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あなたの知らない千と千尋 第6回「錯覚」


錯覚

トンネルから出た三人は、寂れたヨーロッパの駅舎のような不思議な空間に出てきた。

柱には古いランプのような照明器具があり、丸みを帯びたベンチがいくつも置いてある。かつては多くの人がこの場所を利用していたようだ。鋳物でできた水飲みからは、水がぽたぽたと垂れている。天井の分厚い壁に丸い窓がとり造られ、色ガラスから日の光が床にまで差し込んでいる。懐かしいような、寂しいような不思議な空間である。この景色の中に、色々な意味が込められている。

照明には、未来への希望や展望という意味が示されている。明かりがあると心が安らぎ、大きく強い光は状況が好転する兆しになる。しかし、ここでは、その照明に明かりが入っていない。つまり、ここには希望や安心がなく、事態はどんどん悪い方へ進んでいくことを匂わせている。

木製のベンチは、人が集い、座り、休むものである。空間の中に置かれたベンチは、置き方によって用途が変わってくる。対面しているベンチでは、知らない者同士であっても、向かい合った人とのコミュニケーションが始まる。逆に背中合わせのベンチは、コミュニケーションの否定ともとれる。千尋たちが出てきた空間に置かれているベンチは対面にはなっていない。対面になっていても話をする距離には置かれていない。つまり、ここに集う者は、社会的対話を否定している空間であることが分かる。

ベンチは空間を作り、その空間が社会を作る。ベンチの置き方ひとつでその場の意味が大きく変わる。この場面をよく見ると、出口に近い暗がりの中に、ベンチが山積みになっている。壊れたベンチには将来の不安や信用や信頼を失うという意味がある。まさしく千尋が今抱えている将来への不安が暗示されている。

さらに蛇口からの水漏れのイメージは、悩みやストレス・病気のサインといわれ、心理学的には、血液やリンパ系の病気を示唆していると言われる。千尋は、十歳の女の子。心と体の成長期であり、精神的に不安定な時期でもある。大人になる事への千尋のストレスを表現しているとみるのは考え過ぎだろうか。

この空間にはポジティブなイメージが全くない。戸惑いと不安を感じながらも、遠くに電車の音が聞こえ、父と母はその方向に向かって進もうとする。
電車に乗っていると心地よさを感じ、ついウトウトしてしまうことはないだろうか。トレインリラックスという言葉があるように、電車の音や揺れには「ゆらぎ」があり心理的安心を生む効果がある。不安な空間にいるからこそ、安心感のある電車の音に惹かれるのだ。

その電車の音に導かれるように、千尋たちは建物の出口に向かって進んでいく。ここで注目すべきは、千尋が何気なく振り向くシーンがある。このとき千尋は、トンネルの出口が三つあることに気が付く。「あれ、私たちどこから出てきたんだっけ」という千尋の声が聞こえるかのようである。千尋たちが出てきたのは、向かって一番左の出口である。おそらく、父と母はどの出口から出てきたか全く気にもかけていない。千尋自身も何かちょっと気になるが、その理由を自覚していない。そう、またトンネルを通って帰るのだ。同じトンネルを通らなければ同じところには帰れない。

三つある出口は真ん中が強調され、左右の出口は建物の柱で隠れている。「三択真ん中理論」というのがあり、三つあると真ん中を選んでしまうという心理が人間にはある。明らかに千尋は、自分の出てきた出口を見失っている。

未来に希望がなくても、安らぎがなくても、私たちは人とコミュニケーションをとって生きていかなければならない。それは精神的に苦痛を生み出すこともあるかもしれない。それでも、私たちは人と人の間で生きていく。当然ストレスも多い。だからこそ、心の安心を求める。家族や愛する人、大切な友人、大自然や宗教。しかし、それを手に入れるのはなかなか難しい。だから安易にお金や物に安心を求めたりする。それがまさしくバブルの時代の象徴であった。私たちは過去に戻ることはできない。先に進まなければならない。それが生きるということなのだ。しかし、千尋はそのことにまだ気が付いていない。

さらにこのシーンで不思議なことがある。実はもう一つ別のトンネルの出入口があったのだ。千尋たちがこの建物の外に出ようとする出口の右側に真っ暗なトンネルの出入り口がある。しかも、よく見ると建物が歪な形をしていることが分かる。この建物は四角ではない。建物が歪んでいるのだろうか、それとも世界が歪んでいるのだろうか。私の生きている世界が歪んでいるのか。歪んだ世界にいると歪んでいることが分からなくなる。そうやって神経を麻痺させて生きているのが私たちなのである。何も気が付かない父と母は私たちそのものである。

建物の外に出てみると、目の前には夏草に覆われた平原が広がっている。風が吹き、大きな白い雲がゆっくり流れていく。あちこちに大きな顔の石像があり、朽ち果てた家もある。父は「間違いないテーマパークの残骸だ」と得意げに呟き、自分たちが出てきた建物を見上げる。明治時代の時計台のような建物が立っている。その上についている時計は十時三八分位を示している。

ん?トンネルに入った時間は何時だったか。


to be continued
大乗山 経王寺「ハスノカホリ no.53」より


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