見出し画像

遊郭で口止めをしつつ宴会

三月四日 朝飯後、林雲逵うんき宅に下許武兵衛と共に行き、清の酒や豚や鶏肉の料理を「飲食しつつ、談話した」「余は清語に通じないので、筆を以て舌に代えた」再来を約して立ち去った後、(今井純正を擁護する二宮塾生)千頭寿珍の所に立ち寄り、昨日の今井捕縛の件でどんな証言をしたのか聞きました。帰り道、弥太郎と下許はこんな話をします。前日記した下横目の追及が自分たちに及ぶことを心配しているのです。

花街で遊蕩した罪はあるけれど、これまで君主の命を奉じて行って来た長崎での事業には少しも(差し障りが)なく、(禁酒の誓いなど)志を改めているのだから、今さら価値(甲斐)のない者(今井や千頭?)の舌頭にかかって(真実のない証言をされて)志を果たせないのは心外だ。

 弥太郎は下許と相談の上で丸山の浪華楼に行き、周旋役の「老婢」に、自分たちの遊蕩の件で聴取されても口外しないようにと申し入れました。そんな話をしつつ、そばには歌妓数名がいたのですが、口止めの一件で「格別その気にもならず」日没後、辞去します。

 と言いつつ、花月楼へ。(暗い)裏門から中に入ると「灯光満室、歌吹如海(部屋はどこも(客がいて)灯火で明るく、楼内は歌や笛の響きで海のように満たされていた)」馴染みの老婦に浪華楼と同じく口止めをした後、当然のように酒席になります。

 歌妓は出払っていて「男げいしゃ(太鼓持ち)の永なる者が三弦を携えて来て酒席を盛り上げた」客待ち中の歌妓の飛び入りもあり、弥太郎はすっかり酔いました。帰寓後、下許と慷慨こうがい談」をしてから寝ました。

 この夜の二人の「慷慨」は、「社会の不義や不正を憤って」(広辞苑)というより、「世の中のことや自己の運命を憤り嘆く」(精選日本国語大辞典)ニュアンスが強いと思われます。故郷を遠く離れた花街丸山での遊興が、藩から派遣された下横目によって邪魔されそうだと不運を嘆いたと考えるのは合理的です。

 しかし、遊郭での遊興は、藩に知られれば咎められる可能性があるわけですが、弥太郎と下許はこれは長崎における必要悪だと考えていた節があります。遊興ができなくなるのは、自分たちにとってだけでなく、交易や外国事情調査という藩命の遂行においても損失になると「憤り嘆いた」のかもしれません。せっかく私たちは公私ともにうまみのある活動をしていたのに、と。

 1月13日の日記に、下許が君主や藩から下される「御用状」(内容は不明)を持って浪華(楼)に行ったと記されています。妓楼に公文書を持って行くのは変に見えますが、長崎丸山では、古くから九州雄藩の「聞役ききやく」(長崎での情報収集に派遣された役人)たちが妓楼において交際し、情報交換をしていました。こうした筋との関係を持つには遊郭に出向かなくてはならず、妓楼に上がるからには「遊ぶ必要」もあったというわけです。

 上記は、長崎丸山遊郭の実に興味深い側面であり、弥太郎の行動と精神を理解する上でも重要なのですが、長くなるので下記「はるかな昔」のアカウントで考察することにします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?