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ガザの飢餓に心の揺れるラマダン

親戚がガザで餓死しそうになっていたら、ラマダンでも心は安まらない
ライラ・エルハダド
2024年3月11日
翻訳:Rico Ocampo

普通の時であれば、ラマダン直前の数日間は、高揚感に満ちあふれている。イスラム教徒は神聖な一か月のラマダンの間、明け方から夕暮れまで何も食べたり飲んだりせず、日の入りとともにイフタールと呼ばれる盛大な晩ご飯を食べる。そのための食べ物を瓶詰めにしたり、ラマダンに欠かせないナツメヤシ、ナッツ、あんずのジャムなどをかごに盛ってご近所へのプレゼントを準備したりするのだ。家もきれいに飾り付けて、イフタールの晩餐への招待状を友人や親戚に送る。

しかし今年は、私たちのようにガザに親族を持つパレスチナ人は、悲嘆にくれていて、到底そんなことをする気持ちになれない。もう今週にはラマダンが始まる。なのに、飾りは物置に眠ったままだし、食べ物かごのやり取りも見ていない。

イスラエルによるガザ戦争は、国際司法裁判所にもアメリカの連邦裁判所にもジェノサイドに相当しかねないと認定されたものである。私はこの戦争で叔母と3人のいとこ、そしてその家族を失なった。親戚全体で数えれば100人以上が殺されたことになる。ガザ全体なら、3万人以上のパレスチナ人が命を失なっている。ガザにいる同胞たちがいったいどのようにラマダンを迎えているのか、私には想像すらできない。国連によれば、ガザでは50万人以上の人が飢餓の「一歩手前」にいると言う。それでもイスラエルは援助物資を積んだトラックが入ることを頑なに阻んでいる。

13年前、ガザ料理のクックブックを書くための調査をしていたとき、私は現地でラマダンのようすをつぶさに観察することができた。停電で人々は暑さに喘いでいた。停電は、イスラエルがガザの発電所を破壊したことによるものだった。さらに軽油の入手も困難にされているため、自家用発電機の使用もままならなかった。

それでも、空気は高揚感に満ちあふれていた。もうすぐ日没というころになると「カダイフ」売りがやって来る。カダイフはラマダンの伝統的な食べ物で、ナッツやクリームやチーズをクレープで包んだものを火の上であぶって売ってくれる。子どもたちはファワニーと呼ばれる灯籠に火を点し、暗くなった空を照らす。人々はこの神聖な月に欠かせない夕方のタラウィー礼拝のためにモスクに向かった。これらの何もかもが、今年はない。

今年のラマダンに、私の心は、一方に深い喪失感と悲しみ、もう一方に今すぐにでも何かをしなければならないという危機感と義務感、その二つの間で激しく揺れ動いている。知っている人たちを助けるためには、人々の力を結集し、声を上げなければならないと思う一方で、もう心が砕かれ、うつろになってしまっていると感じることもある。私たちが全力で奮闘しても虐殺を止められそうもないという残酷な現実に直面しているからだ。もう泣く力しか残っていない。

親戚たちからSNSでメッセージが来た。もう帰るところがない、祈りに行くモスクもない、電気もない、調理する燃料もないという。手に入る食料は、ものすごく少なく、それも信じられないほど高いお金を払わなければ買うことができない。土で窯を、ブリキでオーブンを作り、薪や炭を使って調理している。

私の親戚11人は、北部にあるガザ市の自宅から逃れて、現在ラファにいる。心臓病の持病を持つ叔父もいっしょだ。彼らにはもうどこにも逃げ隠れするところがない。イスラエル軍のラファ侵攻が今にも始まるのではないかと思われるからだ。

ガザ市に残っている親戚もたくさんいるが、南部にいる人たちとは自由に行き来もできない。ガザに入ってくるほんのわずかな人道支援物資も彼らのところまで‘は届かない。彼らは飢え死に寸前だ。かろうじて彼らがまだ生きているかどうかだけが、ときどき届くボイスメモでわかるような状態だ。いとこの一人は最近、もう何か月もパンも果物も野菜も肉も口にしていないと伝えてきた。缶詰だけで生き延びているそうだ。その缶詰だって、簡単に手に入れることができるわけではない。

そんな状況でも、いとこたちは、今の彼らにできるかぎりの形でラマダンを祝うつもりだと言っている。手に入るものを工夫して使って、なんとかイフタールには伝統的なパレスチナ料理を用意したい。タンパク質はいささか足りないことになるが、粉末チキンブイヨンを使ってシチュー。採ってきた山菜と、運がよければ缶詰の肉やツナ。パン作りには、小麦粉の代わりに家畜の飼料。親戚たちにとっては、ラマダンとその料理は、彼らの人間性を否定しようとする戦争に対する抵抗と「不屈の精神《サムード》」の行為でもあるのだ。

かたや、米国のメリーランドにいる私は、イフタールの食卓を囲んで子どもたちに今起きていることをどのように話せばいいのかと悩んでいる。故郷の状況を考えると、ラマダンにどんな意味を見いだせるだろうか。むずかしい話題だが、話さなければならないことだ。こうやって私たちが感じる生きづらさや苦悩が、いつか、心や精神の成長につながっていくことを祈るばかりである。

私は、バイデン政権が頑なにイスラエルによる空爆を外交、財政、軍事の各面で支え続けていることに苛立ちを感じる。イスラエルの攻撃によって、ガザは農地、各種施設、そして食料供給体制などがことごとく組織的に破壊されてしまった。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、イスラエル政府が飢餓を「兵器」として利用していると述べている。米国は、イスラエルに陸路の開通を迫るのではなく、食料援助を空から投下するだの、援助物資搬入のために仮設の埠頭を作る計画を立てるだの、嘆かわしいほど不十分で、イスラエルに爆弾や武器を提供し続けるためのアリバイ作りの広報活動としか思えないことをやっている。

ラマダンの間、断食中の人や飢えた人々に食事を与えることがよしとされている。米国に住む私には、ガザで近所の炊き出しを始めた友人にお金を送ることぐらいしかできない。炊き出しでは、野生のハーブの「ホビザ」(日本語ではゼニアオイ)を使った簡単なベジタリアン・シチューを振る舞っているのだそうだ。

コーランでは、忍耐強さは美《ジャミール》であると説かれている。我慢し、忍耐し、祈ることしか今の私たちには残されていない。でも、忍耐強いからといって苦難が楽になるわけでもない。

この恐ろしい戦争によって、私たちはラマダンが何のために作られたのかという本質と向き合うことになったと言うこともできるかもしれない。それは、自分の満足を追い求めるのではなく、自分を浄化して世俗的な欲望から解き放たれること、そして自分の周りにある不正義を変革していくことに意識を向けることなのである。


ライラ・エルハダド。米国メリーランド州クラークスビル在住。「ガザのキッチン:パレスチナの料理旅行(The Gaza Kitchen: A Palestinian Culinary Journey)」の著者。インスタグラム:@gazamom

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