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高知の日々 長崎での不首尾がたたる

五月二十二日 午前中、土佐藩参政吉田東洋に向けた書を認めました。午後、昼寝の後「小酌、微酔」状態の弥太郎に、支配頭水野幾七から、明二十三日昼に役所にまかり出るよう伝えて来ました。「多分長崎勤めの際の不調法しくじりへのお叱りだ」と察し、口裏を合わせようとしたのか、下許武兵衛のところに行ったものの留守でした。

二十三日 朝、浴場。「小酌」の後、義兄吉村喜久次と共に支配方へ行きました。その後、支配頭に同道してお目付方に行った後、吟味場に参上すると、「かち目付」尾崎源八が「その方、先だって長崎表へ役目として行きながら、そこでの暮らし方が宜しくなかったと聞いている」と申し渡し、その上、安芸での「切米(年貢米)」の扱いに問題があることも指摘されました。

 喜久次から、帰って来た弥太郎に「松魚かつお一本が見舞いとして」贈られました。弥太郎はそれを肴に、居合わせた来客らと夜まで飲みます。弥太郎の周囲の人々は、弥太郎の不始末を非難せず、むしろ降りかかった災難を慰めているかのようです。

二十四日 「長崎滞留中のことに関し、昨日(咎められた)一件は覚悟していたことであり、今さら不思議とも思わないが、家の両親のことを彼是あれこれ思い合わせると慚愧ざんきに堪えない」昼、「小者方」から呼び出しがあったので結髪してすぐに出かけました。途中下許を訪ねるも「不遇会えず」。小者方では「宗門入り」のことについて尋ねられました(「小者方」は弥太郎のような身分の低い者を管理する役所か?「宗門入り」については後述の予定)。

 役所を出、藩役人の知人村山又七に「長崎での公金算用について尋ねたい仔細があったが不遇」。その後、栗尾大作を訪ね、公金に関する仔細は「恥ずかしくてたまらない(慚愧慚愧)」と慷慨。帰り際、栗尾から「中沢寅太郎を見舞ってくれ」と頼まれました。夕食後、「少し気分がすぐれず(「微恙びよう」)、布団に入る。夜、星が耿々と夜空を彩っていた」

 中沢寅太郎は懐かしい名前です。中沢は交易関係の仕事で長崎に来て、一時は弥太郎の日記に連日のように登場しました。しかし、この後、弥太郎が中沢に会ったという記録は「西征雑録」中にはありません。

二十五日 朝から頭痛の一日。下許が、喜久次宅の離れである緑幽亭に来て「且つ談じ、且つ笑い」、翌日も会う約束して帰りました。長崎の不始末について、二人が深刻に話し合った様子はありません。

二十六日 下許宅を訪れた後、知人と酒を飲み鏡川の水辺を散歩、さらに「置酒雑談」。朝、宮崎格右衛門が来て話をしていきました。弥太郎は仮に下士の足軽類の身分として長崎に行ったのですが、その立場が今後どうなるか情報を伝えてくれたようです(内容は下記の注釈参照)。「午後仮睡」の後、吉田参政に出す書簡を認めました。この日、酒飲みの弥太郎が「お姉さんのすすめによりちょこ二、三杯を飲んで少し酔った」と記しています。姉は弥太郎が格右衛門の話にショックを受けたのを察したのかもしれません。

 以下、推測を交えた宮崎格右衛門の話の解釈です。弥太郎は下士身分である宮崎家に仮に養子として入り、武士とも言えない地下浪人ではなく下士として長崎に赴任しました(養家が宮崎家だったとする史料、資料は他にありません)。格右衛門は、弥太郎という「身寄みより」の不始末について、「惣代の三ノ宮助吉」に尋ねたところ、御自分(格右衛門)は、御目付方が「双刀を取り上げることはない(下士の身分が剥奪されることはない)」が、「無禄の足軽類=弥太郎」は事情が違うという答えでした。弥太郎の下士の身分が危うくなっています。

二十八日 「午前、参政に上げる書を認める。午後、池内蔵太来訪、長い間談話をして帰る」その後複数の知り合いを訪ねます。下許には不遇。夕方、寓舎に帰ると妹が来たので大口を開けて酒を飲み、酔いました。

二十九日 下許を訪ね、そこで長崎での公事に関する帳面を認めました。下許が、よく書けている、この通りでよろしいと言うので、弥太郎は内々での御詮議に活かしてほしいと帳面を下許に託しました。その後、吉田参政を訪い、「色々と文章や学問について長い時間話をした後に寓舎に帰った」参政は弥太郎を見捨てたわけではないようです。夜、明かりを灯して読書。

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