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映画記録/ファーストラヴ

あらすじ)アナウンサー志望の女子大生・聖山環菜が、父親を刺殺した容疑で逮捕される。事件はメディアでも大きく取り上げられ、環菜が動機を語ろうとしないことも話題に。そんな中、公認心理師の真壁由紀が、この事件のルポルタージュを依頼され取材に乗り出す。

Wikipedia

自分の成り立ちを紐解いていく物語だと思いました。

なぜ父親を殺すに至ったのか、その動機が自分でも"分からない"から、「動機はそちらで見つけて下さい」という主張になっている。
映画全体を通じて、容疑者(娘)がどんな場所でどんな人と関わって、どういう経験をして、どんな人生を歩んでいたのか、それを解読していく中で、ではなぜ父親を殺すに至ったのだろうかという問いに対する答えを言語化をしていくお話だと思いました。
カウンセリングとすごく似ている。そしてちゃんと本人が言語化まで辿り着いていて逞しかった。


少し語ります。

鬱は心の風邪だという言葉がありますが、
「エアコンで喉をやられて風邪を引きました」という話をするように、「ショッキングな出来事があり傷ついた」とか「ストレス禍にあって精神的に追い詰められた」とか因果を考えるわけです。

ただ厄介なことに、乾燥で喉がダメージを受けることは知っていても、精神的なダメージに関して、条件・状況が悪いという判断を下さずに「耐えきれない自分が悪い・自分が弱いからこうなっている」と自分を追い詰めることでしかストレスからの逃げ道を知らないということもあるわけです。

そうなると、「その状況下で耐えきれなくなるのは"貴方が弱いから"ではないんだよ。」「同じような状況下にあれば、みんな(この一般性が大事)そういう反応になると思うよ。」という客観的な視点と言葉掛けが救いになったりする。

でもそれはあくまでも対処療法であって根本の治癒ではない。と思っています。
なぜ自分を追い詰めることでしかストレスから逃れられない「自分」が形成されていったのか、その成り立ちを紐解いていかないといけない、と思うのです。

現在に至るまでの自分の成り立ちを探るというのは、生きてきた過程で遭遇した出来事、自分自身の感情や思い、振る舞い、周囲の環境、人間関係、そういったものに記憶を巡らせて「再認識する」という行為なんだと思います。

それを自己との対話という風に表現するのだろうけど、己を出しても良いという信頼を感じた人+空間という条件下でしかなし得ないことだと思います。
剥き出しの自己と向き合う訳ですから、心理的安全性が保証されていることが絶対条件なわけです。
他者が介在しない場合、自分で自分自身の内面と対話するにしても、です。

作中でも描かれていましたが、「自分の"きもち"を、言葉を、訴えを、受け取って欲しい人・受け止めて欲しい人に、受け止めてもらうこと」
この成功体験がないと自分を押し殺してどんどん自分の気持ちが見えなく、分からなくなっていくんだと思います。そのまま大人になっていくボクたちはどうすればいいんだろうね。

今を生きる自分が、押し殺してきた自分に手を差し伸べてあげるしかないんだと思います。きっと一緒に住んでいると思うから、隅っこで隠れんぼしてると思うから、見つけてあげて。

長くなりましたが、そんなことを考えました。


映画の話に戻りますが、
我聞さんのような暖かく大きく優しく穏やかな人に強く憧れます。大切な人のそばで我聞さんのような人間でありたい。
きっと人間はお互いに救い救われだから、今回は救う側として描かれている我聞さんも、写真を見て心を動かされている由紀の姿に救われたんだと思います。
フィルムを通して見る世界にも。

映像も音楽も美しい映画でした。
「この人物が、この場面で、こう振舞っていて違和感がない」という表情や声色を出せる。俳優さんのお仕事は、演じるという行為は、凄いものだなあと改めて感じました。

そしてこれ、堤幸彦監督作品なんですね。
堤監督の手がけたドラマシリーズ&映画化もされた「ケイゾク」「TRICK」「SPEC」が本当に好きで。
コミカルな作り込みが大層丁寧で面白すぎる。ただギャグ要素ばかりではなく、シリアスさも孕んでいて、凄くバランスの良い3作です。本当に好き。
大好きな監督さんですが、ツボにぶっ刺さるものを創られるんだなあと改めて感じました。

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