10.父の宇都宮の家

 私の父は、カメラマンだった。
私が生まれる前は、写真館を経営していた。
それよりもっともっと前は、父は戦争に出征していたことがある。
戦闘機に乗って写真をたくさん撮ったが、無くなってしまった話や、左大腿の大きな傷跡を私に見せながら、
「これは敵の槍にやられたんだ。
怪我をしたから野戦病院に運ばれたんだよ。
怪我をしてなかったら日本に帰ることもできずに死んでたかもしれない。」
と話してくれた。

父の実弟は、ラバウルで戦死したと、よく話していたことを思い出す。

写真館を辞めてからも写真の仕事はしていた。
当時は鹿島建設にいて、ビルの着工時から完成するまでの写真を見せてもらったことがある。

私が小学3年生くらいだったか、父が
「新宿の住友ビル、あれはパパ達が建てたんだよ。
新宿で一番大きなビルだ。」
と自慢げに話していた。

「ビルが完成して、みんなプールで泳いだんだ。
パパも泳ぎたかったなぁ。それが心残りだよ。」
と笑っていた。

父は、私の通う幼稚園や小学校でもたくさんの写真を撮って売る、という仕事もしていた。

田無の家は、一部屋を現像専用の部屋にしていて、よく部屋にこもっていた。
私はその薄暗い部屋の中で、液体に浸かった真っ白い紙に風景や人物が浮き上がって、徐々に鮮明になってくる様子が、たまらなく好きだった。
でも、現像中は光が入ってはいけないため、滅多に入れてもらえない。

あの独特の雰囲気、現像液の酸っぱい匂い、全てが懐かしく思い出される。

父は私の写真もたくさん撮ってくれた。
玄関には、私の引き伸ばされた写真が、いつも何枚か飾られていた。

御嶽山や日原の鍾乳洞、西武園、多摩動物園…よく二人で出かけていた。
鍾乳洞から出た後は、川で遊んで、持ってきたおにぎりを二人で食べてから帰る。
帰るのが寂しいと思いながら駅までバスに乗って、西武線の電車で田無の駅まで。

 いつの日からか…気づいたら父は家にいなくなってた。
単身赴任で年に一度くらいしか帰ってこない。
そんなこと、私は何も聞かされていなかったから…年に数回帰ってきていたのが、そのうち年に一度、お正月だけしか会えなくなった。

父に会いたくなって、夏休みに父の居る宇都宮に遊びに行ったことがあった。
宇都宮なんて、外国じゃあるまいし、帰ってこようと思ったら、いつでも帰れる距離。

父が帰ってこなくなったその理由は、大人になってから知った。
父と母は、私のために離婚をせず、父の単身赴任という形で、別居していたのだ。
単身赴任をした頃、鹿島建設を辞めて別の会社に移ったと聞いた気がする。
そこまでして二人に何があったのだろう。

父の居る宇都宮の家は一軒家、周りは見渡す限り田んぼと畑。
「今パパは美術館を建てているんだよ」
と、父が教えてくれた。

建設がほぼ終わり、あとは美術品を展示してオープンを待つだけ。
特別に中に入れてくれた…けど、当時の記憶は、土器とか置いてあったような…何があったかの記憶はほぼ無い。

「ここは雷で有名なんだよ。」
と、父が教えてくれた。
泊まりに行った日、

大きな音を立てて雷が鳴り響き、あたり一面昼間のような明るさになる。
何度も何度も繰り返される光に、今まで怖いと隠れていた私が、花火でも見るかのように、いつまでも空を眺めていた。
あの綺麗な光は、父との思い出の1ページでもあり、忘れられない。

父は、勤め先にも私を連れていき、嬉しそうに私を紹介してくれた。
みんな私を可愛がってくれた。

父は、優しい人、友達が多い、社交的、気前がいい、自分の技術を余す所なく人に伝える……などなど……というイメージ。
もし私の旦那さまが父のような人だったら〜……
こういう人、私は好きだなぁ。
いいと思うんだけどなぁ…
何が母には気に入らなかったんだろう。


…続く……⚡️


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