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弥太郎、なかなか旅立たない

 岩崎弥太郎の第一回長崎赴任時代の日記「瓊浦けいほ日録」に続いて、「西征雑録」の後半(万延元年うるう三月十九日以降)を紹介します。長崎出発の直前から土佐への帰路、帰郷後しばらくの日記です。「雑録」前半の土佐から長崎に到る道中日記も、後に紹介します。但し、どちらもこれまでのような全日の紹介ではなく、抜粋とします。私が依拠する「三菱史料館論集」の「雑録」翻刻は、刊本『岩崎彌太郎日記』と違って読点がありません。また私には難しい漢文の割合が多く、これまでに増して訳に自信がありません。誤りをご指摘いただければ幸いです。

伊藤由実子「岩崎彌太郎「征西雑録」」、三菱史料館論集第19号、2017年

三月十九日 日記は「この日長崎を発つはずだったのだが」と言い訳のような書き出しで始まります。妓楼への支払いが多すぎ、帰郷の費用に差し障りが出そうで思案していると、上司の下許武兵衛から「今日はどうするの?」と声がかかります。早朝から茶屋阿山楼へと誘われ、「心に適わなかったけれど」出かけました。

少し酒に酔ったところで、浪花楼と花月楼への支払いが滞っていることを下許君ママ相談いたしたところ、下許君は早速承知いたし御引受け下さったので大いに安心いたし、万一家山かざん(故郷)より金子きんす入りの書状が私の留守に着いたら、御遠慮なくお使い下されたく、帰国後は早速金子の都合を付けるよう約束をした。

 寄宿先の主人大根屋新八を阿山楼に呼び、指相撲を行うなど共に酒席を楽しみました。一旦大根屋に戻った後、弥太郎と下許は丸山に行って大小楼、新築楼に出入りします。弥太郎は下許のために馴染みの遊女の消息を尋ねようと、「ひとり傘をさし雨を衝いて孤傘衝雨外を歩いたりもしました。二人は結局瑞松亭で宴を持ちました。

 馴染みは都合がつかず、夜里という妓女が侍りました。「顔形は素晴らしい美人とは言えないが心づかいが好く(沈着)愛らしかった」「下許君は痛飲、放歌して甚しく興じ、ついに入衾」。一方、弥太郎は深夜に花月楼に移って「興を尽くし」「就枕一睡」、真夜中を過ぎて帰りました。弥太郎出発予定の日はこうして終わりました。

二十日 大根屋の翁(主人新八)が、早朝から餞別に酒の席を設けました。弥太郎が戯れに、しもべの利助に花月楼の鶴枕を見せる約束をすると、利助は(妓楼の客に相応しい服を持たないので)寓舎の老婆に衣服を借りたいと頼みました。すると老婆が弥太郎の着物を勧めたので、弥太郎は笑いました。

 午後四時頃、弥太郎は下許、隅田敬治と三人で丸山へ。隅田は馴染みと出会ってとある妓楼に入りました。弥太郎は誘って来る禿かむろに菓子を与えて去りました。「何分孔兄こうひん(銭)乏敷とぼしく「最早決別」の時であるからと、花月に寄らずに訪ねた別の妓楼には馴染みがいませんでした。この間、弥太郎は段々不快(恐らく頭痛)がひどくなります。結局、片平町の嘉満楼に登ると、旧知の芸妓友吉らが席に来ました。

 友吉は浪花楼との間で問題が生じており、呼ばれても行かない「事情について秘密を吐露した」また、来月一日「妹妓のつき出し(初めて客を取ること)を行うので必ず来てくれと固く約した」弥太郎は「初めは酒も飲めず頭痛で不快だったが」、次第に酔って来ます。下許は大声で土佐の歌を歌い、友吉が三弦を弾きます。酒の間に弥太郎が仮寝をすると、友吉も臥して枕につきました。

 下許は仮寝した後、夜十時を過ぎて寓舎に帰りました。弥太郎はこの日の支払いをすませて帰り、一旦は「就枕」したものの、鶏が鳴く頃ひどい頭痛に耐えがたくなって「下許君を呼び起こし、金丸一粒をもらい飲んだ。終夜よく眠れなかった」

二十一日 最早今日は出足の日と決していたのであるが、心持ち悪しく食事もしないで昼頃まで臥せていた。丸山遊郭に恋々とする恋情が消えない。午後、下許君にせり立てられて止むを得ず寓舎を出発した。

 何とも情けない旅立ちですが、ありのままに書くのが弥太郎の特長です。大根屋新八や丹波商人六兵衛らは町の端まで見送り、僕の利助と下許は栄茶店まで来て、路傍の店で酒席となりました。しかし、体調の悪い弥太郎は一滴も飲めません。利助はここまで。下許はさらに新茶屋まで同行したものの結局弥太郎は酒を飲めず、下許も帰りました。弥太郎は気落ちしました。弥太郎は、送りに来てくれた下許の温情に応えて盃を受けることができなかったことを悔やんでいるようです。

「隅田と共に出発して日見峠を越え、日が暮れてようやく矢上で投宿した。甚だしく疲れたので浴湯を使い夕飯を食べて寝た」日見峠は長崎に出入りする者にとって門となる場所です。ここを下れば最早後戻りはありません。ようやく土佐へ帰る旅が始まりました。

 二十一日の日記の最後に、下許が弥太郎のために「嘉ましき(喜ばしい)会計」をしたと記しています。下許は、弥太郎の路銀が不足しているのを察し、妓楼への支払いとして弥太郎が下許に渡した金から「二朱八片」を「余に投じた」のです。弥太郎は、「どうぞご心配なく、平均(割り勘)にしましょう」と固辞しようとしたものの、実際には旅嚢りょのう」の中身(旅費の用意)が乏しかったので、下許の厚意を受けて「拝借」することにしました。


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