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佐賀関~豊後水道~八幡浜

万延元年四月一日 明け方に起きると霧雨でうんざり、晴れの日には犬飼から鶴崎まで舟で行けると聞いていたのです。しかし川沿いを歩いていると小舟があり、鶴崎に行く官舟だと言うので「躍然、同舟を乞うて許しを得た」舟は時に緩やかな、時に山間の速い流れを曲がり下って行きます。昼には「不潔な菜汁」が出されました。

 舟底に臥して寝ていると、舟子の「鶴崎に着いたぞ」と呼ぶ声で驚いて目を覚ましました。周囲は開けた平野で、瓦屋根や白壁の町や麦畑が見えます。舟を下り、佐賀関までの三里を「奮然」と進んで行くと、海水で満たされた湾に岬が突き出ているのが目に入りました。到着して宿を取り、薄暮の街を「隅兄(隅田敬治)」と散歩すると白粉にかんざしの女性が何人もいました。

 宿に戻って酒を頼み、「当地第一等の名妓」たちを呼んで「且つ歌い且つ酌をして」楽しみました。夜中を過ぎて寝ることになり、弥太郎は先に二十一、二歳の美女を指名したので、隅田が「不興の色を顕した」ねやの中での情味は問わずとも知られる」

<弥太郎と同行者の関係性の変化>
 隅田敬治は「瓊浦日録」の全期間に登場する弥太郎の遊び仲間です。「西征雑録」で、二人の関係性が変化します。「日録」の初め、弥太郎は隅田に句読を教える先生でした。丸山で妓楼のやり手を二人で着物を取り替えてからかった時(三月二十六日)には、隅田は弥太郎の手下として振る舞っています。

 しかし、閏三月三十日、弥太郎は竹田での滞留を望んだのに、隅田がすぐに出発するという意志を示すと、弥太郎は付き合うしかありませんでした。日記上では、ここがターニングポイントです。弥太郎はこの日、隅田を初めて「隅兄」と記しました。その後何度もそう書きます。佐賀関で、隅田は弥太郎に「不興の色を顕し」さえします。弥太郎が土佐への旅費を隅田に借りていたからに違いありません。

「隅兄」は、隅田が偉そうな態度になったことを揶揄した表現のようにも取れますが、「目下」だった者から無碍に扱われたことまで率直に書く弥太郎の日記は、江戸期において全く異色のものです。

二日 障子がかすかに白む頃、下婢仲居が来て舟が出ようとしていると告げたので、急遽起き出した。飯を食べることもできない。少なからず恋々とする気持ちを割愛した。佐賀関を発すると、海水は油のようで微風不動。

 割愛したという「恋々とする気持ち」は、何を意味しているのでしょうか? 遊び慣れた弥太郎ですから、前夜の妓女ではなさそうです。まさか食べ損なった朝食でもないでしょう。ついに豊後水道を渡り、長崎丸山のある九州から離れる気持ちを表したものと私は考えます。故郷土佐のある四国に戻れば、長崎は出張前と同様に遠い異国となるのですから。

 普段は「海(の波)が険しく暴風」の豊後水道ですが、この日は「不動」で、弥太郎は「座して」豊後の山々を眺めます。舟は夜中に|八幡浜《やわたはま》(愛媛県東部)に到着しました。いくつか旅舎の戸を叩きましたが、開けてくれません。それでも一軒の宿で温かいお茶と食事を供され、町の公会所に布団を敷いてもらって休みました。夜明け、ホトトギスの無く声が枕元に響きました。

<訂正とお詫び> 5月27日にアップした記事に誤りがあったので、タイトルを含めて訂正し、四月三日の日記の紹介記事は削除して次回に回しました。八幡浜から「宇和島の関」を超えて宇和島に行ったと思い込んでいたのですが、弥太郎らはここから大洲に向かい、さらに四国山地を越える道の方へと進んで行ったのでした。八幡浜が宇和島藩領であることを知らなかったためのミスです。申し訳ありません。実は八幡浜、大洲は私の父方の先祖の地で、二つの町は同一の地域、大洲藩領だと思い込んでいたのでした。(5月28日記)


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