エホバの証人としての活動 vs 世の仕事-大学と罪悪感
エホバの証人(以降JW)として生きるのであれば、エホバのために生きる事が優先です。
そのため、宣教活動や建設の業など、JWのために時間を割かなければなりません。
集会は絶対に休まず、奉仕は週一はほぼ絶対といった感じです。
高校を卒業したばかりの頃の私は、まだ盲目的な熱心さを持っていました。そのため、JWとしての活動を行う事に喜びを感じていました。
しかし、JWとして年数が経つにつれ、私の中で「最初に抱いた愛」は薄れてしまったのでしょうか?
どうしても、仕事の方に多くの時間を割きたい、自分の仕事ともっと向き合いたい、もっと技術や知識を蓄え、熟練させたいと言う気持ちが強くなっていきました。
幾人かのJWの経済的な問題を目にしたり、自分自身の体調が何だか悪いなぁと言う日が増えてきて、こんな状態で40,50代を迎えた時に自分はどうなるんだろうと言う、なんとも言えぬ不安に襲われました。そんな不安を払拭する方法の一つとして、やはり仕事の方向性を少し変えるしか無いと思いました。
そんなこんなで、20代になった頃に、大学に入りました。
かなり葛藤しました。葛藤したから、20代になっていました。
もっと早く決定できてればと悔やむ気持ちもありましたが、それでも、大学に行きたいと言う気持ちを自分の中で押しつぶして無視することはしなかった事に、後悔はありません。
結局、行って良かったと思います。
しかし、大学に入る前から、卒業したしばらく後までも、聖句やJWで言われている事が、心に引っかかるものです。
「風を追っているのでは無いか?」伝道の書4:6
「世を愛しているのでは?世は過ぎ去るのだよ?」ヨハネ第一2:15-17
「エホバが養ってくれると言う事を疑っているのでは無いか?」マタイ6:31,32
「エホバより、お金を追っているのか?」テモテ第一6:10
「地上に宝を蓄えようとしているのか?蓄えてどうなる?」マタイ6:20
色んな聖句や言葉が頭の中を駆け巡っていきます。
こんな感じで頭の中は忙しく、自分の選択を責める時がありました。
大学を出た後も、例え学位の恩恵を受けたとしても、聖書やJWの言葉によって心に湧いてくる罪悪感を消し、また湧いてきた罪悪感を消しと言う、なんとも心が消耗する様な、心理的作業を何度も繰り返していました。
罪悪感と言うものは、何とも心を消耗させるものです。
大学に行くことは「罪」ではありません。
あくまで、日々の糧を得る方法を学ぶ場の一つです。ただシステム上、平均的に4年と言う長い時間学ばなければならない学部が多い事、必ずしもすべての時代において需要がある学問かどうか、必要な収入が得られるかどうかは、時代、住んでいる場所、諸々の要素により変わる事はあります。そして、この長い期間に交わる人々にどう影響を受け、どういう関係性を築いていくかは、その人によります。
しかし、JWでは、大学に行くことをまるで「罪」かのように教える事があります。
JWにとっては、若くてエネルギーのある時期をエホバの、もといJWのために使って欲しいものですから。
大学は「悪」と言う刷り込みは厄介なものです。とはいえ、大学だけでなく、何らかの専門学校に通う事、高校に通う事さえ、「悪」の様に言うJWもいます。
この「世での教育は悪」の教えの影響によって、大学に行った側は、多少なりとも罪悪感を持つことになり、行かなかった側は、それを蔑むか羨むか、それとも何とも思わないかは、人それぞれとなってきますが、少なくともJWの様な教えに浸っている状態では、プラスの感情が働くものとはならないです。
JWのこのゆとりの無い思想、息苦しかったです。
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