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みっともない姿でも

今日は検査で通院。

病院の待合にいると、この人もう長くないかもしれないな、と思わせる患者の姿を目にすることもある。その同じ場に患者の一人として放り込まれている状況に、なんで私ここにいなくちゃいけないんだろう、と心がざらっとヒリつく時がある。私もがんだから、病院に来る必然性は十分あるのだけど。

各科の受付は患者の取り違え防止のため毎回、名前と生年月日を聞く。他の患者の生年月日を耳にして「ああこの人はもう80年以上は生きているんだ」、「私はその年まで生きているかな」とか考える。

noteで、がんで闘病中の作家さんでウルトラマラソン(フルマラソン以上の距離を走るマラソン)を目指す方がおられると知った。すごく勇気をもらって、私もまた始めようと思い、早朝に5〜10キロほど走るようになった。周りから「がんなのに頑張るね」と言われることも多い。

走ることや山に行くこと、旅行に行くこと。それぞれ楽しいからやっているのだし、だから続いているのだが、(私の場合は)一方で死からの逃避行動でもあるように思う。走って、登山して肉体を追い込んでみたり、旅行先の目新しい景色に没入したり。
要するに死を考える暇を自分に与えないようにしている。油断すると死にフォーカスを当ててしまうから。

キューブラー・ロスの死にゆく人の心理過程は5段階(否認→怒り→取り引き→抑うつ→受容)あるが、私はどの段階にいるのだろう。…受容でないことは確かだ。

いやちょっと待て。私、死ぬ前提モードになってた。誰しもいつかは必ず死ぬ。だが私の死ぬタイミングは今じゃない。生きるためにあがく‼️
がんがわかってから、ずっと鬼ごっこをしているみたいだ。死という鬼に捕まらないように逃げ続けるイメージ。
逃げ続けるために必要なチカラをくれる人が私には沢山いたんだった。家族や、友達や、志を共にする同志や、医療スタッフの皆さんや…。

あがいて逃げきってやろうじゃねーか‼️
たとえその姿が、汗だくで髪を振り乱して見苦しい姿だったとしても。

今日は、弱っている患者を不意に目の当たりにして「数年後私はこの人と同じようになっているのかな」と他人と自己の境界がわからなくなりかけた。
しかし、私は生きる。やりたいことが山ほどあるんだから。


ここまで書いて気持ちが整理できた。書くことは生きるための大事な作業のひとつだなぁ。

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