自分にあいまいさを残すこと

「私はこういう人間です」って説明したくなるし、説明できたらきっと安心する。

自己紹介の時間は頭がフル回転しているか、真っ白になっている。
自分というものをどう伝えるのか、私はずっと決めかねたままなのだ。


自分がどういう人間かを説明できないと言いつつも、「私ってこういうとこあるよなぁ……」と悩むことはよくある。(悩みの種になってしまうことなので、他者にはあまり言いたくはないことなのかもしれないが。)

誰かの話を聞いている時、誰かと話をしている時、私は、「この人の話し方が好き」「この人の声が苦手」とか、瞬間的なフィルターで相手を判断してしまう。

「私は好き嫌いがはっきりしている人です」とも言えるのだろうけど、瞬間的なフィルターをかけてしまう自分が好きじゃないなとも感じる。

フィルターというほどでもなく、単純な「反応」なのかもしれないなぁとか、「苦手」を先に感じやすい自分なんだとか、ちょっとずらして考えてみようとするんだけど、いまいちしっくりこない。

ここ数日、この瞬間的に反応する自分をもう少し捉えたいなって思っている。


私は、他者のことを知りたい関わりたいと思いながら、自分の価値観、フィルターですぐに相手を見てしまう。好きか嫌いをすぐに決めようとする。

それは、他者を理解するあり方としては不十分なのかもしれない。

そんなことを考えるきっかけの一つが、コテンラジオの番外編#19

②人は本当の意味で他人のことを理解できない。しかし自分のフィルターを捨てて他人を理解しようと努力する心のあり方にはとても価値がある。

他者を理解することは、できない。
と、たくさんの人物で構成されている歴史から学びまくっている二人がいう。

しかし、「理解しようとするあり方、わかろうとすることが大事」であること、他者を理解するためには、「興味がない」というフィルターをかけない、自分のこだわりを一度捨てて、他者をみようとする姿勢が大切である、ともいう。

「こだわりがあるから形成されている今の自分」から、自分を形成している「こだわり」を外すことはものすごく難しい。それでも、他者を理解するためには、それも必要なのだと。

そして、自分という立場からみる相手と、相手から見る相手は当たり前だけど、全然ちがう。それを理解することには、忍耐が必要であるとも。


ふと思う。

「私はどうして他者を理解したいのだろう?」

純粋な興味や好奇心、「仲良くなりたいな」って思ってなのか。
相手のことを知っていれば、自分を守れると思ってなのか。

後者の方が強いことが多いかもしれない。
「知る安心」には、自分で作った壁があるのだ。


他者のことを知りたい、理解知りたい、深く話したいと思う時々で、
その背景にある動機が違えば、他者を見る視点も、フィルター有無も違ってくるのではないだろうか……。

おおざっぱに括って「私は人の話を聞くときにすぐに好き嫌いを判断してしまう」というのも、そういうこともあるし、そうじゃないこともある……。


自分がこういう人間だっていうことに決めつけないで、自分自身にも「あいまいさ」を残しておくことも大事なのかなぁってことを考えた。

好き嫌いがはっきりしていても、好きとか嫌いを判断する基準があいまいだと、「これも私で、こっちも私」になる。
結果、私を説明するときにはどうしたらいいのだろか。


こういうことを考えながら、「こうでなければならない」「これのほうが正しい」「あの人の方が…」という思考も、ずっと回っている。

今日もまだ、答えはみえないまま。


ありがとうございます。ロックンロールと生クリームとマンガと物語に使いながら、自分の中のことばを探っていきまます。