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高知 旧知との交遊、藩重役からの詰問

四月十四日 高知市内の「南北の奉公人町を過ぎて浴場」後に出勤、御目付方の下横目から帰国の届けが役場に出ていないと指摘され書面を作成しました――私儀、三月三十一日に長崎を発ち、四月五日に用居(の関所)から国に入り、同七日高知に帰着しました、と。これを御目付所と後勘定所に出し、「それで事がすんだので帰った」帰途、訪ねた先で「盃を傾け」、帰寓後には来客と夜遅くまで飲酒。夕方、「母君」が帰路につき市内の親戚宅に行きました。

 岩崎弥太郎は書面を提出した際、「長崎御用方足軽類弥太郎申す」と署名しています。足軽は郷士(下士)中の下位の身分です。岩崎家の家格は郷士よりさらに下の地下浪人でしたが、弥太郎は長崎出張に際し仮に郷士の身分を与えられていました。

十五日 「午前、崎陽蕩遊録を検し、かつ認めた」その後、親戚宅を訪ねて「母君は今朝帰郷」と聞きます。訪問先で夕方まで「置酒」の後、(勘定小頭の)村山又七を訪ねて、近日中に帰省したいと告げると、なお(役所での)詮議があるとの答えでした。

十六日 午前、崎陽蕩遊録と長崎への書状を認めました。その後知り合いや小野叔父宅などを訪ねたところ、川谷純正からの招きを受け、赴くと又七や吉村三太などもいて夜遅くまで談話しました。帰って寝ると「夜中、雨音がさびしかった」

十七日 雨。終日不出戸。緑幽亭(吉村家の離れか?)で起居。午後(義兄の)喜久次と対酌、酔い潰れて臥せた。夜中に夢から醒める。長崎での痴情が(夢の中を)なお懐かしく行き交っていた。笑うべし。(この日の日記全文)

十八日 「晴。午前、子供たちと小魚を網ですくった」午後、惣代方に行くと、支配頭より帰省の可不可を問うため、明日来るようにとのこと。前川恭兵衛を訪ね、下許武兵衛からの書状を渡しました。

 その後、土佐藩参政吉田東洋に拝謁、長崎での勤めのことで面と向かって問い詰められました――書面で申し出ることをせず、にわかに高知に帰着したことはお上の意向を甚だしく軽蔑するものだ、と。「詰なじり戒めつつも(参政の)情意は懇ねんごろで厚く、覚えず涙を流し泣いた。長い時間を過ごし辞去した」夕方に寓居に帰り、訪れていた客と深夜まで「置酒」。「夜中、月の色が清く輝いていた」

 吉田東洋(1816~1862年)は君主側近から失脚した不遇時代に学塾少林塾を開き、弥太郎はそこで非常に優秀と認められたことから、東洋復権後に抜擢され長崎に派遣されたのでした。藩の筆頭家臣である東洋が、本来は足軽でさえない弥太郎に直接会ったのは学塾時代の関係があったからこそであり、通常は起こり得ない出来事だったはずです。東洋が弥太郎の才と人物をいかに見込んでいたか分かります。

十九日 雨。午前、惣代方に行くと出直せとのこと。帰途、知り合いと出会って、共に池内蔵太宅に行き談話。帰宅後、読書中に眠ってしまいました。そこに吉村三太から、大袈裟に丁重な文面の手紙で招待を受け、雨を衝いて出かけました。たくさんの友人知人と「且つ吟じ且つ飲む」深夜まで楽しんで帰りました。

二十日 雨。不出戸。読書。吉田参政に上げる書を書こうとしたものの、ならず。知人と小酌。池内蔵太らも来て団欒、微酔。来客は午後七時過ぎに帰りました。

二十一日 午前中に浴場、結髪。午後惣代方に行くと、支配頭より勝手に帰郷して良いとの申しつけ。戻って義兄と対酌。夜早い時間に寝ました。翌日、弥太郎は高知を発ちます。

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