教育商業主義への警告

要旨

  • 社会環境と教育行政の変化に乗じて新しい教育サービスが増えてきている

  • 旧来的な受験勉強は意味がないと捉える層が出現している

  • 社会は従順で得手不得手なく全般的に優秀な人材を欲している

  • 「好きなことに熱中すればいい」という誤解で自立が遠のき、必要のない出費に駆り立てられる貧困ビジネス化する教育産業

  • どうすればよいか、は別記。


社会環境と教育行政の変化

 まず、社会環境は徐々に変わってきているものの、一般大衆が恐れるような様態でも規模でもないということを前提として強調しておきたい。
 第4次産業革命によりAIが人間の仕事を奪ってしまう。従来型の求められた答えを導く学力でできる仕事はAIが代替することになり、答えのない問いに答える力や問いを立てる力が求められている。そんな漠然としたイメージを持っている人が増えているのではないだろうか。
 そもそも今の現役昭和世代すらも機械で置き換えできない仕事だけをしているわけではない。昔の職場と比べたら環境の変化はあるが、人そのものが駆逐されてはいない。既に国内の製造業は大部分機械化・自動化されているが、雇用統計を見ても製造業の雇用自体が際立って消失するような状況とはなっていない。もちろん、今後米国の自動車産業が廃れたように特定業界の雇用が減ったり鉱山採掘が機械化され雇用が減るといった産業構造の転換は従来より起きやすくなっていくことが想像はされる。しかし、経済が雇用を無くす方向へは進まない。そのような動きがあるとしても、それはかなり緩慢で気づきにくいところから進んでいくであろう。生産だけで経済は成り立たないというシンプルな理由で、経済が機能するには生産と均衡のとれた需要が必要だからである。仕事がなくなることがあるとしたら、諸外国並みの低い税率の法人税だけで国民の99%の衣食住、医療、教育を賄えるようになるところまで国内事業の付加価値生産性が先鋭化した場合のみだ。あり得ないとは言い切れないが、やっとガソリン車の新車販売がなくなる2050年近傍では、全国津々浦々ですべての自動車が完全自動化されて運転免許証が必要なくなる時代には届いていないのではないだろうか。
 教育行政はここ10年でかなり大きく変化した。学習指導要領は2013年、2022年に改訂され、いずれも学習内容と授業時数が増加した。よく見れば体育の時間が増えたり総合の時間が減ったりしているのだが、社会的に広く認知されているのは小学校英語とプログラミングではなかろうか。詰め込み教育の復活である。

新しい教育サービスが増えている

 これはとりもなおさずデジタル教材・遠隔教育である。小学生向けをはじめとするタブレット教材、中高生向けの動画授業および付随する学習計画管理サービス、そして通信教育の台頭である。
 「授業は日本一上手な人がオンラインでやって、個々の教師は横でわからない子のサポートをすればいい。」という意見も見受けられる。

旧来的な受験勉強は意味がないと捉える層が出現している

 既存のすべての学校教科を全員が勉強する必要はない。勉強が苦手なのに検索すれば分かることを暗記する必要はない。自動翻訳があるのに英語を勉強する必要はない。プログラミングや動画編集、金融、論理的思考力や非認知能力など社会で役立つことを学ぶべきだ。という捉え方である。前項のデジタル教材や遠隔教育はこのようなニーズに応えるサービスを取り揃えている。

社会は従順で得手不得手なく全般的に優秀な人材を欲している

 根本的な認識だが、学習指導要領はその時代ごとの社会要請に沿うように小中高12年間のカリキュラムを定義している。すなわち学習指導要領に盛り込まれた内容およびそれに準拠した検定教科書の内容は社会が今後の新社会人に要求する基礎学力なのである。
 そして、高等教育を受けるに当たり社会が求める学力を有しているかを確かめるのが大学入試だ。ぜひ、今の大学の一般選抜で「1教科だけ極端に得意な生徒」が受けられる大学を詳細に検討してみてほしい。そう、無い。あるにはあるが、得意教科の出来の割には苦手科目寄りの成績に合わせたレベルの大学が居場所となる。
 ちなみに従来的学力ではなく一人一人の個性ややる気を評価する総合型選抜が増えているのでは?というのも誤解である。増えたのは指定校と附属校だ。総合型はさほど増えていない。また、総合型選抜は経済力と人脈を持った家庭が圧倒的に有利である。18歳まで海水浴にも行ったことがない子にできる活動と、著名政治家を自宅に呼べる家の子の活動を比べるのが総合型選抜である。勝てると思うならぜひ勝負してみることだ。
 まとめよう。今、上位大学に入れるのは「肥大化したカリキュラムを満遍なくこなせる処理能力を持ち、中高6年間健康に過ごした生徒」と「富裕層」である。もちろん少数の例外は発生するが、概観するとそういうことだ。

