自分の意志を殺して生きる。生きづらいJWの他人軸人生。

エホバの証人やってて、生きづらいと思ってました。

JWとしての生活って、普通の生活とは違うから当然生きづらくはなるんです。信仰による出来ない事柄、集会、奉仕・・・色んな事が日常生活を送りづらくさせます。

そんな中、生きづらさの原因となる要因の一つとして挙げられるのが、

「自分の意志を押し殺して生きる」

が、あるんですよ。

「エホバの意志に沿って生きる」

これが、自分の中の中心とならなければならないんです。

そうすると、何かにつけて、「エホバはどう思うだろうか?」「イエスならどうしただろうか?」「この決定をすることによって、JWの仲間にどんな影響を与えるだろうか?」なんて、自分の気持ちの部分を無視して考えなければならない事が多いです。

これって、かなり「他人軸」で物事を考えるようにされてる気がします。

自分の心や自分の考え、「自分はどうしたいか?」では、物事を考えられない、これってかなりキツイです。

私にとっては、キツカッタです。

「エホバは・・・」「仲間は・・・」なんて考えた上で、物事を決定した時はモヤモヤ感が生じて、「あーしたかった、こうしておけば」なんて思考がグルグルして、心が気持ち悪かったです。

自分の心に背いた決定をした時は、湿気って気圧が低くてのどんよりした曇り日の体がだるーくなる様な感覚であるのにたいして、

自分の心の思うがままに、何かを決定した時の爽快感と言ったら、まるで太陽の光が出てカラッと晴れ、さわやかな風が吹き抜けた時の様な爽快感でした。

自分がイキイキしてました。

自分の心の思うように、要は「自分軸」で物事を決定した時と、「他人軸」で決定した時の、自分の心の有り様の違いを感じると、疑問に思ってしまいます。

「本当にJWでいていいのか?」

「エホバが~」「JWが~」「統治体が~」なんて言いながら、自分で何も決定できないJWのままでいる事、自分の意志が無いまま生きているのは嫌だー!と、思い今に至ります。

エホバが、JWが、統治体が、その人の意志そのものであると言うなら、それでいいんでしょうが、はたして人間心理は、そうあることができるのかは疑問です。

少なくとも、JWとして生きていて病んでる兄弟姉妹が多くおられる事を見ると、どうも、自分の心に蓋をして生きてると言うのは、かなり心を病ませる要因になっている様に私には見えます。

もっとも、自分の心に蓋して生きるなんて、宗教のみならず、色んな状況で生じている事ではありますね。

自分の心の蓋が宗教であるならば、その蓋は、いっぺん取っちゃってみるのも有りかもしれませんね。

個人的には、その蓋はいらない蓋でした。

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