは、ぜんたいが草色で顔も手も足もあるが、大きさは爺の膝丈くらいで、その爺は小学生くらいなのでずいぶんと小さい。
「なにものだ」爺は怒った。
「あんた、出て行ってくれんかな」
 爺の言葉にも、草色のものはくにゃりとするばかり。
「まいった、話が通じん」
「まいりましたね」
「なにをひとごとみたいに、あんたのせいなのに」
「なんで私のせいなんですか。絵を描いただけですよ」
「だって、あんたが来るまではこんなものいやしなかったんじゃから」
「そんな」
 草色のものは、その間にさっといなくなってしまった。二人はさらに空き地を奥へと進む。するとこんどは、草色のものが地面に寝ている。寝ている人を踏まないように器用によけて、
「死んどるのか」
「いや、寝ているだけですよ、ほら、腹が上下してますから」
「ほー、よかった」
 女はふと、違和感を覚えてあたりを見渡す。
「ここって、こんなに広かったですかね」
「むろん広いのじゃよ、わしの土地じゃもの」
「いや、広すぎますよ」
「文句あるのか」
「少し休みましょう。草のないあのあたりで」
 草のない場所には、草色のものはいない。
「あんた、もう一回絵を描いてみたらどうかね。それも空き地の絵を描くんじゃ。間違っても、野の花なんか描かんでよ」
「それでどうなりますかね」
「そしたら、あのものも、草もいなくなるかもしれん」
「ふうん」
 スケッチブックを開いて、女は絵を描いた。しかし、いくらがんばっても草のない空き地が思い浮かばない。
「どうなっていましたっけ」
「ここは、こんなふうじゃ」
 爺があれこれ口を出すが、絵はいっこうに進まない。
「どうにも、うまく描けませんよ。私には、想像する能力というものがないんで」
「わしの土地はわしがよく知っとる。わしの言うとおりに描くんじゃ」
 だが、爺の記憶もあやふやである。考えれば考えるほど、空地には草がもうもうと生えてしまうのだ。二人は疲れ果てた。すると、草のものがむっくりと起き上がって動き出した。ちろりちろり。四歩ぶんほど歩いて、くるりと振り向いてまた四歩ほど流れて、くるりと振り向いて、二人に近づいて来た。
「あれ、あいつじゃ」
「なんだか、怒っているみたいですよ」
「何か言っとるぞ」
「…昼なのか夜なのか…わからない…まったく明るいまったく暗い暗いと何も見えない明るいと何も見えない整理整頓をせよ、整理整頓もできぬ、読みたい本もわからない整理整頓ができないからわからない明るいからわからない…」
「なんじゃ、はっきりせい」
 草のものの動きが、ぴたりと止まる。それきり動かない。
「死んでしまったのかね」
 爺が叫ぶ。
「いま何か音がした、いま何か音がした、いま何か音がした」
「ここですよ」と女が言う。
「いま何か音がしたがさっきとは違う音がしたいま何か音がしたがさっきとは違う音がした」
「それはさっきとは違う人間が話をしたからじゃ、上を見なさい」
 草のものは両手を突っ張らかしてしまう。
「あまり刺激しないであげてくださいよ」
「ちょっと、つついてみるか」
「そんなことをしたら、驚いて死んじゃうかもしれないですよ、こんなにミニなんですから」
「そりゃ、願ったりかなったりじゃ」
「ひどいこと言いますね」
「だってわしの土地だもの」
「土地土地うるさいなあ、もう」
 女はかがみ込んで、草のものに話しかけた。
「あの、そこのあなた」
 草のものが、突っ張らかしていた腕をけいれんしたみたいにばたつかせる。
「どこをををを」
「ここですけど」
「みえぬー」
「あなたより大きいんで、見えないと思うんですけど」
 草のものは寝ころんだ。
「サケだあー」
「アマイものだあー」
「つまむいだあ」
「もってこい」
「もってこいー」
 草のものが叫んでいる。
「なんじゃ、こいつは」
「酒と甘いものとつまみを要求しているようですよ」
「なに?こいつに酒を運ぶのか」
「仕方ないでしょ。この事態を打開するためなんですから」
 爺は不平だが、このままではどうにもならないので女とふたりで店に向かうことにする。酒と甘いものを調達して、二人でまた空き地に向かっているとき、
「いや、空き地と言う言い方はおかしいのじゃ。もともとここはわしの土地なんじゃから空いてはおらんのよ」と、爺はふと呟いた。
「でもあなたはあそこを使ってはいないでしょう。だからああして放っておいたんでしょ」
「まあそうじゃけど、わしはあの土地を見るのが好きなのじゃ。何もないのが好きなのじゃ。わしには、そういうものはないのだからな」
「まあもう、ああなったからにはあきらめるんですね。あれだけ小さいんだから、寿命も短いでしょう」
「あんたもなかなか言うのう」
「三年も待てば、いなくなるんじゃないですか」
「そんなに!そんなには待てんよ、わし」
「ところで、なかなか着きませんね」
 二人はえんえんと歩いている。道は暗くなり、霧が出てきた。酒とあまいものとつまみが二人の肩にずっしりと重い。坂道は終わらない。霧はますます濃くなる。両脇の家にはひとつも灯がともっていない。
「ここはどこじゃ」
「空き地のあったところです。でも、もう空き地はないみたい」
「そうなのか。わしが思い出せたらいいんじゃが」
「あそこはもともとなんだったんですか?」
「なんも、なんもないのじゃよ。空き地じゃったのを、親父が買い取ってそれをわしが継いだんじゃ。なんもないということはないと思うじゃろうが、あそこはほんとになんもなかったのじゃよ。すくなくともわしは、あそこに何かあるのを見たことがないんじゃ」
「そうですか」
 女は爺の手から静かに酒壜をとる。
「これは置いて行きましょう」
「いいのかね」
「わかりませんけどね」
 酒と甘いものとつまみが霧の中に置かれる。
「また、見ることもあるかもしれませんよ。何もないもの」
「うん、わしはもう疲れた」
 二人は、それぞれの家に帰る。どこかの草むらで、草のようなものが酒と甘いものとつまみを食んでいる。


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