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一樹の蔭〜放免の平安事件簿〜

序章

「ほら、歩け」

 踏み込んだ屋敷を物色する同僚達を放って、捕縛した人々を引っ立てていく。

 ここの主人は都の市場を荒らすようなあくどい商売をしていたんだったか。しかし、連座で罰を受ける女子供や使用人達の気の毒なことよ。
次々と牢に押し込み、最後に残ったのは十五を過ぎたあたりの少年だった。おそらく、一族の若君だろう。
彼は大人しく格子の向こうに入って座り込む。今日の勤めもこれで終わりだ。鬱々とした気分を追い払うように扉を閉めて錠前を下ろす。
が、立ち去ろうとした時に牢の中の少年がのろのろと顔を上げた。一瞬、視線が交錯する。
暗い、生気のない、呆然とした瞳。恐怖どころか絶望さえ見て取れない、深淵の闇ヘぽっかりと穴を開けた虚ろ。
ぞっと、背筋に寒気が這い上がる。胸の奥がぎゅっと握りしめられたかのように苦しい。間違いなく、かつて、彼くらいの歳だった頃の私も、同じような目をしていただろう。過去の屈辱が蘇り、正気を失いかけるのを、何とか踏みとどまった。

 彼らのこれからを思うと心が痛むが、これが私の仕事なんだから仕方がない。
どうせ、私に選択権などない。今までも、これからも。


 獄舎を出て、空を見上げる。澄み切った、優しい青。
空は、どんな境遇の人にも公平に美しい。
どんなに汚れきっていても、どんなに誇りを傷つけられても。美しい空を見ることだけは、ほぼ全ての人が、富も権力もほしいままにしている貴族と同じように許されている。「……ふう」
 夢を見続けるのはやめよう。私は全て失った。
あの方々も、小さくて平凡な幸せすらも。

 もう二度と、戻ることは無いのだから。


第一章 藤の下で


 右京のとある小路を、貴族の少年が一人、歩いていた。
纏っている衣は趣味が良く、所作の端々から気品のにじみ出ている様子は、明らかに名家の貴公子という風情だ。
そんな彼が伴も付けずにこのような寂れた一角にいるのは大変奇妙だが、彼・雅近(まさちか)がこうして一人で出歩くのはいつものことだった。

 そもそも、直系とはいえ末息子である彼は、自分の屋敷を持っていながら側近という存在は持っていない。屋敷の管理や身の回りの世話をする使用人はいるが、外出にまで付き添ってくれるような者はいなかった。
跡継ぎではないので、親には昔からあまり気にかけて貰えない。しかし、その分自由に行動できるので、それを利用して誰の目もない所を一人そぞろ歩きするのが彼の楽しみだった。


「おや」
 ふと、通り掛かった荒屋の門前で立ち止まる。
そこの庭は草がぼうぼうに生い茂って酷い有様だったが、そんな中に立派な藤があった。ちょうど満開で、薄紫の無数の花房が、巻き付いている枯木を絢爛に飾り立てている。
心惹かれてその下に歩み寄ろうとするが、途中で他人の住処かもしれないと我に返った。

「もし。誰か居られますか?」
 一応、声を投げかけて少し待ってみる。まあ、建物と庭共に見る影もない荒れようで、このような場所に住まう者がいるとは考え難かったのだが。
案の定、応えはなかった。

 今度こそ、庭に踏み込む。背の高い雑草が纏わりついて装束に葉や種を付けるが意に介さず、藤のすぐ下にたどり着いた。
間近で見てもやはり美しい。遠目に見た際のけぶるような儚げな風情も良かったが、近づいて見ると紫色の濃淡や花弁に浮き出た紋様までもがはっきりとわかり、気高さや品の良さが感じられる。思わず、手近な花房に指先で触れようとした、その時。


「おい。何してやがる」
 不意に、粗野な声が耳を打った。弾かれるように振り返ると、無骨な男が近づいてくる。その身なりは、みすぼらしいというよりも荒々しいという言葉が似合いそうであった。見るからに真っ当な者ではなさそうだ。「はて、もしや、ここはあなたの住まいだったのか。勝手に入ってすまない。歩いていたら、たいそう雅やかな藤を見つけたものでね」
 雅近の飄々とした物言いが気に障ったらしい。
「ふっざけんなよ……!」
 男は身を低くし、いきなり飛びかかってくる。これには、流石の雅近もぎょっとした。慌てて辺りに目を走らせるが、当然ながら人影はない。

 男の汚い手に引き倒され、尻餅をついた。真正面に立った男が手を振り上げる。覚悟して、身をすくませながら目を瞑る。

が、いつまで経っても衝撃が来ない。代わりに聞こえたのは、ドサッと何かが地に倒れる音だった。

「……?」
 恐る恐る目を開けると、雅近と男の間に誰かが立ちはだかっていた。男はその者にやられたらしく、昏倒している。

 しかし、雅近はほっとする前に恐れおののいた。助けに入ってくれたと思しきその者はまだ青年と言える年頃の若者だったが、格好が明らかに放免のそれだったからである。


 放免とは検非違使庁の下っ端で「毒を以て毒を制す」の考えの下、前科のある元罪人を汚れ仕事や犯罪者の捕縛にあたらせるもの。その性質上、盗賊並みに乱暴な者や手癖の悪い者がほとんどである。


 放免に関わるのはまずい。恩着せがましく金品をせしめてくるか、妙な言い掛かりをつけてくるか。いずれにせよ、碌なことになるまい。
助けて貰った礼を言いたいが、そんなことより身の安全が大事だ。礼なら後で検非違使庁を通して伝えれば良かろう。
とにかく、一刻も早くここから去らなければ。
雅近はそう決心したのだが。予想に反して青年が
「お怪我はありませんか?」
 と、丁寧な物腰で手を差し出してきたことで、それを行動に移すことはできなかった。青年の手は痩せこけていたが、意外にも強い力で雅近を引き上げてくれる。
立ち上がった雅近は、正面の青年をまじまじと眺めた。

 漆黒の髪や瞳はたいそう美しく、やや子供っぽくはあるが顔立ちもそこそこ整っている。ただ、肌は白いというより青白くかさかさしていて、髪は酷いくせっ毛だ。
前髪に埋もれそうな目はとろんとしていて一見ふわふわした雰囲気だが、瞳にはやるせなさとともに何かを拒む色が宿っている。
感情の一部が欠落したようにぼんやりとした、人形のような青年だった。

 青年は雅近の前で跪く。
「申し遅れました。私は検非違使庁の放免、誠(まこと)でございます」
「本当に君は『放免』なのかい?」
「ええ」
「そっか……とにかく、ありがとう。助かったよ」
「もったいないお言葉です。では、私はこれにて失礼いたします」


去っていく誠の背中を眺めながら、変わった者もいるものだな、と雅近は独り言ちる。
他人に興味を持つなどいつ振りだろう。愉快な心地に浸りつつ。
また会いたいものだな。そう、本気で思った。