【雑記】2022/06/09
最近は、実存についてよく考えている。実存とは、実存主義の文脈ではなしに、逐語的な、つまり「現実存在」という単語そのままの意味を逸脱しない用法での実存である。
私は、実存とは何であるか?と考えるとき、それは自由だと考える。しかしそれは、絶対的なものからの排斥(指弾といえるかもしれない)によって生じた消極的な自由で、実存とは自由である、というよりはむしろ、実存は自由であらざるを得ない、と表現する方が、私にはしっくりとくる。
つまり、実存とは、(そのままの意味で)神の死と裏腹のものだろう。神というよりも絶対的な(「絶対的」というよりも絶対的な)現出作用こそ、実存に他ならないのだから。「鶏が先か、卵が先か」のように、無限の神(因果)と有限の単純存在の循環を平板化してしまう(カンバスに密着させてしまう)のが、実存というものの有様なのだ。
また、私は実存にまとわりつく(蒼然たる)「自由さ」には、文法が存在しないのだろうと思っている。すなわち、実存とは、常に表出されるものの外側にある。ここに何らかの神的なものを見出すことは不可能ではないだろうが、私はそのことよりも先に、懐胎のイメージが先行する。即ち、自らでありながら、不可視で、自らでないもの、あえて表現するならば、そのような肉塊が、実存なのである。そこからは、何のまなざしも発されない。実存とは逐語的な意味で即自であり、また他者である。私たちの根本であるところの実存は、そこから何も語ることがない。私たちは浮遊している。私たちは端的な自由を有しながらも、事実的な意味で束縛され続ける現象界で悶える存在だ。私たちは、既にして保有しているはずの自由を夢見て、醒めている、存在しないということが定義の他者に向かって祈ってしまうのだ。そのことは徹底的に、私の認知の不徹底によるものだが、それでもなお、実存は私であり続けている。実存は、私の腹に隠れている。
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