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ついに長崎到着 武雄~大村~長崎

十一月三十日 午後多久を発ち、雪と寒風の中、武雄に行きました。弥太郎は送りに来た鶴田豫太郎と於保義一郎と温泉に入りました。入湯後酒を飲みつつ詩をやりとり。さらに客人が来て談笑し、深夜まで歌い、吟じ、酒杯の献酬をしました。弥太郎は「交遊の情」のため最後までつきあいましたが、途中から大汗が吹き出て心地よく飲むことができませんでした。他の見送り客は去り、鶴田と於保は「同席就枕。夜間寒さが甚だしい」

十二月一日 朝、鶴田、於保と温泉に入って酒。於保に詩を贈りました。昼に二人と別れ、雨と雪の中を歩んで、山間の小村に投宿。夜の雨が寂しく、故郷を思う情が甚だしく湧き起こります。寝転んで多久の人士とやりとりした詩を読み返しました。

二日 天気快晴ですが、昨夜の悪天候で道が泥濘のよう、足が滑ります。午後、風雨が強まる中、大村城下に投宿。松林駒次郎に書簡で到着を知らせると、兄弟でやって来ました。弥太郎はまず、江戸時代の同門の塾生たちの消息をたずねました。弥太郎は学問の道半ばで急遽江戸を去ったので、同窓のその後をよく知らなかったのです。

 水沢哲太郎は去年カッケ(脚気)で死んだとのこと。憐れだ(可憐)。大竹力蔵は狂ったとのこと。いぶかしいことだ(可怪)。……竹村明蔵は久留米に帰参。小笹宇太郎は屠腹(切腹)して死んだそうだ。朋友の離合や盛衰のほどには慨嘆を禁じ得なかった。

 宿にさらに客人が来て競って酒を飲み、箸陣を戦い、愉快に酔いました。松林兄だけが残って泊まり、鶏が鳴いた後になって灯火を消しました。二人は臥して談話、大村の学校制度について話を聞きました。

三日・四日 三日午後、松林らと耶馬溪やばけいに遊びました。景勝の地で「木の葉を焼いて酒を温め、歌ったり拇戦(指相撲)をしたり、極めて風流。日が暮れて宿に帰り、山岡斎宮は同じ部屋で臥した」 四日は長崎に発つ予定でしたが、大村の諸氏に懇請されて留まり、多人数で羅山中腹の寺に行って詩を作る催しを行いました。その後、酒盃が交錯、歌ったり吟じたりで「甚だ愉快」。参加者は「未曾有の盛会」と大喜び。暗くなって宿に帰りました。

 この「耶馬溪」は大分県中津市の有名な耶馬溪ではなく、佐賀県の黒髪山(11月18日に遠望した「耶馬」は筑紫耶馬渓)。私は知りませんでしたが、全国に耶馬溪があるとのこと(各地の「○○富士」のようなもの)。「羅山中腹の寺」は、当時黒髪山にあった真言宗大智院と思われます。
 弥太郎は各地の藩校で過剰なほど接待され、引き留められ、同窓の者は悪天候をおしてまで弥太郎に同道しました。当時の慣習、儀礼だったようですが、12月2日に記された同窓の過酷な運命をみると、また会えるか分からない知人、旅人への思いも強くあったに違いありません。なお、弥太郎がいると宴会が盛り上がるというのは、この後もずっと変わりません。もう一つ、当時の武士は暇そう。

五日 午前中、松林らが別れの挨拶に来ました。大村から(対岸の)長与まで舟のつもりでしたが、風が起こって危険だからと陸路を勧められ、来年春の長崎での再会を約束して別れました。山道を行くと、大村湾や城、山々の「眺望が甚だよろしい」やがて日が落ち真っ暗になったので路傍の人家に灯火を求め、午後十時頃にようやく矢上宿に到達しました。

六日 早起き。雪が白く地面をおおっていました。「日見ひみ嶺(峠)」を登り、下ると長崎の地です。「思わず、いいぞ!と声が出た」鍛冶屋町の大根屋に投宿。午後「下許君(武兵衛)、今井順正、岡林常之助、隅田(敬治)、川村の諸氏が大喜びで迎えてくれた。岡林は豊後国にまさに旅立とうとしており、私を待っていたのだ」入れ違いになりそうなところで間に合い、岡林を見送りに街路に出ると、数えられないほど多くの「夷人」が往還しているのが目に入りました。

 午後、弥太郎は「下許君と竹田(竹内の誤り)静渓を訪ねた。播州明石の人で下許君がこの間から親しくしている。しばらくして酒を飲もうと外に出、久松善兵衛を訪れる約束をして帰った」長崎に着いて、いきなり重要人物の名前が出て来ました。「夜、静渓と善兵衛宅に赴いた。種々のもてなしあり」、今井順正も来て「木品きしな(木材)」の売買について話しました。「夜中を過ぎて旅舎にかえル」

 この日、弥太郎は下許から長崎商人とのかかわりについて聞いたようです。以下、その概略。下許は静渓を通して、久松別家の寛三郎とも土佐藩との交易の話を進めています。長崎では有力商人が地役人として幕府長崎奉行の配下として町を治め、両久松家は中でも上席の町年寄でした。静渓は、長崎で交易をしたい諸藩とそうした有力商人をつなぐ「コンサルタント」(少し怪しい)だったようです。で、長崎で土佐藩の御用達だった西川主助は「すこぶる狡猾な良くない商人で安心できないから、町老の久松に土佐の産物を引き受けてもらうよう、先だって岡林常之助からも頼まれた」と。静渓の斡旋で、土佐藩の長崎での交易相手を換える話が進んでいたようです。なお、下のリンクの「池道之助の旅日記紹介」に西川主助に関する記述があります。西川について、これ以上の深入りはしません。


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