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「人に愛されてない」は思い込み

いま、とてもいい人達に恵まれていて、幸せなんですが、

『私は人に愛されていない』

という観念を持っていました。

とりわけ、家族や友人以外の人たちから。

あぁ、そういえばいつもこの観念を使っているな、
と色んな場面が浮かんで来ました。

数年前までは人からあんなこともこんなこともされたし、
と、この観念を長年つかっていたのです。

それらの場面を思い出すと、
「うっ」と、重たい気持ちになりましたが、
統合を進めるうちに、

『この観念でもう遊べなくなるけど大丈夫?』

という言葉が降りて来ました。

そうか、遊んでたんだ。
そして、もう遊べなくなるのか。
臨場感たっぷりでドラマを楽しんできたなぁ。
でももう手放してOK。
いままでありがとう。
私はこの重たい観念を手放して、
軽やかになって次のステージにいく。

そう決意すると、
愛されてないと感じるのは、自分が愛してないから
という言葉に出会いました。

たしかに、そうだ。
私は家族や友人以外の人たちを愛していない。

自分のことを棚に上げて、愛されてないと不満を言っていたことに気づきました。

世界平和を望みながら、家族や友人以外の人たちには無関心でした。

自分と家族と友人の幸せ以外どうでもいいというのは、深い眠りのあり方だなと思いました。

小林正観さんのお話では、
特別な人(特に大事にする人)はいなくて、全ての人が大事な人だそうです。
いま目の前にいる人、物、ことが一番大事だそうです。

だから観念を作り変えました。

私は人に愛されている。
私は人を愛しています。

相思相愛なのだ、
という新しい観念を選択しました。

その瞬間、苦手な人の顔が思い出され、
心が重たくなったので、
また統合しました。

この新しい観念は、
馴染みがないけれど、
どこか懐かしいような、
なんだかずっとそう思いたいと
思っていた気がします。

ずっと人を愛したかったのだと、
魂が喜んでいる気がします。

この新しい観念を声に出して言うと、
私はずっと前に人を愛していたのだと
思い出しました。

でも何度も傷ついて、
もう愛さないと決めたのでした。

傷ついた出来事をもう許そうと思いました。

人の冷たさを許し、ありのままの人を無条件に受け入れるのは、私にとってチャレンジでした。

自分にとって大切な人が全人類まで増えてしまう恐れも出てきました。

私は人を愛せない。ありのままを受け入れるなんて無理!

という思いと、
人を無条件に愛せるようになったら、すごい成長を遂げられるぞ
という気持ちが交錯していました。

この観念を唱えるたびに、
いままで愛を向けていなかった他者に申し訳なさも感じたりしました。

『私は人に愛されている』とは、
私は価値ある大切な存在なのだと、
ありのままのそのままの自分を
無条件で受け入れられている
ということです。

もし人が、私のことを寝食ができなくなるほど嫌っていたら、
おそらく私は葬られてこの世にいないでしょう。

極論ですが、人に殺されないで生かされていることに、
心から感謝が湧き上がりました。

そして今の私があるのは全ての人の働きのおかげだし、人に受け入れられていることに感謝することが究極だなぁと思いました。

『私は人を愛しています』は、ありのままの相手を受け入れ、相手を喜ばせることをする。愛を出していくということです。

イエスが教えた最も大切な二つの戒めは、
神を愛し、隣り人を愛することでした。
隣り人とはあらゆる人のことです。

人に感謝し、人に喜ばれることをする(人に愛を出す)ことが大事だという結論に至りました。

そして、

『私は人に愛されてない』という観念は、
『自分が思うような愛し方をしてくれない人が許せない』という許せなさだったのかもしれません。

その許せないところにフォーカスするのではなく、相手の感謝できることにフォーカスしていこうと思いました。

この新しい観念を唱えてもまだ、他人を愛する感覚は湧いて来なかったのですが、先日、愛するペットのハムちゃんを亡くしたことをきっかけに、他人を愛する感覚が湧いてくるようになりました。

長くなりましたので、その話はまたどこかで。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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