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海の音 海の風

初めての一人暮らしは埼玉は所沢だった。

お風呂とトイレが一緒の1R。ピアノ可の物件だったのでアップライトのピアノを置いていた。休みの日は朝の9時からピアノの練習をしていた。
そしたら隣の人から壁を叩かれるようになった。これが人生初の壁ドン(リアル)である。当時はそんな言葉もなかったが。この話はまたいつか…(壁叩かれるのしんどいよね)(ちなみに次に住んだ家も下の階の住人からの壁ドンがすごかった)


静かだ。あまりに静かだ。
ちょっとずつ独り暮らしに慣れていく中で、当初から感じていた違和感があった。
日中はそれほど感じないのだけれど、夜がとにかく静か。寝る前が一番静かなのだ。なんでそう思うのか布団にくるまりながら考えていた。

そうだ、波の音が聞こえないんだ。

私の実家は海から歩いて30秒ほど。小学校、中学校と海のそばを歩いて通っていたし、犬の散歩は砂浜がデフォルト。夏休みはエブリディ海水浴。水着で出かけて帰ってきたら外で素っ裸になって軒下で水を浴びて勝手口からお風呂に入っていた。
それだけ海は身近であって当たり前のものだった。

波の音。

24時間常に寄せては返しているわけだから波の音が消えることはない。もしかしたら母のお腹の中にいるときからすでに聞いていたのかもしれない。生まれてから聞こえなかったことが無いから意識したことがなかった。
長野出身の友人のお母さんが、お嫁にきた当時は波の音がうるさくて眠れなかったと言っていたのを思い出した。

独り暮らしをしてから初めて帰省した日。2階の私の部屋の窓を開けてみた。じとっと湿り気を帯びた風がふきつける。鼻をくすぐるのはかすかな潮の匂いだ。意識してきく波の音は思ったより大きい。


私の父は房総の血は入っていない。
祖父は福島、祖母は沖縄の人だから、父に房総人の血は流れていないのだ。それでも、父はどっからどう見ても海の男で、まぎれもない房総人だ。

人をその土地の人たらしめるのは血ではなく、記憶と言葉なんじゃないかと私は思う。
生まれ育った土地で見たもの聞いたもの、話した言葉、肌をなぜる風、気温に湿度、天候や行事、風習と習わし、聞こえる音。共通の記憶と言葉を持つことによって、その全てが自分の中で混ざり合って流れているような気がする。

地元で過ごした時間よりも、もうすぐ東京で暮らした年月のほうが長くなる。

それでも、ソレは確かに私の中に流れている。きっとこれからも流れ続けていくのだろう。

私もやっぱり海の女です。

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(ハワイのハナウマ・ベイがかすむほどの"天津の磯"感を出してくる父)

海にいきたい。


最後までお読みいただきありがとうございます。娘のおやつ代にさせていただきます…!