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長州の藩校を訪ねる 岩国~徳山~萩~下関

十一月五日 早朝から岩国市街見物の後、学館から迎えが来て藩校に行きました。「随分弘大」で、本堂に「孔聖」の像があること、書生の寮が二つ、書生は「前髪を取った童」で毎日来ること、射撃場、槍術場、剣道場があったと記しています。「学館の係の人は下許君と蝦夷地辺りの風気(風俗)について盛んに談じていた」(下許武兵衛は土佐藩から蝦夷地調査に派遣されたことがある)

 夜、学館の人が宿に迎えに来て、遅くまで談話。岩国藩では、文武の試験通過が仕官のために必須で、四十歳までに合格できないと隠居させられるとのこと、「文武二道」どちらも修める必要があると記しています。

六日・七日 六日午後出発のつもりでしたが引き留められ、学館の諸氏と酒楼へ。「団欒、相座あいざし、種々の談話、怪談が口をついて出た」。七日は早起きして山間の道を通り、この日の内に徳山に行こうと急ぎましたが、日が暮れて途中で投宿しました。

八日 道中、雨と冷風で「一大湾、小島無数」の絶景を楽しむ余裕がありません。ようやく徳山に到着、宿を取って結髪。目当てにしていた人物を訪ねると長崎に行って留守。「西洋大砲、太鼓、鉄砲」に詳しい兼崎某も不在だったものの、後で兼崎自ら宿に来て詩のやりとりと談話。その後、文学修行書生宿に行き談話。夜、宿を訪れた客と夜中まで団欒、酒盃の献酬。「酔って愉快」。翌朝発つ予定を引き留められ、次の日も滞留と決まりました。

九日~十一日 九日、招かれた家で都合十七人もの人々と(酒杯の)献酬、談話。威勢のいい話が続いた後、兼崎らが大声で詩を吟じ、皆が和すと、下許が返しにヨサコイ節を歌って「一同大笑」。十日、徳山を発ち、沖でイギリス船の灯火が動くのを見たりした後、山口に投宿。十一日、夕方萩に到着、藩校明倫館隣の「修行宿」に入りました。知人への紹介状を持参しましたが、結局役人に持参の通行手形を見せて滞在の許可を得ました。

十二日 午前中に赤川直之進、又太郎兄弟が来訪。午後、萩の城市を徘徊。城山が海に突き出している様を見ましたが、海風の冷たさに退散。宿で痛む足の「ツけ?ネ」を焼酎でなでさすりました。

十三日 市中の書店で『福恵全書』を購入。赤川又太郎が来て、小酌後に一緒に外出、海辺で軍艦を建造しているのを見ました。帰宿後にも客が到来。彼らに学校制度について尋ねると、徳山では岩国のように文武修行は仕官に不可欠ではない、とのこと。

十四日 又太郎の案内で明倫館に行きました。演武場があり、門には射術、槍術、剣術の師家の姓名がかかげられています。館内には水練、馬場調練、医学、蘭学、兵法、算術などの修行場所がありました。帰宿後、赤川兄弟らが訪れ、夜中まで飲んで愉快に大酔。

十五日・十六日 十五日、寒風が吹く中、萩から下関に向かい、日が暮れて深川(現長門市)の宿に泊まりました。十六日、明け方に深川を発ち、道を急ぎます。途中、清潔な店で食事を取ることが難しく、人足も不足していたことから、下許と小酌をした小店で一泊しました。

十七日 月影の下、旅舎の者が起きないうちに出発。湾景の美しい長府(現下関市)に入り、壇ノ浦を通って馬関(下関)の宿に入りました。下許と二百文を払って角力を見物、「熟視すると随分面白い」。帰宿し飯後、結髪に行くと「酒狂人が白刃を携え行くのを見、大いに恐怖し帰舎した」その後、当地の妓女の始まりは平家滅亡後の宮女であり、今はどこの妓楼が盛んかなどの話を聞かされます(つまりは遊女遊びに誘っている)。

 下許と「月影晴朗」の海辺を散歩、舟を借り酒を積んで沖へ出ました。亀山神社の下の辺りに船の帆が林立、小舟は酒肴を売り、大船は「買婦」を乗せて管弦が賑やかです。弥太郎らの舟に「買婦」四、五人を乗せた舟が「突入」して来ました。「手を振って大拒絶」したものの、「一人の婦人が端座して去らず」やむを得ず一緒に壇ノ浦へ。「かつ吟じ、かつ飲む」。「買婦」が舟での情事に誘う「その術や情態には笑いたくなる」水夫に命じて神社下に上陸、夜中に宿に帰りました。


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