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九官鳥

 その部屋に坂本は、布団と最低限の生活用品だけを持ち込んだ。
 会社から割り当てられたアパートには、ひと通りの家具や電化製品がそろっていた。最寄駅から歩いて十五分と少し遠いが、 六畳間に小さな台所、風呂とトイレは別々で日当たりも申し分なかった。
 南むきの窓を開け、ベランダに出ると古い家並みが見える。隅っこに、白いドーム形をした鳥かごが置いてあるのを見つけた。取手の部分がアンティーク風な作りで、止まり木と餌と水を入れる小さな容器がそなえつけてある。もちろん、鳥はいなかった。
 捨ててしまおうかと思ったが、坂本は何となくそれを部屋に入れると、風呂場できれいに洗った。タオルで水滴をふきとると、すっかりきれいになった。箪笥の上に鳥のいない鳥かごをのせる。
 坂本の母は極度の潔癖症で、家が汚れるのを嫌って犬猫はおろか金魚鉢すら置きたがらなかった。だから、一度も生きものを飼ったことがない。
 近くのコンビニに行って缶ビールとつまみを買うと、鳥かごを見ながらビールを飲み、新品のふとんを敷いて眠った。

 翌日、新しい仕事場に行ったが、とくにすることはなかった。初日なのでそんなものかもしれない。椅子に座って、窓の外を眺めたりうつらうつらしているうちに日が暮れた。帰り道、ペットショップを見つけてふらりと立ち寄ると、エプロンをつけた白髪の女がにこにこと笑いながら近づいてきた。
「鳥の餌はあるかな」
 そう尋ねると、これなんかよく売れますよと女は答えた。
「このあたりに鳥を診る獣医はいるかい」
「お向かいに、よい医者がいますよ。ほら、あすこの三階です」
 女は、向かいのビルを指さした。
「良心的な値段で診てくれますよ」
 女は坂本を見て、
「お客さんは、何を飼っているんです?」と聞いた。
 坂本は、
「九官鳥だよ」と答える。

 鳥かごにきれいな水を入れて、店で買ってきた餌を置く。もちろんそこに九官鳥はいない。坂本はただいま、と言う。それからできるだけ高い声でおかえり、と返事をする。
 翌日も、仕事はなかった。そのうえここには誰もいない。何か仕事はありませんか、と大きな声を出してみたが、誰も答えない。
 ポットからぬるい湯を注いで飲んだ。腹が減った坂本は仕事場を抜け出すと、近くの店で定食を食った。仕事場には戻らず、そのまま町をぶらぶらと歩いた。
 この町には、前に住んでいた場所よりもずっと樹があると坂本は思った。道にも公園にも人の家の庭先にも樹は植わっている。樹に鳥がいるのではないかと探し回ったが、いなかった。
 鳥はいないな。
 本当は、鳥は飛んでいたのだが、坂本の目にはそれが鳥に見えなかった。空を飛んでいく、小さくて黒い人間に見えていた。灰色のや焦げ茶色のや色の混じったのが空を飛び、ひっきりなしにしゃべりまわり、木や土をつついていた。
「何をしてるんですか」
 坂本は彼らに聞いた。すると「うるさい」「あっちに行け」と言われた。

 坂本は自分の鳥かごと話した。「おはよう」「ただいま」「元気かい」くらいだったのが、だんだんと話が長くなった。九官鳥にはどんなことでも話すことができる。
「俺は、人を殺したことがあるんだ」
 そんなことはしていないのにそう言ってやると、九官鳥はこわいと答えた。こわい、こわい、こわい。坂本は笑いながら嘘だよと言う。それでも、こわいこわいと言うから、しまいには腹が立ってきてかごに布をかけてしまった。もう今日は話をしないぞと坂本が布を睨みつけると、九官鳥がばさばさと飛びまわる音がした。布をはずしてやると、もう眠っている。
「さっきまで騒いでいたのに、いつ眠ったんだい」
 鳥が片目を開いた。
「こいつ」
 坂本は、笑うような泣くような声で言った。こいつ、こいつ、こいつ。鳥がぱちぱちと瞬きをしている。再び布をかけ、眠る。

 今日も何もないと思っていたのに、仕事があった。それも、とんでもなく忙しい。
 今まで地中に埋もれていた草が生えだしたように、片づけても片づけても湧いて出てくる。片っ端から仕事をする。右手も左手も左足も右足も使う。膝や股関節や大殿筋も使って、それだじゃ足りないから、腎臓や耳糞まで使ったが、仕事は終わらなかった。手を出す前よりも増えてしまい、順不同、支離滅裂になってしまった。そのうちに、仕事は腐り出した。
 坂本は、鳥のことを思っていた。こんな腐った仕事は捨てて、家に戻ろう。戻って鳥と話をしよう。
 自分の人生で、こんなに強い決意をもったことはなかったと坂本は思う。腹の底から湧き上がり、食道から喉に向かって逆流して口から噴出するような決意が坂本を攻撃してくる。自分の決意なのに、やっとの思いで家に帰った。
 けれども、鳥かごに九官鳥はいなかった。
 鳥がいなかったから、自分はあれほどの決意ができたのだと坂本は泣いた。
 空っぽの鳥かごをベランダに戻すと、坂本は家を出た。
 木々のまわりに鳥が飛んでいたが、坂本にはもうそれが鳥にも黒い人間にも見えなかった。そのままえんえんと彷徨い続け、もう二度と単身赴任の家に戻ることはなかった。そこにはもう、坂本もいなければ鳥もいない。
 六畳一間、風呂とトイレと小さなキッチン、日あたりは申し分がない。ベランダにはしゃれた鳥かごがある家。


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