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土佐から来た人と手紙

一月四日 夜明け前に起床し、灯りをつける。天気は快晴、寒風が身にしみて声も出ない。朝食後、中沢寅太郎の仮住まいに行くが会えず(不遇)。帰ろうとすると、途中で出会った。一緒に中沢の住まいに行く。中沢は町方の役人になり、長崎には外国貿易のために来たとの由。

 中沢は土佐から二通の手紙を託されていました。一通は弥太郎への命令で、先日土佐朝倉村の火薬工場が水車の挽き臼から出火し焼失したので、西洋人の「精密の趣き」のある製造法を聞きただして詳しく記して提出せよ、とのこと。土佐は火薬の原料ともなる樟脳しょうのうの産地でした。

 もう一通は、土佐の知人たちの無事(無為)の知らせで、読んだ弥太郎は「その喜び知るべきなり(其喜可知也)」と喜ぶ気持ちを記しています。この表現は、日記中にこの先何度も登場します。

 午後には、漢詩を解する知り合いと談笑します。この日は偶数日なので、午後四時頃に止宿先に帰った後、下許ら同宿者と心置きなく(?)長時間に渡る酒宴を楽しみました。以下、その愉快な情景描写です。

車座になって酒を回し飲みし、大分愉快になったところで、突然、止宿先の亭主彰八が浄瑠璃を語りだし、すると六兵衛が踊りを舞い始め、隅田敬治も踊り出して、笑うしかない下手くそな長歌を大声で歌っているうちに深夜になり、ようやく止めになった。

 中沢寅太郞は土佐から派遣され、長崎で下許、弥太郎の同僚になりました。弥太郎は早速彼の宿に向かうも、留守で会えず「不遇」と記します。この先「不遇」という表現は、日記中に数え切れないほど登場します。

 ところが、弥太郎は帰り道で中沢とばったり出会います。長崎は、多数の人が驚くほど小さい市域に暮らしており、このような「偶然」が起こりやすい町だったようです。

 長崎市は現在でも他の県庁所在地と比べて「縮尺を間違えたかのように」小さく、市街は「比較にならないほど狭い」。元々長崎は、外国との貿易のために「荒涼とした岬の突端に計画的・組織的に」建設された人工的な町だったのだそうです(下記の本より)。

赤瀬浩『「株式会社」長崎出島』講談社選書メチエ、2005年


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