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無駄だと知りながらやりたくなることが本当にやりたいこと

人生で行うことは、みんな無駄なのかもしれない。
どんな偉業も成し遂げても、どうせ最後は死ぬだけだから。
浜辺でやる砂遊びみたいなもの。どうせ波に流される。

“仕事に意味を見出し、精を出し、一生を捧げて定年を迎えても、すぐに代わりが入る。 「今まで会社に尽くしたのはなんだったのか…」 努力の形跡など、何も残らない。”

全部無駄になると悟ってからが心の底からやりたいことに気付けるチャンス。

努力をするのは見返りを求めてるから。無駄じゃないと思っているから。
 僕も努力したことがある。
だけどその努力が報われなかった時に『損した!』と思ってしまった。

 これの何が問題かというと、努力の過程で好きだと勘違い・・・・・・・してしまうこと。
努力しているのが苦痛なんだけど、見返りがあるから好きだと錯覚してしまう
これ伝わるかどうか分からないな…。
 例を出す。僕はかつて漫画家になるため努力していた。今考えてみると、金や名声が目的だった。これが求める見返り。見返りを求めていたせいで、漫画が好きだと錯覚していた。
漫画が好きなのではなく、金や名声を得たいだけだったと気付いたのは何年もあとのこと。無理して努力した感覚がある。時間も労力も無駄にした。


無駄だと分かっているとしてもやる気になるなら、それは心の底から好きだということ。見返りのない無償の愛。
僕にとっては漫画ではなく、noteだろう。
noteは別に何も見返りはいらない。

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