見出し画像

まちへのラブレター:参加のデザインをめぐる往復書簡.乾久美子・山崎亮

まちへのラブレター参加のデザインをめぐる往復書簡.乾久美子・山崎亮.2012年.学芸出版社.

ほぼ10年前の本である。わたしの日本のまちづくりの知識は、日本の大学の知り合い研究者の枠の中に限定されており、日本のコミュニティデザインや都市開発についてそれほどよく知らない。往復書簡の登場人物の二人の名前は、聞いたことがあったが、どのようなことをされているのかはよく理解していなかった。完読したのち、この10年間で、「参加」に関しての二人の意見は変化したのかどうかが気になった。

この本を紹介してくれた方が、「仲がいいのか悪いのかわからない二人の掛け合い」と言っていたが、読み始めて納得がいった。のっけから驚かされたのは、乾さんがイントロを担当。山崎さんのことを「あ、また口だけの人だ。」と評することから始まった。

北欧の街づくり。。。森づくり

作らないデザインとは何か

「ワークショップの場をデザインする必要があると思うのです。」

「まちへのラブレター」より

実際に建築やランドスケープをデザインするのではなくて、皆が活動できる場所をデザインするという意味で、リビングラボのデザインととても近いことをおっしゃっている。

ワークショップの目的はデザインだけではない。そこに集まった人たち同士をチーム化し、計画の推進力になってもらうための主体形成ワークショップと言う側面もある。

「まちへのラブレター」より

アクティビティをデザインするだけではなくて、人々の考え方に変化をもたらす(「主体形成」と言っている)ためというのもワークショップの目的だと。つまりワークショップはこの文脈では一回完結ではなくてもう少し長いスパンの「コミュニティ形成」の文脈で捉えられている。

建築の場では、建築家はずっと自分のコンセプトを外在化化するためにデザインをしてきたり、一方的に相手を理解したつもりになったり、いわゆる「偉い人・専門家」として市民や使い手と対峙してきたこととの対局として、新しい動き「直接生活者に聞く」というアプローチが見られているということもわかった。

皆が街づくりに参加するクリスチャニア


地縁型コミュニティとテーマ型コミュニティ

これだけ人が移動する社会になった今、地縁型コミュニティーの再生を目的にするだけではプロジェクトが成り立たなくなるし、そもそも楽しくないので参加者が増えない。むしろ今多くの人に受け入れられているコミュニティーはテーマ型なんだろうと思います。同じ趣味や嗜好の人たちが集まるコミュニティー。これをどのように公益的な活動へと結びつけるのか。あるいは地縁型コミュニティーを刺激するための媒体として活躍してもらうのか。こういうことを整理すれば、きっとテーマ型コミュニティーと地縁型コミュニティーはうまい協働を生み出すことになるだろうと思っています。

「まちへのラブレター」より

コミュニティは、縦横無尽にさまざまなコミュニティから構築されて、多くの人たちが複数のコミュニティに所属しているということが、ますます増えてくるし必要になってくるんだと思う。これは、平野啓一郎のいう「分人」で、いろんな役割を持った人が、土地にもつながっているし、趣味や嗜好にも繋がっているという形がいいんじゃないだろうか。

コミュニティに関しては、ジョン・ロールズの公平性の原理が紹介されていた。ロールズは「こいつは公平だぜ」と思えるプロジェクトの参加形態には3つの原理があるといっているのだそうだ。第1の原則は自ら主体的に参加しようとする人を集めてプロジェクトをスタートさせること。第二の原則は、集まった人たちの意見を聞きながらプロジェクトを進めること。第3の原則は、そのプロジェクトを外から眺めていて「私も参加したいな」と思う人がいつでも入ってこられるようにしておくこと。これは確かに納得がいく。と同時に「公平」ということを民主主義的に考えることができない場合は、どのようにアプローチしてコミュニティの公平性を確保するんだろうとの疑問も出てくる。

がっかりしない建築

理論は立派なんだけれど形になった瞬間にがっかりする

実現した建築物を見るとあぁこうなっちゃったんだ」と思うことが、建築家の中でもあるというのが目から鱗だった。その理由として、ハードとソフトが両方とも住民抜きで語られていて、コンセプトには住民の主体的な活動がほとんど含まれていなかったりするんだという。どのコミュニティーを生み出すべきなのか。合意形成の場をどう構築するのか。住民はどんな役割を担うのか。その辺も仕組みも含めて提案しなければ、建築家が思い描いていたビジョンは実現しないことが多い、ということを感じてきた著者たちだからこそ、コミュニティのデザインに注目しているんだということがよくわかった。

同時に、デンマークの誇る建築事務所ゲール・アーキテクトがやっているようなものとはちょっと違うなとも感じた。ゲールの建築アプローチは、もはや建築家がプロジェクトを引っ張るんだっていうトップダウン的考え方がなく、もうちょっとコンセプトの部分に利用者が参加していたり、最終的に街の人たちにまちづくりを任せるための導線がたっぷり引かれているからだ。

なにはともあれ、今まで建築家のかっこいい哲学的な言葉と実践との乖離に感じていた違和感の理由が明らかになった。

建築家が提示する都市像はいずれも魅力的なものです。ガルニエの工業都市の時代から、常に「健康的な労働」と「笑顔に満ちた家庭」と良質のコミュニティー」が描かれています。ところがそれを具体的な建築の形として提示した途端、人の姿が消えます。

「まちへのラブレター」より
今までの蓄積で街ができる

終わりに

例として出される建築家や哲学者の名前を知っていることが前提になっていて(説明はあるけれども)、建築的哲学的表現がわからなかったので、かなり私にとっては難しい本だった。

そして、最後まで読み通してみたものの、違和感は最後まで続いた。違和感が続いたのは、必ずしも建築家を知らないからというだけではなかったと思う。現時点の結論として、本書は、ベースに人ではなくモノ(建築)やコト(コミュニティ)があるからだととりあえず思っている。もしくは、もっとシンプルに、話し手の乾さんも山崎さんも、建築の知見をベースにしているからなのかもしれない。

山崎さんのいうコミュニティデザインは、コミュニティという何かをデザインすることだ。「なぜ住民参加が必要なのか」という問いに対して、主体形成、合意形成、そして、現代社会社会における疎外感を乗り越え、まちづくり、新しい公共圏の形成が必要だからという視点は、確かに間違ってないと思う。だけれども、そうじゃないなぁ…とちょっと違和感を感じてしまうのは、私が、建築のベースもなく、北欧の参加型デザインやリビングラボに影響されまくっているからかもしれない。街はみんなで作っていくものだ。「社会はみんなで構成するものだからだから住民参加が必要なんです」という、一見シンプルででも100年模索されていた民主主義と住民参加の歴史がある。コミュニティを構成する「人」をベースにする民主主義実践の北欧の参加型デザイン北欧のリビングラボは、コミュニティはもちろん重要なんだが、人が主体であるという基本を忘れない。

コミュニティー論は、北欧では、民主主義と切っても切れない関係である点が違いなのかもしれない。ある意味、欧州や米国で発展してきたコミュニケーションやコミュニティの理論、民主主義の考え方は、長い間議論されてきたが故に、多くの理論と視座が提供されている。それがあるから、モノの考えからの脱却が必要であること、人が重要であることが、ことあるごとに認識する仕組みがあちらこちらに組み入れられている。人の理解につながり、人を中心に考えさせる指向性を持つ土台に乗っかれなかったり、左に寄るのがいけないと考えてしまって身動きがとれなくなる日本社会は、ちょっとかわいそうでもある。

クリスマス


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?