「好きなことに熱中すればいい」という誤解で自立が遠のく

 前項で述べた通り、少々の語弊を恐れず全体的な傾向を述べるなら「好きなことに熱中すればいい。あなたの家系が由緒正しい富裕層ならば」である。誤解なきよう、昔からそうだったはずだ。昨今の変化といえば、それがより露骨になったことと、富裕層の生活自由度が増してきていることである。平凡な庶民が好きなことに熱中すると、まず大学受験で締め出しを食らう。なのだが、残酷なのは「好きなことで、生きていく」ことが正しいかのような幻想がある種の消費喚起になっていることだ。そう誘惑するなら、受け皿となる教育機関と雇用が必要なのであるが、残念ながらそれは無い。
 業界就職率の低い専門学校や各種学校に高い学歴を支払ったり、バズワードに対して素直に「好きでないこと」や「必要性を自分が感じないこと」を避けて過ごした結果、進路が決まらず浪人生なのか単なる無職なのかの狭間を彷徨うことになる、というのが落とし穴で、幸いそこに長期間ハマる層は多くはないのだが、無視できるほどに少数ではない。

必要のない出費に駆り立てられる貧困ビジネス化する教育産業

 前項に示唆した通り、「好きなことにだけ熱中する」のは、やりたくないけど回避できないことを先送りにしているだけで、大多数は結局やりたくないことも大なり小なりやって大人になっている。多くは元気に楽しく生きているはずなので、ご心配なきよう。どうにもならなくなる層ももちろんいるが、それは昔からいた。
 こうした「新しい時代」への漠然とした不安に応える形で、「将来役に立つ」という触れ込みの割には成果に繋がりにくい教育サービスが多様化の傾向にあることを危惧する。それが遠隔教育だ。
 どのような仕事においても完全に排除できないのが「人と接すること」であり、それを避ければ避けるほど残念ながら自立は遠のく。結果、高校卒業から就業もしくは進学の間の無就業無就学期間が長引くこととなり、そのリカバリに更に追い銭が必要となる構造である。
 とはいえ遠隔教育の可能性に期待する層は増えている。今後は一部の全日制教育機関を駆逐する勢いで高等教育にも遠隔化の流れは広まってくるだろう。結果は目に見えている。遠隔で高等教育を受けた層は3年以内の離職率が目立って高くなる。そこを狙って大学の再受験や科目等履修、オンラインサロンのような多様な教育サービスが展開されるはずだ。
 今後の社会で競争優位に立つのは前述の通り、満遍なく優秀な優等生と富裕層である。そうでない人物のうち、新しい教育サービスに活路を求める層は競争優位には立てないが、そうしたサービスには継続的に課金し続けることになる。遠隔教育はコストメリットが高いため、受講生を破産はさせないが、だからこそ長期継続的な顧客として囲い込んでゆく。事業者と受講生双方にメリットがあるので、ある意味では善良な貧困ビジネスとも言えるが、自分の身の丈に合った普通のキャリア形成をしていればもう少し時間も費用もショートカットできるのである。

どうすればよいか、は別記。

 では、AIで仕事が無くなる答えのないVUCA時代の教育はどうあるべきか。今の子供たちは10年後、どのような生存戦略を取るべきか。詳しく述べると長くなるので別記事にまとめるが、学生がやるべきことは変わっていない。普通に勉強して、普通に就職活動をすればよい。変にやることをえり好みしたり裏技を使おうとすると、結局は課金額が増えるだけで勝ち馬に乗れるわけではない、というのが本記事の結論である。
 仕事を辞めたり会社がなくなったりしたら、30代までは転職すればよい。40代、50代の生存戦略は教育業界の諸問題とは別軸で検討が必要である。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?