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大きな流れの終着点で通過点

私の周りでは、「世代」や「時代」の違いによる衝突やすれ違いがよく発生する。

「現代は昔とは違うから。」と言う学生〜若者と区分される人達のもつ考えはなにか。それは、(意識的なのか無意識なのか分からないが)年上世代を『遅れた存在・時代についていけない存在』とみなしていることなのではないかと考えるに至った。

私自身も未だ学生であり、祖父母と同居する身として自然とそう考えてしまっていた部分がある。PCやスマホが使えず、「やって〜」「教えて〜」と頼ってくる姿に「どうして簡単なことができないのだろうか。時代の流れからおいていかれているなぁ」という感覚はあった。もっと顕著な例を挙げるならば、多様性や国際化に対する感覚の違いに「なんでそんな酷いことがいえるのだろうか。時代錯誤ではないか。」と感じてしまうことも多々あった。

今日、あることがあった。
最近パソコンを習い始めた祖母が私に操作を聞いてきた。私からしたら正直、小学生でもできるような初歩的なことだった。
しかし、これは私に考える機会を与えてくれた。

祖母の姿が若い世代、「現代」に歩み寄っているように見えた。

自分の過去を考えてみた。
「生きる時代が違うんだ。」
「時代の流れに考え方を委ねて適応していけない年上世代に合わせるなんて馬鹿馬鹿しい。」
と諦めて、距離を置く事はどう考えても正しくない。しかしなにか考える時間をかけることすらしてこなかった事実を自覚したのだった。

違和感を感じた。

どう考えても、人間として正しい姿は祖母だった。というか、自分が恥ずかしくて情けなくて仕方がなくなった。

私は、人間の流れの結果生きている。
まだ子供もいないし、社会に何も残していないことを考えると、現時点では終着点なのだ。
だが、社会に出て何らかの形で後世ヘ継承するものができた時、大きな流れの通過点になるだろう。

そのような存在に大切なことは何なのだろうか。
「新しいものを生み出す」ことだろうか。
「流行に乗ること」だろうか。
「今必要とされる技術や教養を身につける」ことだろうか。
ーきっとどれも正しい。
 でも、不十分なんだと思う。

大切なのは、必要なのは、過去から学ぶことなのではないだろうか。
自分から近かれ遠かれ先人といわれる人々は無数にいる。彼らは、私なんかよりよっぽど経験と知識を持っている。それを学ぼうと、教えていただこうという姿勢をもたないなんてなんて失礼で損なことだろう。

人類は進化しているかもしれない。
新たな発見が社会の向上に貢献するのは確かだろうが、その根本には過去からの学びがなくてはいけないだろう。

自己流を否定する訳では無いが、思いついてやることなんてきっとこれまで先人の何人もがやってきたことなのだろう。
結果を知っている人はたくさんいるんだ。
それを学んで、その上に新たな挑戦を見つけたほうがはるかに効率もよく人類に貢献できる。

現代の風潮に乗っていることだけが偉いことではない。
現代の技術を使えることだけがすごいことではない。
自分の小ささ、学び途中という立場を重重自覚し、先人たちに謙虚に真摯に向き合いたい。


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