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高知の日々 上司の下許が長崎から帰着

五月三日 早起きして朝食後、大人(父親)と温酒で高知への門出を祝いました。午前八時頃家を出、作蔵を訪れて立ち話をしました。途中、一人で酒樽を担う人がいて、弥太郎と同じく井口村から高知に行くというので奇遇を喜び話をしながら同道しました。日よけに小笠を買い、乗り合いの舟を利用するなどして、日暮れに吉村喜久次宅に着きましたが、喜久次は不在で、阿姉あし(お姉さん)が温酒と食事で迎えてくれました。

四日、五日 四日は風邪気味で吉村家の離れ「緑幽亭」から「不出戸」でしたが、「吉村先祖祭」で来客と酒を飲み交わしています。五日は体調が悪く終日臥せっていました。

六日 少し快復。寝たり起きたりしながら読書。夜、酒を飲んでいると「月色清輝。瓊浦けいほ(長崎)の花月楼を思う痴情が甚だしかった」この後に、出勤する喜久次に伝言を頼んだことを記しています。「下許氏ママ立ち寄り、武兵衛殿が帰っているかどうか尋ね、帰っていたら役所への出勤前にお目にかかりたい」と。下許が戻って来ることになり、長崎の思い出が生々しく甦って来たようです。

七日~十一日 「不出戸」が続きました。八日には小埜おの叔父を訪ねて外出したものの「不遇」九日吉田(東洋)参政に上げる書簡を認めたものの完成しませんでした。その後一応書き上げたようで、十一日「推敲」をしたと記しています。

十二日 午後、下許を訪ねると、まだ長崎から帰っていませんでした。吉村三太を散歩に誘おうとしましたが、来客中。池内蔵太くらたを訪ねて酒を飲んだ後、三太を再訪、吉村喜久次宅に行くことになりました。「ナハ(縄)手団子堂の前を通って帰る」。

 他の来客も含めて大酒を飲み、箸拳を闘わせました。夜中を過ぎて内蔵太らは帰りましたが、三太は倒れ臥し「余は三太を抱き緑幽亭へ移して一緒の布団で寝た(同衾)。夜明け方に三太は目を醒まし、驚き起き上がって帰っっていった」

十三日、十四日 十三日には午後から風雨が強くなる中、緑幽亭で(吉田参政への)手紙を推敲。夜に風雨はさらに甚だしくなり「枕の上で夢を見ながら終夜心持ち不安」。十四日の朝「下許君から、今朝帰着したので明日朝来てもらいたいと伝えて来た。終日不出戸。且つ読書し、且つ眠る」

十五日、十六日 十五日「朝結髪。下許君宅に赴き、色々と長崎の話(崎陽談)をした」また、用居の関で隅田喜十郎に託した花月楼と浪花楼の会計書が御目付方に届いていないことや、吉田参政から官命を待たずに帰国したのはお上を軽蔑するものだと叱責されたことなどを「逐一」下許に話しました。下許宅で「ご馳走にあずかり帰る。雨甚だし」「鏡川は川の水が滔滔と流れ、神田と古野の辺りも皆一様の濁水だった」雨は夕方前にやみました。十六日は雨で終日不出戸。吉田参政への手紙を推敲しました。

十七日 朝、結髪し、梅田橋の浴場に行ってから下許宅を訪れました。昨日話に出た会計書の件は、まだ荷物の中にあって届いていないことを下許が確かめたと聞かされ、弥太郎は安心しました。その後、何人かの知人を訪ね、小埜叔父の家にも行きました。吉村三太も訪ねました。日暮れ近い時間に帰り、夕食後はいつものように読書。

 岩崎弥太郎は下許武兵衛宅を訪れるのに、十五日は結髪し、十七日には結髪した上で浴場に行きました。下許は上司であり、かつ上士でしたから、長崎では気易い同僚のように接していたものの、高知に戻ると身分の違いを弁えて身なりを整えたことになります。もっとも長崎でも、のり(この場合は身分差の規範)を超えるような「無礼」な言葉遣いや日記の記述を、弥太郎はしていません。

十八日~二十日 曇りや雨の日が続きます。この辺りで、いくつか用事を片づけようとしていますが、どうも首尾良く運ばない様子です(細かな記述がありますが、省略)。十九日「執政吉田君に上げる書を推敲」しています。

二十一日 曇、晴。終日不出戸。午前、参政に上げる書を浄書。午後仮睡。藤岡猛次に句読を授ける。薄暮、シンチ浴場に行った帰り、雲はようやく薄れ、まだら模様に輝く星が地を射していた。寓居(仮の住まい。義兄喜久次宅)に戻り、明かりを灯して参政に上げる書を浄書。四方から蛙の声が聞こえる。天はまた陰った。(この日の日記全文)


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