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弥太郎の出張旅行記 鯨飲帰還編

二月十四日~十六日 弥太郎は、昨年十二月、長崎来着直前に交流した大村藩校の士人との交流を深めることができましたが、出張の成果は……?

十四日 雨の一日。依頼した書物の件に関して連絡を待つ間、浄瑠璃本を借りて読んだものの倦きてしまいます。やがて、依頼した内の一冊「大明一統志」(明の地理書)が藩校五教館ではなく城内老侯の元にあり、持ち出せるか問い合わせてみるとの知らせが届きました。

「午後ひとり寂しくしていると(寂寞中)」、宿に三人の客が来たので「酒を命じ、例によって大酔」、夜まで飲み続けました。中の一人山岡齊宮は、昨日も来て宿に留まり朝帰りをした人物で、午後にまた来たのですから、弥太郎と酒を飲むのがよほど楽しかったのでしょう。客が帰った後、弥太郎は長崎丸山のことが思われてなりません。「夜、雨止む。薄曇りの夜空、月の色は朦朧おぼろ

十五日 朝、山岡齊宮がまた宿に来てしばらくいました。弥太郎が望んでいた本は結局ありそうにないと知らされ、「大明一統志」は借り出せそうだったものの、格別に注文したいほどではありません。弥太郎は「肥後木下翁」のところに行こうと決めます。

「木下翁」は肥後藩(熊本)の儒学者木下犀潭さいたん(1805年~1867年)のことと思われます。弥太郎は、犀潭が唐や明、清の法律に通じていたことに期待があったのでしょうが、出発当日の日記に「肥後に赴く」と誤記(?)していることからして、高名な儒学者に会いたい気持ちは元からあったのかもしれません。

 弥太郎は昨日の鯨吸げいきゅう(鯨飲)のせいで腹具合が悪く、「火を擁して炬燵こたつを入れて?)布団に臥しました。その後、山岡らに肥後に行くという挨拶の手紙を認めます。また、昨日の来客の一人、田中慎吾と漢詩のやりとりをする約束をしました。夜、宿屋の主人が来て頻りに酒を勧められますが、腹具合が悪いので「格別酒も愉快に相成ラズ」それでも、夜遅くまで付き合いました。

十六日 朝、宿の会計をし、田中慎吾に漢詩を送ると、田中からも詩が届きました。午前11時頃に宿を出た後、「これから肥後に行くのでは日数がかかる、一旦長崎に戻って(学校制度調査に)努め、それでも不分明なら考え直そうと急に心を変じ」ます。

 海辺に近い橋のたもとで、長與ながよ(長与)行きの便船に乗ると、満員で窮屈でしたが、三本の櫓で漕ぐ船は順調に進み、正午頃に到着しました。山間の道を通って午後四時頃長崎に入り、道の途中で下許武兵衛に出遭って事の次第を報告しました。

(寄宿先大根屋のある)鍛冶屋町まで歩くと、殆ど(故郷の)家に帰ったような思いだった」宿では、下許から、今井純正と関わりのある人物が昨晩来て、話に要領を得ないまま帰っていったと聞かされます。帰るや否や、面倒な日常の一端に再会したわけです。出発時に送ってくれた隅田敬治と浴場に行き、夜には下許、中沢寅太郎と「臥して談じた」。中沢は宿泊し、明け方に帰りました。この日で、日記「瓊浦けいほ日録 巻之一」は終わります。


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